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 そして翌朝、目をこすりながらいつもより五十分早くおうちを出た。きっとまだ校内には部活の朝練をしている生徒くらいしかいないだろう。


 学校の敷地に入り、馬車から降りると、胸いっぱいに清浄な空気を吸い込む。朝早いから空気が美味しいのか、これから先輩に会えるからか。

 あまり朝に強い方ではない私だけれど、先輩に会うためなら毎日だって早起きしてみせる。


 初めて足を踏み入れた図書室は木漏れ日が差し込んで温かく、古本の匂いがした。

 まだテストまで半月あるからか、入り口近くの過去問スペースにもひとけはない。というか全体的に人がいない。


 奥に進んでいくと、本棚に囲まれて机と椅子が数脚設置してあるスペースがあった。自習できる場所のようだ。


 先輩はそこに腰掛けて教科書をぱらぱらめくっていた。私が来てすぐ顔を上げる。時間はまだ待ち合わせの十分前だ。


「何してんだ、アナベル」


 本棚の影から顔をのぞかせてこっそり見ていたのだけれど、難なく見つかってしまう。


「今回も先輩に見慣れる時間を取った方がいいかなって」

「今日は普通に制服着てんだろ。こっち来い」


 久しぶりのブレザー姿だったのでドキドキしてしまうのは確かなのだけれど、先輩に呼ばれたからには行かないという選択肢はない。

 ひょこひょこ近づいて行って、憧れのやり取りを仕掛けてみた。


「先輩おはようございます。待ちましたか?」

「おはよう。いや、今来たところだ」


 先輩は察してくれたのか、『待った?』『いや今来たところ』が成立して感動した。

 隣の席に座る。


「前回のテスト、見せてみろ」


 昨日先輩に持ってくるよう言われていたので、スクールバッグからファイルを取り出した。夏休み前に行われたテストの答案用紙たちを取り出して先輩に手渡す。


 先輩はそれらにさっと目を通した。そして心底不思議そうに私を見た。手にしている答案用紙は赤いバツで氾濫している。


「お前って……授業中は何をしてるんだ?」

「先輩のことを考えてます!」

「少しは授業のことも考えてやれ」


 先輩は「でもまあ大体わかった」と呟くと、次のテスト範囲を私に確認させた。教科書を捲る私の隣で、自分も私の教科書を覗き込む。


「一番壊滅的な数学から始めるぞ」


 先輩は私に基礎から教えることにしたようだ。「これはわかるか」「これはどうか」と確認しながら教科書の内容を説明していった。


 その間、私は形容し難い複雑な感情に襲われていた。

 集中したいのはやまやまだけれど、先輩が近い。でも説明を聞きたい。私がちゃんとわかっているか確認するためか、先輩が度々顔を上げるのも心臓に悪い。でも近くで先輩を見たい。


 夏休みの課題をやったときみたいに向かいに座ればよかった。でもそれじゃ文字が逆さまになるから教えにくそうだ。


 三分も経たないうちに、先輩は出し抜けにこう質問した。


「アナベル、今何を考えてる?」

「今日も先輩のこと好きだなって――あっ」

「よし、教師交代だ」


 正直に答えすぎた口を両手で塞いだときには、先輩は椅子をずれていて、先輩と私の間に椅子一つ分のスペースが生まれていた。


「安心しろ。どうせこうなると思って、俺より教えるのが上手い奴を呼んである。遅刻の多い奴だがそろそろ来るだろ」


 先輩がそう言い終わるか終わらないかのうちに足音がした。

 顔を上げれば、姿を現したのは黒髪の男子生徒だ。「よっ」とこちらに手を挙げながら歩いてくる。


「アナベル、騎士科二年のルーカスだ」

「初めましてアナベルちゃん、俺はルーカス」


 彼がにこにこというか、へらへらしながら右手を差し出してくれたので、私も立ち上がって握手に応えた。


「家名はちょっとアレだから、気軽にルーカスって呼んで」

「わかりました、ルーカスさん。よろしくお願いします」


 頷いてから、少し思うところがあって首を捻った。ついルーカスさんのお顔をまじまじと見てしまう。


「もしかしてどこかでお会いしましたか?」

「覚えててくれたの! 実は体育祭のときに一回会ってるんだよ」

「ああ!」


 思い出した。親切に私に声を掛けて、先輩の位置を教えてくれた男子生徒だ。

 先輩が感心したように言う。


「よく覚えてたな」

「私、先輩に関連することなら大体覚えられるので!」


 胸を張って答えると、ルーカスさんは思ったより大きめの声で「あははは」と笑った。腹筋を押さえて爆笑している。面白かったなら何よりだ。


 先輩が座っていた位置にルーカスさんが座って、先輩はルーカスさんの向かいに移動した。

 これ以上ダメなところを見せて先輩に失望されでもしたら修道院に入りたくなってしまうので、気合を入れがてら髪を一つにまとめる。


 かんざしでパパっと後ろ髪をまとめてから、ルーカスさんの説明を一生懸命聞いた。

 先輩は向かいから補足を入れてくれる。


「ねえそれさ、ヴァーンからのプレゼントなんでしょ?」


 開始五分、私の頭が早くもパンクしそうになっているタイミングで、ルーカスさんは私の頭をペンで指さした。かんざしのことを言っているようだ。


「そうです!」


 後ろ髪に手を回し、かんざしのつるりとした表面を撫でながら破顔すると、ルーカスさんは「眩しいわぁ」と顔を背けた。強い日差しに当てられているみたいに手で目を覆っている。


「そんなにヴァーンのことが好きなの?」

「大好きです!」

「じゃあさ」


 ルーカスさんが少し私に顔を寄せ、こしょこしょ話をする体勢になった。でも音量は普通だ。


「アナベルちゃんが頑張って二十分以内にこのページまで終わらせられたら、子どもの頃のヴァーンの話してあげようか?」

「えっ!」

「おい」


 私は顔を輝かせ、先輩は眉間に皺を寄せた。


「何でも聞いてよ。八歳からの腐れ縁だからね、俺」


 ルーカスさんが私に笑いかけ、私は彼が神様に見え始めた。

 幼い頃の先輩のエピソードなんて独り占めしたくなってもおかしくないのに、なんて良い人なんだろうか。


 私はそこから自分でも驚くような集中力を発揮し、先輩とルーカスさんに今まで教えてもらった知識をフル活用して、何とか指定のぺージまで数学の問題集をやり終えた。


「いや、予想の倍上手くいったなぁ」


 二十分後、間違えた問題を先輩が私に教えている間、ルーカスさんはニヤニヤしながら私と先輩のやりとりを見ていた。


「約束の、ヴァーンの子どもの頃の話ね。こいつ今じゃ好き嫌いなんもないけどさ、昔はトマト大っ嫌いだったの。ある日俺とヴァーンがお茶会に行ったらお洒落なトマト料理でてきて。こいつ、何を思ったか大人たちの目を盗んで俺の口に自分のトマトを詰め込んだんだぜ」

「えー!」

「いつの話してんだよ」


 話に耳を傾けながらキュンキュンしてしまう。

 トマトが嫌いだった子供時代。可愛い! しかもいたずらっ子。可愛い!


「この勉強法なら何時間でも勉強できる気がします!」


 気分は先輩という人参を目の前に吊り下げられた馬だ。もっと勉強してもっと先輩の話を集めたい。


「ほんとだね。でも俺も毎日勉強見てあげられるわけじゃないからなぁ」


 ルーカスさんは眉尻を下げて言うと、私に「ちょっと待ってね」と言って腰を浮かせ、先輩に何か耳打ちした。今度は本当のこしょこしょ話で、何も聞こえない。


「嫌だ」


 先輩が普通の音量できっぱり拒否する。ルーカスさんは耳打ちをやめて、私の隣で頬杖をついた。


「でもぜってぇ効果あるぞ? アナベルちゃんのことを本当に想うなら心を鬼にすれば?」


 先輩が苦虫を噛み潰したような顔になる。二人のやり取りをただ見守っている私の顔をチラリと見て、大きく息を吐き出した。


 何だろう。きょとんとしている私と向かい合った先輩は、『本当に渋々』といった様子で口を開いた。


「俺は」

「俺は?」


 ついオウム返しにしてしまう。

 先輩は私から目を逸らし、セリフを読み上げるみたいにはっきりとこう口にした。


「テストで赤点取るような奴は、嫌いだ」


 その瞬間の衝撃といったら、筆舌に尽くしがたい。


 おそるおそる自分の前回のテストに目をやれば、それらは全て三十点以下――赤点だ。


 テストまでの約二週間、私は勉強の修羅と化した。


 先輩とルーカスさんだけでなく、私の勉強への前のめりな姿勢を見かねたロハリーやレイチェルや長兄も協力してくれて、人生でこんなに頭を使った時期はないと確信できるほどだった。


 一週間のテストが終わった次の日、担任のブラウン先生が走って教室に飛び込んできた。伯爵夫人なのにめちゃくちゃ廊下を走っていた。


「トゥロックさん! 頑張ったわねっ!」


 その手はまだ返ってこないはずの答案用紙を握りしめていて、教室が「なんですのなんですの」と騒がしくなる。


「赤点が一個も無いわよ!」

「本当ですか!? そんな、こんな良い点とれたの初めて……!」


 テストをパラパラ見て息を呑む。四十二点、三十六点、三十八点……。一つだけ五十九点もあった。


「先生、この答案用紙もらってもいいですか?」


 私はブラウン先生から答案用紙の束を受け取ろうとしたのだけれど、先生は首を振る。


「まだ生徒に渡す日じゃないのよ。あと二日待って――」

「先生、私はこれをランデール先輩に見せないといけないんです」


 私の鬼気迫る様子と先輩の名前の登場に、ブラウン先生は息を呑み、そしてOKを出した。多分先輩を私のテストの点に関する功労者として認識しているのだろう。


 私は騎士科まで走り、赤点じゃない答案用紙たちを先輩に見せた。


 息を切らして「赤点を取るような奴」じゃないことを証明しようとする私の頭を、先輩は不憫そうな表情で撫でてくれた。


 その後ルーカスさんにも深々と頭を下げたけれど、「ヴァ―ンのあの言葉は俺の入れ知恵で嘘だよ」と聞いて再びとてつもない衝撃を受けた。


 けれど先輩に困ったような顔で「アナベル、ごめんな」と言われてすべて許したし、私のためにやってくれたことなので結局ルーカスさんにもお礼を言った。


 ルーカスさんには後日、トゥロック家から公式にお礼の品が贈られたらしい。

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