36
夏休み最終日、無事読書感想文と歴史のレポートを終わらせた私は、晴れやかな気持ちで新学期を迎えることができた。
先輩にはもう足を向けて寝られない。
新学期一日目は始業式だけ。朝教室で課題を提出した後、全校生徒が集まって校長先生の長いお話を聞く。
それが終わったらそれぞれ校舎に荷物を取りに行って、解散になる。
場所は講堂だ。かなり蒸していて、大多数の生徒が校長先生に殺意を感じた頃やっとお話が終わった。生徒たちがゆっくり出入り口に押し寄せる。
校長先生の話の間、気持ちよく居眠りをしてむしろ気分がいい私は、「課題はちゃんと終わった」という報告もかねて先輩に会いに行くことにした。
ロハリーにことわってから、令嬢科の列を離れて騎士科の列へ向かう。
令嬢科も騎士科も背の順で並んでいたので後ろから前への大移動になったけれど、私はちゃんと先輩を見つけることができた。騎士科のみなさんがモーゼのごとく道を開けてくれたおかげでもある。
先輩の姿を見つけて笑顔で駆け寄った。
「先ぱ――」
「アナベル、課題終わったか? 提出できたか?」
「ばっちりです!」
相当心配してくれていたのか、開口一番に尋ねられた。親指を上げてグッドサインを作るとほっとしたような表情になる。面倒見がいいところも好きだ。
先輩は昨日私たち兄妹と朝食をとった後、昼頃に帰宅した両親に挨拶してすぐ帰ったので、宿題終了の瞬間を見ていないのだ。
ちなみに歴史のレポートは重い腰を上げた次兄が手伝ってくれて事なきを得た。
「次から計画的にやれよ」
「肝に銘じます」
先輩と二人で少しずつ出入口に近づいていくと、講堂を出てすぐの中庭で、誰かがメガホンを使って大声を上げているのが聞こえた。
見れば、一人の男子生徒が台みたいなものに上って、自分の教室に帰っていく生徒たちに声高に演説をしているようだ。
彼を中心にして五十人くらいはその場にとどまり、その言葉に耳を傾けているようだった。
「あれ、何でしょう?」
少し体を傾けて先輩に聞いてみる。男子生徒の近くには高級そうなシルクののぼりがいくつか立っていて、でかでかと『レイトン・フォーサイス』と記されていた。
「ああ、新生徒会の立候補者だな。年明けに選挙があるから、今から名前を売って票集めをするんだ」
「へえ!」
私は生徒会選挙ではなく、先輩の物知りさに感嘆の声を上げた。説明もわかりやすい。さすが先輩だ。
レイトン・フォーサイスの周囲にははちまきをした生徒たちが男女を問わず複数人いて、チラシを配ったり聴衆に近づきすぎないよう注意したりしているようだ。
「この僕に生徒会長を任せていただければ! この学校にさらなる自立と自由の気運を――」
遠目に眺めつつ通り過ぎようとしたそのときだった。
フォーサイスさんとばちっと目が合った。私は周りより頭が一つ飛びぬけがちなので、こういうことはたまにある。
気まずくてさっと逸らしたけれど、すぐに異変に気がついた――フォーサイスさんの演説がぴたっと止まったのだ。
不思議に思って視線を戻したら、彼がまだ私を見ていたのでギョッとする。
彼は目を丸くし、唇をわななかせて――突如演説台から飛び降りた。聴衆をかき分けてまっすぐこちらに向かってくる。
何故か聴衆から黄色い声が上がったけれど、彼はそれに見向きもせず私を凝視している。
「君っ! 名前は!?」
その勢いにうっすら恐怖を感じ、自分の後ろを振り返った。先輩はフォーサイスさんに私が轢かれると思ったのか、私の手を引こうとした。
「君だ! 背の高い女子! 名前は!?」
しかし彼は驚くべきスピードで進んできて、私たちに逃ける隙を与えなかった。
あっという間に私の目と鼻の先まで来る。先輩から私の手をむしり取る。私の両手を自分の両手で包み込んだ。
触られた部分にぞわっと鳥肌が立つ。
「あ、アナベル・トゥロックです。手を放してもらっても――」
「素晴らしい! なんて素晴らしい――」
私の言葉を遮り、フォーサイスさんが興奮気味にまくしたてる。
「大きさっ! アナベル嬢、僕は君に一目惚れしてしまったようだ!」
「はい……?」
わけがわからず眉を寄せる。
この人は身長を理由に私に一目惚れしたということだろうか。
男子生徒が夢を見るような瞳で宣言した途端、まわりが「キャー!」と歓声を上げた。
騒がれることに慣れているのか知らないけれど、フォーサイスさんが私の手を握り込んだままさらに距離を詰めてきたのでのけぞる。
「どうかこれからは僕の隣に――」
私が全身に鳥肌を感じてその手を振り払うより早く、横から伸びてきた手がその手を叩き落とした。
「許可も取らずに触るな」
不機嫌に眉を顰めた先輩が、私を後ろに庇って一歩前に歩み出た。
フォーサイスさんは露骨に鼻白んだ顔をして先輩を睥睨する。
「彼女に触れるのに君の許可が必要なのか?」
「馬鹿か、本人の許可だ」
「アナベル・トゥロックといえばトゥロック商会の娘で平民……貴族令嬢ではないと理解しているが?」
「同じことだ。令息科の坊ちゃんに騎士科の常識は難しかったか?」
先輩が一歩も引かずにフォーサイスさんに対峙する。
後輩には優しく対応してくれる先輩が誰かを煽る場面など、なかなか見る機会がない。レア中のレアだ。
私は先輩の後ろでその凛々しい姿に見惚れ、心の中では全力で「キャー!」と叫んだ。
先輩の邪魔にならないよう、心の中でだ。
「キャーッ! 先輩、かっこいいっ!」
訂正。実際少し叫んでしまった。
フォーサイスさんが私の反応に目を見開く。先輩を鋭く見やった。
「君、名前は?」
「ヴァーン・ランデール」
「アナベル嬢とどういった関係だ?」
先輩はその質問にすぐには答えなかった。眉間にさらに皺が寄る。
「俺は――」
「私の好きな人です!」
彼が何か言うより前に、後ろから代わりに答えた。
先輩は気遣いができる人だから、公衆の面前で「アナベルは俺に惚れてる」とは言わない。だから代わりに言ったのだ。
私の言葉を聞いて、フォーサイスさんはわざとらしくため息をついた。何やら緩慢に首を振っている。
「アナベル嬢……嘆かわしいことだ。君の身長は、見たところ180cmくらいか? 彼は160cm程だろう。君を男らしく抱きしめて腕の中に閉じ込めるようなことが、彼にできるか?」
顎を上げて偉そうに先輩を見下ろす彼は、「自分にはそれができる」と言いたいのだろう。
実際私よりも身長が高い。185cmくらいはありそうに見える。
私は一瞬考えて、思いついたことをすぐさま実行に移した。
「先輩、すみません!」
先に短く謝ると、先輩の隣に立って、その体を正面から思い切り抱きしめる。彼から「ぅぷ」みたいな声が漏れた。
「腕の中に閉じ込めてもらうことはできなくても、閉じ込めることはできます!」
その姿勢のまま、こちらも口角と顎を上げ、フフンとフォーサイスを見下ろしてやった。
私がヒールを履けば抜かせる程度の背のくせに、先輩を見下すなど許せない。
これまでのやり取りで私はフォーサイスを敵と認識した。もう呼び捨てにさせてもらう。
フォーサイスは「やれやれ」みたいな仕草で髪を払うと、
「説得にはもう少し時間がかかるようだね」
と言い残し、私たちに背を向けて演説台に戻って行った。
偉そうなところとか他人への配慮に欠けるところとか、先輩と何もかも真逆すぎる。
「お前な……」
フォーサイスが去ったのを確認してから先輩が優しく私の手をほどいた。
一歩下がって距離をとり、私に釘を刺す。
「これは俺だから問題にならないだけだからな。間違っても他の男にいきなり抱きついたりすんじゃねぇぞ。どうなるかわからな――」
「はい! 先輩にしか抱きつきません!」
「よし。……ん? いやそうじゃない」
先輩の忠告は続いたけれど、私は笑顔で頷きながら聞き、先輩は「校内にも不審者が出るみたいだから」と私を令嬢科校舎まで送ってくれた。すごく良い日だ。
先輩が私を守ってくれたのがかっこよくて嬉しくて大好きで、総合的にはフォーサイスに少しだけ感謝の気持ちが芽生えたくらいだ。
この突発的な三角関係の噂は、目撃者が多すぎてあっという間に校内に広まったらしい。
特に令嬢科の同級生たちは興味津々だ。
翌日のお昼休み、十人くらいのクラスメイトが私の机を囲んだ。彼女たちはそれぞれお花のような良い香りがするので、気分はまるでお花畑である。
「そしたら先輩が、『許可も取らずに触るな』って言ってくれて!」
「まあ!」
「ロマンス小説みたいだわ!」
「先日観に行った劇よりキュンキュンしますわ!」
そしてリアクションが良いので話していて楽しい。
私の前の席に座って私と一緒にお弁当を広げているロハリーが、サンドイッチを齧りながら口を挟んだ。
「あんたもまた変なのに目を付けられたね。レイトン・フォーサイスって言えば有名人じゃん」
「そうなの?」
私が首を傾げると、周りから口々に「まあ!」「ご存じないんですの!」「アナベルさんったら!」と上品なお叱りの声が飛び交う。
「フォーサイス先輩は現在二年生で、一年生の時から生徒会で敏腕を振るってらっしゃるわ」
「侯爵令息で跡取りに内定していますわよね」
「でも婚約者はまだいないのですわ」
「だから校内でも大っぴらに女性に人気なのよね!」
相槌を打ちつつクラスメイトたちのお喋りを聞く。さすが令嬢たちは情報通で、みるみるフォーサイスの情報が集まっていく。
「婚約者が決まらない理由は女性の好みが厳しいからだと聞いたことがありますわ」
「アナベルさんは初めてのドストライクでいらしたのね!」
「ねぇアナベルさん、とても美しい方ですのに、本当に少しもドキッとされなかったの?」
水を向けられ、卵焼きを口に運びながら少し考える。
「『ドキッと』かぁ」
『大きさ』が素晴らしいと褒められたあのとき、本当のところ少しびっくりした――初対面で私の身長に堂々と言及した人など今までいなかったから、ドン引きしたのだ。
間違いなく衝撃的な出会いではあった。悪い意味でだけれど。
「アナベルがやっと見つけたドストライクなら、もしかしたらしつこく追ってくるかもね」
ロハリーが言い、私が「うーん?」と答えたそのとき、廊下がにわかに騒がしくなった。令嬢たちの黄色い悲鳴が聞こえる。
振り向くと姿を現したのは、今話していたレイトン・フォーサイスだった。