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「アナベル嬢、少しお話しできるかな」
髪を靡かせながら歩いてきた彼は、今は教室の扉に手をついている。
令嬢科校舎は女の園なのにやけに馴染んで見えた。周りの令嬢に笑顔で手を振ったりして、いちいち挙動が芝居がかっている。
「ええと、少しなら」
立ち上がろうとしたけれど、フォーサイスのほうが教室に入ってきてずんずん歩いてきた。
私の周りの令嬢たちが道を空けるたび「ありがとう」と笑顔を向けている。その割にはどいてもらうことが前提の歩き方だ。
「僕は生徒会に所属しているんだけど、通常業務と選挙開始の時期が重なる今は、一年で一番忙しくてね。君にアプローチするのは少し先になりそうだと伝えに来たんだ」
「はあ」
私は気の抜ける返事をした。周りの令嬢たちは頬を染めてひそひそと何かを話している。楽しんでいるようで何よりだ。
「えっと、私は先輩一筋なので、いくらアプローチしてもらってもあなたに靡くことはないんですが」
「ヴァ―ン・ランデールだろう? わかっているよ」
フォーサイスが心得ているとばかりに頷くので、反応に困ってしまう。
「そ、そうですか」
「今日はそれだけ伝えに来たんだ、今から業務があってね。じゃあ、また」
フォーサイスは私に手を振ると、また颯爽と言ってしまった。嵐のような人だ。
「長期戦の構えね」
私の周りにいた女の子たちの中で一人だけ、フォーサイスに全く場所を譲らなかったロハリーが呟く。
「ま、とりあえず忘れても大丈夫ってことだよね。『少し後』って言ってたけどその頃には私に飽きてるかもしれないし」
フォーサイスが所属する令息科の校舎は令嬢科と一番遠くて、本校舎を挟んだ反対側だ。かぶっている授業も一つもない。
放課後は服飾研究部か委員会かどちらかで忙しいし、心配する必要もなさそうでよかった。
レイトン・フォーサイスからの一目惚れ宣言より先輩の勇士が記憶を塗りつぶしたこともあって、彼のことはあまり気にしないことに決めた。
それより今日から今学期の部活がスタートする。文化祭は十一月の頭だから、一大イベントであるファッションショーの準備が本格的に始まるのだ。
ますますフォーサイスのことは頭の隅に追いやっていいだろう。
放課後、部活を終えると空が茜色に染まっていた。
少し秋らしくなってきた風を浴びながら、ロハリーとテイラーと馬車乗り場まで一緒に帰ろうとしたときだった。
本校舎の前に男子生徒が三人ほどたむろしているのに気づいた。
そのうち一人が知り合いだったので挨拶する。
「ノートンさん! さようなら」
「おお、アナベルちゃん」
そのまま通り過ぎようとしたのだけれど、ノートンさんことムキムキ三年生は近寄ってきた。もう二人の生徒にも見覚えがあり、多分騎士科の生徒なんだろう。
「ヴァ―ンが教室に一人で残って日直の仕事してるの見たぜ! 行ってみたらどうだ!?」
妙にワクワクした顔で提案された。「もしかしてこの三人は私を待っていたのだろうか。
意図はよくわからないけれど、先輩に会えるなら嬉しい。
ロハリーとテイラーが「行ってこい」と目で合図するので、とりあえず行ってみることにする。
ノートンさんたちにお礼を言って別れ、スクールバッグから折り畳みの櫛を取り出して、髪を一通りとかしながら騎士科校舎に向かった。
二階のA組を覗く。
薄暗い教室にいたのは、ノートンさんの言う通り先輩ひとりだった。
教卓で何か書き物をしていて、多分日誌だと思う。先輩が顔を上げてこちらを振り向く。
「アナベル? どうした?」
「ノートンさんが、先輩がここに一人でいるって教えてくれたんです」
「ああ」
先輩が苦笑して、私は教室に入って先輩に近づいてみた。
騎士科校舎には前にも来たけれど、教室に入ったのは初めてだ。少しドキドキする。
「あいつら急に雑用押し付けてきたと思ったら、俺に気を回してるつもりなのか」
「?」
何に気を回しているんだろう。教卓の横に立って考えていると、先輩が笑った。
「お前、フォーサイスのこともう忘れてるだろ」
「……ああ!」
私もやっと納得した。昼休みに『とりあえず忘れていいか』と思ったせいか、本当に忘れていた。忘れることにかけては優秀な脳みそだ。
「もうすぐ書き終わるから、ちょっと待て」
「はーい!」
待っていることを当然のように許されたのが嬉しくて、元気よく返事をする。放課後の教室で先輩が日誌を書き終えるのを待つなんて、限りなく付き合っているっぽくて良い。
「先輩の机どれですか?」
「それ」
先輩が顎で示したのは、一番窓側の列で前から三番目の席だった。いそいそとそこに向かった私は、椅子に座り、ぺたっと上体を倒して机に突っ伏した。
「えへへへ」
「お前な……」
先輩は一度顔を上げたけれど、またすぐに日誌に視線を戻した。
それを良いことにほっぺたを机にくっつけ、「我ながら気持ち悪いな」と考えたとき、先輩に確認したかったことを思い出した。
「『保健室の女の子』は最近どうですか?」
先輩のファンの一年生女子である。酷い思い出し方をして申し訳ない。
「ああ、あいつな。もう飽きたみたいだぞ。随分前から見ねぇ」
「え!?」
がばりと体を起こした。飽きるって、先輩に飽きたってことだろうか。そんなことがあり得るのだろうか。
「一時的なブームかなんかだったんだろ」
信じられないけれど、先輩がどうでも良さそうにしているので、私も気にしないことにした。ライバルが一人減ってラッキーだ。
今度は机に肘をついて、窓から外を見てみる。これが座学の授業中先輩が見ている景色なわけだ。
開け放たれた窓からは穏やかに風が入り、夕焼けもよく見える。
「中庭の花壇も綺麗に見えるんですねぇ」
「おう。春はもっとすごかったぞ」
先輩が顔を上げないまま答えてくれた。私は少し冷たくなった空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
吐く息に乗せるようにして、ふと思ったことをそのまま口に出す。
「私、いつか結婚して家を買ったら、お庭いっばいにお花を植えてみたいんです」
すごく華やかだろうし、ガーデニングが趣味とかお嬢様っぽくてなんか憧れるからだ。
返事が無いので教卓の方に視線を戻すと、先輩が顔を上げて私を見ていた。目が合っているのに何も言わない彼に首を傾げる。
すると先輩は「なあ」と口にして、少し考えてから私の前まで歩いてきた。
前の席の机に軽く腰掛け、私を正面から見据える。大事なお話なのかもしれない。背筋を伸ばした。
「前も話したよな。俺は男爵家の次男で婿入りの予定もねぇから、卒業後は騎士団に入って平民として暮らそうと思ってる」
「奇遇ですね、私も平民です」
先輩が平民を強調したので、話の行方がよくわからないまま相槌を打った。
「お前の家は下手な伯爵家より裕福だろ。たとえば、お前が知ってる中で一番小さい家を想像してみろ」
「一番……パン屋のフルトンさんのおうち?」
「それより小さい家に住むかもしれねぇぞ」
「うーん?」
「つまりだ、お前には想像もねぇような貧乏暮らしの可能性も――」
先輩が何を言いたいのかやっとわかったとき、口をついて言葉が出た。
「先輩」
話を遮ったはいいものの、何をどう言えばいいのかわからない。
でも今はきっと、いつもみたいに「先輩大好き」にまとめずに、思っていることをちゃんと言葉にして伝えなければいけないときだ。
ちらりと見上げれば、先輩は私が話すのを静かに待ってくれていて、そのことに安心した。考えがまとまらないまま順番に話していくことにする。
「私、未来がどうなるかなんて全然わからないです。あんまり頭良くないし」
夏休みの社会見学でエレナさんに「たくさん考えなさい」と言われてからというもの、真剣に将来のことを考える時間が増えた。
けれど正直、わからないことだらけだった。四十歳の時どうなっていたいか。モデルを人生の職業にするのか。どんな家庭を作りたいか。
「でも、『これは絶対』って言えることがいくつかあるんです」
わからないことを挙げていったとき、はっきりしていたこと。
それは全部先輩のことだった。
「たとえば、先輩が毎日私に『好き』って言ってくれたら、絶対すっごく幸せだろうなってこととか。先輩が毎日私のところに帰ってきてくれたら、どんなに貧乏でもへっちゃらだろうなってこととか。あと――」
指折り数えて思い出しつつ、顔を上げる。
表情はいつもの通り、花が咲いたみたいな満面の笑みだ。
「お家がすごく小さいなら、先輩と同じ部屋にいられる時間が長くなって、嬉しいなってこととか!」
私は世間知らずだし、わかってないことや甘く見ていることなどいくらでもあるのだろう。
でも「先輩がいてくれたら幸せ」という事実だけは、絶対に譲れない。私にとってはこの世の真理だ。
「……そんなことが嬉しいのか」
先輩は少しの間ぽかんとしていたけれど、自信満々で胸を張る私を見て、仕方なさそうに笑った。
「安上がりだなぁ、お前」
「はい!」
「お前がそう言うなら、まあいいか」
「はい!」
ぺっかーと笑えば、先輩も笑ってくれた。
右手が伸びてきて、いつもみたいに私の頭――というより、髪を優しく撫でられる。
嬉しいと同時にドギマギした。前にフォーサイスに手を触られた時は鳥肌が立って仕方なかったのに、すごい違いだ。
でも先輩はすぐに顔を片手で覆い隠してしまった。
「なんで俺ら、お互いと結婚する前提で話してんだろうな……」
「前に先輩に言われた、『俺は自分で思ってるよりお前が好きだってことだ』はやっぱりプロポーズだったと思うんですよね」
私が訳知り顔で頷き、先輩は「違ぇって言っただろ」と呆れたように笑った。