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「……」

「アナベル?」


 言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

 数秒の沈黙の後、私の口から「ひえっ」とも「ひょっ」ともつかない声が漏れ出る。思わず手で口を塞いで、そのまま先輩を見上げた。


 一度瞬いた先輩が、ごく真面目な表情のまま首を傾げる。


「それどっちだ。いいってことか?」

「えっと……」


 いつもに増して動きが鈍い頭を必死に回す。

 掃除ならいつも使用人のみんなが頑張ってくれてぴかぴかだし、そもそも商売の関係で、急な来客は頻繁にあることだ。問題はないはずだった。


「は、はい」

「よし」


 頷くと、先輩が手を引いて私を立たせる。自分の家の馬車に何か伝えて空のまま帰し、私と一緒にトゥロック家の馬車に乗り込んだ。


 馬車が出発すると、カタカタと僅かな揺れを感じ、目に入るのはいつもの内装。窓の外では何の変哲もない景色が流れていく。


 いつも使っているうちの馬車。

 けれど今私の向かいには、先輩が座っている。


「どういう状況……?」

「お前の課題を手伝いに行く状況だ」


 先輩はリュックを自分の隣に置き、軽く脚を開いて馬車の席に腰掛け、片手で目頭を揉んでいた。仕草がいちいちかっこいい。


「お前、今日は徹夜かもしれないぞ」

「えっ! 一晩中一緒にいられる……!?」

「いや俺は十九時には帰る」


 さらに浮かれかけた私だったけれど、先輩ははっきり断った。これはどんなに頼まれようと絶対に意志を曲げないモードの先輩だ。容赦がない所もかっこいい。


「そうですよね……すみません」


 でもよく考えたら、手伝いに来てもらっといて徹夜に付き合わせようとするなんてありえなかった。

 先輩が私の課題と留年を心配してくれて、手伝おうとわざわざ行動を起こしてくれただけで、とんでもない幸せ者だ。


 馬車は問題なく進んでいき、二十分も経てば私のおうちであるトゥロック家のお屋敷が見えてきた。先輩がうちに来て中に入る事実に今更恥ずかしさを覚える。


 門が開いたので馬車ごと中に入る。玄関に続く道の前で馬車が停止した。

 すぐに外から扉が開かれ、私は何だか少し緊張してしまいながら階段を下りた。


「お嬢様、おかえりなさ――」


 ラミを先頭に、使用人のみんながいつものように出迎えてくれている。

 私に続いて馬車から降りてきたもう一人の存在に、彼らの目が点になった。


「えっと……学校でお世話になってるヴァーン・ランデール先輩。宿題を見るために来てくれたの」

「突然すみません。お邪魔します」


 私が事情を説明し、先輩が会釈した。瞬間、使用人のみんなの顔色が変わる。


 特にラミや執事のジョン、料理人のスミスなど、普段から先輩のことを話しているメンバーは「え!?」と言わんばかりの表情になった。主人に似てポーカーフェイスが剝がれてきたメンバーでもある。


 たしかにいつも話に聞いている『お嬢様の片思い相手』がいきなり現れたら、結構な衝撃にちがいない。ラミは一度会っているけれど、それでも。


「び、びっくりだよね。さっき先輩と話してたら――」

「ランデール様ならお嬢様に宿題をさせられるのですか!?」


 思わずといった様子で私を遮り、声を上げたのはラミだった。

 私の「えっ」という声も無視して、ラミが先輩に歩み寄る。


「いくら『そろそろ宿題を始められては』とお伝えしても、お嬢様は『明日から!』とおっしゃるばかりで……! 可愛いので私たちも強く言えず……!」


 他の使用人もうんうん頷き、先輩に熱い視線を送っている。縋るような表情を向けられて、先輩は若干難しい顔になりながらも、しっかり頷いた。


「あー、できることはします」

「ああ、ありがとうございます……!」


 お屋敷はもはや、突然現れた救世主をもてなすような雰囲気だった。

 その場にいなかった使用人にも事情が伝達され、彼らは「えっあの方が……!?」という言葉のあとに、「お嬢様の想い人!?」ではなく、「お嬢様に宿題をさせられる!?」という述語を繋げた。


 見たこともないくらい笑顔を浮かべているジョンに案内されながら、先輩は声を抑えて私に言った。


「あんまり心配かけんなよ」

「私もここまで心配させてるとは……」


 恥ずかしくなってほっぺたを掻く。


 気を取り直して、玄関ホールから二階に上がる階段を先輩とジョンと上りながら、先輩に話しかけた。


「私の部屋とリビングだったらどっちがいいですか?」

「勉強にちょうどいい机と椅子があって、お前の家族に迷惑がかからないほう」


 私は少し考えた。机と椅子はどちらにもあるので、問題は家族だ。


 父は商談に行き、母はその付き添いで、今日は遅くまで返ってこない。

 兄二人は多分どちらも家にいるけれど、それぞれ仕事と研究で忙しい。先輩に気を遣わせるのは嫌なので無視の方向で行こう。


「うーん、じゃあ私の部屋にしましょう」

「わかった」


 その方が兄二人とエンカウントしなくて済むだろう。


 先輩は平然と頷いたけれど、案内している途中で私は段々恥ずかしくなってきた。

 私の部屋は二階の奥で、白と水色を基調としたかなり広い部屋だ。小さなバスルームやお手洗いもついている。


 先輩と一緒に廊下を歩きながら、変なものがなかったか一生懸命考えた。

 そして思い出した。


「あっ!」


 まずい、先輩を祭っている神棚があった!


 思わず立ち止まり、先輩も合わせて止まった。


 私の部屋の一角に設置された神棚には、先輩にもらったかんざしと先輩の絵が何枚か飾られていて、私は毎朝その先輩に「おはようございます」を言っている。

 生活の一部過ぎて今まで気が付かなかったけれど、後輩の部屋に自分が祭られていたらかなり気味が悪いんじゃないだろうか。


「アナベル? どうかしたか?」


 先輩が私を見上げている。あと五メートルほどで部屋に着いてしまう。

「ちょっと待っててください」と一人だけ先に入るか迷った。そうすれば神棚は片付けられるだろうけど、「部屋にまずいものがある」とバレる。それも嫌だ。


「お嬢様」


 ぐるぐると頭を悩ませていたら、背後からそっと耳打ちしてきた人がいた。身長190cm、我が家の長身執事のジョンである。


「神棚であれば、ラミが先ほど回収しました」

「!」


 思わず振り返った。ジョンがこくんと頷いてくれる。


 うちの使用人たちはなんて有能なんだろうか。痒いところに手が届きすぎる。

 私は感動と深い感謝の念に包まれながら、ぱっと笑顔を取り戻した。


「何でもありません! 先輩、行きましょう!」

「そうか?」


 再び先輩と一緒に廊下を進んで、晴れやかな気持ちで自分の部屋の扉を開けた。扉を押さえて、先輩を通す。


「どうぞ!」

「ああ、ありが――うわっなんだあれ!?」

「え? あっ!」


 部屋に入った直後、先輩が呆気に取られて見つめたのは、私の天蓋つきベッドのすぐ横の壁に飾られている絵画だった。大人が抱えるほどの大きさがあるキャンバスである。


 それは寡黙系天才絵師のロナルドさんが描いたもので、『舞踏』で私と先輩が踊っている一瞬を正確に切り取った、実に写実的な大作だった。


 先輩が何とも言えない表情で私に視線を送る。私はその視線から逃げるように両手で顔を覆い隠した。


 私の背後では多分ジョンが「やっちまった」みたいな顔を隠しきれずにいるだろう。

 あの絵は生活に馴染み過ぎて、有能な使用人たちでさえ見慣れ過ぎて、隠すのを忘れてしまったわけだ。


「あれずっと飾ってんのか?」

「すみません……」

「なんつーか、すげえな。お前のこと結構わかってきたと思ってたけどまだまだみたいだわ。ちょっと見ていいか?」


 先輩は驚きを通り越していっそ感心したらしい。部屋に入ると、絵に近づいて普通の芸術品として鑑賞しだした。

 とりあえず引かれたり嫌われたりはしなかったことと、神棚は問題なく撤去されていることに安心して、私はほっと息を吐いた。


「いやこんなことしてる場合じゃねぇんだった。アナベル、課題持ってこい」

「はい」


 ジョンは別の侍女と一緒に壁際に気配を消して待機し、私はクローゼットに入れていたスクールバッグから宿題を全て取り出した。


 全部抱えて二人掛けのテーブルの上に置く。

 歴史のレポートに数学の問題集が一冊、指定図書の読書感想文、隣国の言語でエッセイの執筆、夏休み明けにテストがある歌の練習表、静物画のデッサン。


 先輩は私の向かいに座り、一通りぱらぱらと確認した。そしてがくりと項垂れた。


「なんで丸々残ってんだよ……」

「すみません……」


 先輩が頭を抱えて、私はやっと先輩や使用人のみんなを困らせたり悲しませたりしていることを本格的に反省し始めていた。

 課題をやらなくても最悪私が困ったり怒られたりするだけで、周りのみんなに迷惑がかかるなんて思っていなかったのだ。


 そのときラミが入ってきて、お茶とお菓子を持ってきてくれた。すました顔でそれらをテーブルに置いてくれたラミは、今も巨大な絵の存在には違和感を持っていないのだろう。


 先輩はラミにお礼を言った後、課題討伐の方針を定めた。


「今回は終わらせるのが最優先だ。数学の問題集は全部答え写すぞ」

「はい」

「音楽のテストは大丈夫なのか?」


 そう言って練習表と書かれた紙をぺらっと手に持つ。この練習表に練習計画や日付、やったことなどを記入するのが音楽の宿題らしい。


「歌は結構得意なので、テストの前日に練習すれば多分大丈夫です!」

「そうか、ならこれも適当に埋めるだけで済むな――待て、一年のときって『夏休みの日記』も課題になかったか?」

「あっ! そうでした、日記だけは夏休みの最初に終わらせたんです」

「日記を?」


 私は立ち上がり、壁際の本棚まで行って、背表紙に目を走らせた。一冊のノートを手に先輩のもとへ戻る。

 中身を見て、最後まで書いてあることを確認した。


「はい。『こうだったらいいな』を書いたので、週に四日は先輩と会ってることになってるんですけど」

「もうそれでいいだろ。俺は問題集移して練習表埋めるから、お前は読書感想文かデッサン書け」

「わかりました!」


 先輩は多分かなり投げやりになっていて、それだけ今の進捗がまずいことがわかる。


 そこからは黙々と作業に集中した。途中でラミが摘めるものを持ってきてくれたときは一旦休憩したけれど、それ以外はずっと課題と向き合った。

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