35
二人で私の部屋を後にして廊下を進み、階段を下りて行った。
食堂の前を通り過ぎて厨房を覗く。
「あれ? スミス? ジョナス? マーゴット?」
この時間でも大体一人くらいは明日の仕込みをしていることが多いけれど、厨房に我が家の料理人の姿は見当たらなかった。
ホットミルクくらいなら自分で作れるから問題はない。でもみんなどこにいったんだろう。
先輩から離れ、お布団は近くのテーブルに置いて、小鍋を取り出した。ミルクとお砂糖を入れて火にかける。
先輩はわざわざ近くで私の動きを見ている。面白いんだろうか。
出来上がったホットミルクを自分のマグカップと来客用のコップに入れ、片方を先輩に渡した。
「先輩、どうぞ」
「俺の分も作ってくれてたのか。ありがとな」
リビングに移動し、ソファに並んで座る。温かいマグカップを両手で包んで持ち、ホットミルクをちびちび飲むと、外からも中からもじんわり体が温まってきた。
でもその間にも、窓が風でカタカタ鳴るだけで何となく気になってしまう。
「それにしても、何が起きてるんでしょう……?」
先輩はホットミルクを飲みつつ、視線だけで辺りを見回した。
「いやこれ多分問題ねぇから、戻ったら普通に寝ろ」
「そうなんですか……?」
状況が全くわからないけれど、先輩がそう言うなら信じられる。
ホットミルクを飲み切って厨房の流し台に置き、口もゆすいだ。洗い物は鍋も合わせて明日の朝にやろうと決める。
「部屋戻って寝れそうか?」
「はい、頑張りま――ひいっ!」
頷いた直後、厨房の窓ガラスが突如ガタガタガタッ! と揺れた。これも風なんだろうか。それならきっと突風というやつだ。
私は目の前にいた先輩にまた抱き着いてしまった。
「すみません……」
涙目のまま離れたら、私の表情を確認した先輩が「どうすっかな」と呟く。
「お前このままじゃ眠れないよな。さすがに添い寝するわけにいかねぇし」
「えっ! 先輩がいてくれるなら、私眠れるかもしれませ――」
「ダメだ」
きっぱり断られ、しゅんとして「そうですよね」と小さくこぼす。なんだか今日は先輩に迷惑をかけてばっかりな気がする。
肩を落として落ち込んでいたら、先輩はぐっと言葉に詰まった。そして数秒の膠着状態の後、身体中の息を吐ききるようなため息をついた。
「わかった」
観念したみたいにそう呟いて、お布団を抱えた私を連れてリビングまで戻る。
先輩はソファに私を座らせ、自分もその横にどっかり腰掛けた。
「お前一旦ここで寝ろ。お前が寝たら誰か探して、部屋まで運んでもらうから」
「先輩はどうするんですか?」
「俺は別に大丈夫だから心配すんな。お前を引き渡したら普通に部屋で寝る」
先輩に寝顔をさらす不安が若干あるけれど、このままでは怖くてベッドの上で徹夜する未来が見えている。
先輩がいてくれれば安心して眠れるし、何より先輩が言うんだから良い案な気がした。
ソファの上で横座りして、持っていた布団を肩にかけてくるまる。少しもぞもぞして良い体勢を探した。座ったまま上手く寝られるだろうか。
「もうちゃんと、本格的に寝ろよ。途中で目が覚めたらまた怖くなるだろ」
先輩はそう言いながら私の腕を軽く引っ張って、自分の肩に寄りかからせた。
突然のことだったのでそのまま体重を預けてしまった。これなら寝られそうだけれど、ちょっと不安だ。
「お、重くないですか」
「お前くらいで重いわけない」
淡々とした口調にほっとした。安心して体重を預ける。女性に「重い」とは言わない人だけれど、嘘も言わない人だから信じられる。
先輩は声のボリュームを少し絞ったようだ。私が寝られるようにか、それか単純に距離が近くなったからかもしれない。
手のやり場に少し困って、先輩の右腕を抱き締めたら安定した。
先輩はちらっとこちらを見ただけで何も言わない。私を寝かしつけるのが最優先のようだ。
目を瞑るけれど、無言だと先輩を必要以上に意識してしまう。
「先輩、子守歌のオプションはありますか?」
「歌じゃなくて話ならいいぞ。約三百年前、この地に定住した一族の長は隣国との戦いに勝利してその権力を確かなものにし、後に『建国の父』と呼ばれるアンソニー一世が……」
「建国史!」
先輩の口からつらつらと出てきたのはこの国の成り立ちだった。たしかに寝ちゃうけど。
「まだ残ってる歴史のレポートを思い出しちゃって逆効果です」
「そうだったな」
先輩が頷く。眠るのに宿題の憂いは邪魔だ。
「別の話か……お前の家族は、こう、楽しい家族だな」
「兄たちがすみません……」
「使用人一同もだ、この様子を見てると」
「?」
何のことだろうと思ったけれど、先輩は話す気はなさそうだ。
もっと何か話して欲しいと思った。その落ち着いた声に耳を傾けていたい。
「先輩のご家族はどんな方たちですか?」
「うちか? そうだな」
先輩は少し考えているようで、目をつぶったままそれを感じていた。お布団と先輩の体温のおかげでポカポカと暖かい。
外の風や雨の音もいつのまにか気にならなくなっている。
「今度うちにも来るか」
「行きたいです」
私は口角を上げた。先輩のご家族にご挨拶、ぜひさせてもらいたい。
「わかった。また明日話そう。今は寝ろ、アナベル」
とろんと瞼が重くなってくる。先輩の声が少し遠く聞こえて、その肩口にこっそり頬を擦り付けた。先輩の良い匂いがする。
「おやすみ」
おやすみなさい、と返したけれどうまく声になっていなかっただろう。
私の頬にかかった後ろ髪の一部を、優しい手がそっと払った。
毎日先輩からこの挨拶を聞きたいなと意識の端で思いながら、私は眠りの世界に引き込まれていった。
「お嬢様、おはようございます」
カーテンが開かれるシャーッという音がして、いきなり眩しくなった視界に眉を寄せた。目を擦りながら周りの掛け布団を手繰り寄せて縮こまる。
「ラミぃ?」
「お嬢様、起きてください。ランデール様との朝食を食べ逃してもいいんですか」
『ランデール』のラの字が聞こえた瞬間、腹筋をフル活用して起き上がった。
でもまだ目がしょぼしょぼして開かず、ベッドに座ったまま半分寝ている私の手をラミが引く。
超特急で顔を洗われ髪をとかされ服を変えられ、船を漕いでいるうちに私の身支度は終わったらしい。
ラミに手を引かれて、意識がはっきりしないまま階段を下りていく。
「お嬢様、お庭に出ますよ」
「なんでお庭――」
一気に視界が明るくなって、一階の庭に面したバルコニーに連れ出されたようだ。外の匂いがする。
多分まだ半分しか開いていない目でぼーっとお庭を見ていると、そこに二人の人物がいることがなんとなくわかった。
一人は木剣を構えた長兄だ。息を荒くして汗をかいていて、朝から元気だなとぼんやり思った。
そして長兄に相対しているのは。
「おはよう、アナベル」
笑顔で私にそう言ったのは、木剣を片手に、もう片方の腕で額に浮かんだ汗を拭う先輩だった。私はそのあまりの眩しさに存在ごと消滅するかと思った。
「ひゃ、うあ、お、おはようございます」
「まだ寝ぼけてるなお前」
先輩が笑うけれど、私はやっと今覚醒したところだ。
長兄は私のことが視界に入っていないようで、木剣を振りかぶって先輩に挑んでいく。先輩がそれをはじき返し、自分も剣を振って応戦している。
「ようアナベル、昨日はどうだった?」
ガキンガキンと木剣を打ち合う音がする中、声を掛けられて初めて、バルコニーにもう一人がいることに気づいた。
次兄である。
彼は朝の鍛錬に参加した様子はなく、バルコニーの手すりに肘をついて二人を眺めていた。
長兄は体を動かすのも得意で剣の鍛錬をしているところもたまに見るけれど、次兄はモヤシっ子で私と同じくらい肌が白いので、通常運転だ。
「どうだったって、何が?」
先輩から少しも目を離さないまま聞き返すと、次兄はわざとらしくため息を吐きながら「決まってんだろ」と口にした。
「昨夜の『アラン様監修・二人の距離を縮めちゃお! ドキドキ体験作戦』だよ」
「えっなんて? 怖い」
「命名したのはラミなんだよ」
次兄の説明によると、昨夜の蜘蛛騒動や誰もいないのに誰かいる気がする屋敷、たまになる謎の音などは全て、次兄が中心になって使用人のみんなが実行したことだったらしい。
突然揺れた窓やら物音やらドアやら、やっと納得がいった。長兄は普通にすやすや寝ていたそうだ。
振り返れば、ラミがにこっと私に笑いかけた。昨日お風呂で話したとき、一旦諦めたような様子を見せたのはポーズだったらしい。
「もう、本気で怖かったんだから!」
「お前は本気で怖がらせないと意味ねぇだろうが。ヴァ―ンの方は使用人たちの気配で何となく感づいてたっぽかったが」
先輩の昨日の落ち着きぶりを思い出し、同時に昨日先輩に肩を貸してもらって寝落ちしたことを思い出した。
はっと息を呑む。
「私、昨日どうやって自分の部屋のベッドまで行ったんだろう……」
「報告が来てるぜ」
次兄が懐から紙を取り出した。
「さすがに夜二人にするわけにいかないから、ちゃんと見張りはいたんだよ」
兄は報告書を取り出した割に、それを見ずにつらつら喋り出した。その抜群の記憶力はもっと重要なことに使えば良いのにと思う。
「『お嬢様が健やかな寝息を立て始めた後、ランデール様は私たち使用人に呼びかけられましたが、我々は心を鬼にして息を殺しました。ランデール様はお嬢様をお姫様抱っこで部屋まで運び、ベッドに横たえてご自分の部屋にお戻りになりました』。だそうだ」
「えー……うわー……」
「顔キモ」
じわじわ赤くなる頬を両手で包むようにしながら言えば、次兄は端的な悪口を言ってきた。
「で、効果あったか?」
「わかんない……でも、ありがとう?」
兄や使用人のみんなは私のことを思ってその作戦を実行してくれたわけだ。
それで先輩に迷惑がかかっているのは思うところがあるけれど、夜遅くて大変だっだろうに。
次兄がフンと鼻を鳴らして返事をした後、長兄の木剣が先輩によって弾き飛ばされ、長兄は庭の芝生に大の字になって倒れた。久しぶりの激しい運動に体がついていかなかったようだ。
先輩がこちらに戻ってくる。朝の鍛錬は終了らしい。
「先輩、アンドリューお兄ちゃん! 朝ごはん食べよう!」
明るい笑顔で二人に手を振った。夏休み最後の日が最高の日になるような予感が胸を満たした。