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「ご馳走さまでした」
「ごちそうさまでした!」
お腹がいっぱいになった後、リビングで団らんしてから解散になった。長兄は先輩と翌朝一緒に剣術の鍛錬をすることになり喜んでいた。
あとはそれぞれ自分の部屋でお風呂に入って寝るだけなので、次に会うのは明日の朝になるだろう。
長兄と次兄がそれぞれ先輩と握手して自室に引き上げ、私と先輩も二階の廊下で別れる。
「先輩、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
初めて先輩に「おやすみ」の挨拶ができた。嬉しくてにやにやしてしまいながら、ラミを連れて機嫌良く部屋に戻った。
ラミに手伝ってもらいながら湯船に浸かり、全身の力を抜いてリラックスする。
「たくさん話せたし、先輩も楽しそうだったし、良かったな」
「そうですね」
「お兄ちゃんたちも意外と普通だったね」
「一応大人ですからね。使用人の部屋から執事服と片眼鏡を強奪はしますけれど、一応大人ですから」
「あはは……」
お喋りしつつお湯を両手で掬う。入浴剤とお花を入れたからほんのりピンク色で良い香りだ。
こうすると肌も良い匂いになるので、お気に入りの入浴法である。
「しかしお嬢様、ランデール様と距離を近づける作戦についてお忘れではありませんよね?」
「えっ」
ラミが私の髪に香油を馴染ませながら上から覗き込んできたので、二重の意味でぎくりとした。
一緒に夕飯を食べて家族とも話してもらって、それについてはもう十分に達成された気がする。
それに。
「わざわざ私の宿題を手伝いに来てくれて、家に帰れなくなっちゃっただけでも大変なのに、これ以上迷惑かけるのはなんだかな」
素直な想いを口にしたら、ラミは何も言わなかったけれど、私の意見に耳を傾けてくれる。
「ラミ、私のために色々考えてくれてありがとう。でも先輩には今日はもうゆっくり休んでもらおう」
「承知しました。出過ぎたことを、失礼いたしました」
「ううん」
体中綺麗にしてぽかぽかに温まった後、お風呂から上がる。
水気を取って、柔らかくて白っぽいワンピースタイプのネグリジェを着た。また髪の毛の水分を取る。
あとは普通の日と同じように、ラミと話したり脚のマッサージをしたりしてゆっくり過ごした。「同じ屋根の下に先輩がいる」という事実はずっと頭の隅にあったけれど。
「もうそろそろ寝ようかな」
時計の針が十一時を指した頃、私はふわっと一つ欠伸をした。
ベッドに向かおうとしたらラミが立ち上がった。
「お嬢様、少しそこでお待ちになっていてください」
「? わかった」
ぽすんと自分のベッドに腰掛けた。今日中にやらないといけないこととか、何かあっただろうか。
部屋を出ていくラミを見送った後、窓の外を見れば、大分小雨になって風も弱くなってきていた。今なら帰れるだろうけどもう夜遅い。
ラミはなんの用事だろうかと考えていたその時、私の鼓膜が『カサコソ』というかすかな音を捉えた。
「ん?」
反射的に扉側の壁際に目をやって、次の瞬間私は声にならない声を上げた。
拳一つ分あろうかという大きさの巨大な蜘蛛が、カサコソと床を移動していたのである。
「蜘蛛! ラミ! 蜘蛛!」
弾かれるように立ち上がって部屋を飛び出る。私の部屋のすぐ隣は侍女たちの部屋で、いつも呼べばすぐに人が来てくれる。
その扉をついノックもせずに開けた私は、今度は「あれっ」と声を上げた。
「嘘、誰もいないの?」
そういうときもあるのかもしれないし怒るようなことではないけれど、今は緊急事態だ。
私は一旦部屋に戻ってまだ巨大蜘蛛がそこにいることを確かめると、ほとんど涙目になって廊下を走った。
「先輩!」
「うおっどうした!?」
脇目も降らず一番近くの客室まで行き、パニックのまま勢いよく扉を開け放つ。
「蜘蛛が――きゃあ! なんで上裸なんですか!?」
「お前がいきなり開けたんだろうが!」
扉を開けたその瞬間、私の視界に飛び込んできたのは上半身裸のまま頭にかぶったタオルで髪を拭く先輩だった。お風呂に入ったばかりのようだ。
私は目を覆って回れ右をし、先輩が私の文句にド正論を返す。
「くっ蜘蛛、部屋にくっ蜘蛛がいるんです!」
「クックモ……? ああ、蜘蛛な」
先輩が私の横を通って部屋から出る気配がして、私は目を手で覆ったまま勘でそれを追いかけた。
「アナベル、服着たからちゃんと前見ろ」
「はい」
手の覆いを外したら、前を歩く先輩が半袖のTシャツを着た瞬間で、背中や腰が見えたのでしっかりダメージは受けた。
何はともあれ先輩は私の部屋に来てくれるようだ。
「どこで見たんだ?」
「そ、その辺りです」
部屋に入り、私が指差したエリアに先輩が近づいて、椅子やテーブルをずらしながら床を見回す。
私もそろりと部屋に足を踏み入れて慎重に見回したけれど、すぐ後ろでまた『カサコソ』が聞こえたので悲鳴を上げて先輩に突進した。
私に力いっぱい抱き着かれ、先輩は「ウッ」と声を漏らした。
「せ、せんぱ、先輩」
「落ち着けアナベル、見つけたから……ん?」
私の腕をそっと振りほどいた先輩が、何かに近寄ってしゃがみこむ。少し間があってから不思議そうな声を上げた。
「これおもちゃだな」
「え……?」
「ほら」
先輩が蜘蛛の足部分をつまんで立ち上がった。よく見ると背中にぜんまいがついていて、蜘蛛は定期的に足を動かして前に進む動きしかできないようだ。
「なんでこんなおもちゃが私の部屋に――ひっ!」
今度は廊下の奥で、開いていた扉が突然しまったような音がした。文字にするなら『キー……バタン!』だ。
私は飛び上がって驚くことしかできず、先輩は音がした方向を鋭く睨んでいたが、すぐに私に向き直った。
「なあ、お前の家の使用人って――」
「きゃあっ!」
今度はすぐ近くでガタンと音がして、心臓がひっくり返りそうなほど驚いた私は目の前の先輩の肩口に顔を埋めた。
先輩が私の背中を片手でぽんと叩く。
「アナベル、今のは外の風だ」
そろりと顔を上げる。風で揺れた植え込みが窓にぶつかった音だったようだ。
バクバクする心臓を押さえながら、今度は自主的に先輩から離れた。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫……じゃないです」
「みたいだな」
正直に答えると先輩は頷いた。
このままでは絶対眠れないし、一人で自室にいることすらできそうにない。ラミはまだ戻ってこないのだろうか。
「下に行ってなんか温かい飲み物でも作ってもらったらどうだ」
「そ、そうします……ひっ!」
今度は視界の端の廊下の向こうで何かが動いた気がした。黒い布に身を包んだ人が横切ったような。
目を擦るけれどその姿は一瞬で消えた。目の錯覚か何かなんだろうか。
私はブルブル震えて、せめて心を落ち着けるために薄めの掛け布団を一つ抱きしめた。それを抱えたまま先輩に頭を下げる。
「せ、先輩、こんな夜にごめんなさい。ありがとうございました。もう戻って――」
「あー、一緒に行くわ」
チワワのごとく震える私を見かねたらしい先輩が提案してくれて、涙が出そうになってしまう。
本当は怖くて、先輩に一緒にいてほしかったのだ。
「いいんですか……?」
「おう。お前一人じゃ目的地までたどり着けなさそうだし」
そう言って私の手を取って歩き出す。一連の怪奇現象を全然怖がっていないみたいだ。冷静でかっこいい。
私の手が冷えていたのか先輩の手が温かいのか、とにかく温度に安心する。