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社会見学から約三週間。
私はミンミンと虫たちが元気に合唱する中、日傘を差して大きな木の根元に座り込んでいた。
ロハリーがくれた白い日傘に、いつものストレートヘア、レースの半袖ブラウスとマーメイドスカートというお嬢様スタイルだ。
楽しく、同時に実りの大きかった夏休みも、もう明日で終わりである。
あさって始業式があってまた学校が始まるのだ。
十一月には文化祭という貴族学校きっての一大行事があるため、早速その準備が始まるはずだ。
私は『とんでもなくヤバいこと』の存在に薄々気が付いていたけれど、焦りを通り越して悟りの境地にいたので、凪いだ気分で彼が来るのを待った。
「やっぱりいたな」
耳によく馴染んだ声がして振り返る。木陰に収まるようしゃがんでいる私を、大木に手をついて覗き込んでいるのは、制服姿のランデール先輩だった。
「いるだろうとは思ったが、本当にいるんだよな」
「もちろんです!」
大木の向こうで、騎士団本部の入口から出てきた騎士科の生徒たちが次々に解散していくのが目に入った。
何を隠そう、今日は先輩が『社会見学』に行く日。
騎士科の大多数が騎士団本部に社会見学に行くことを知っていた私は、見学が終わりそうな時間に敷地から少し離れた木陰で出待ちをしていたのである。
日付と時間については先輩本人から聞いた。
実は私たち、夏休みの間も週に一回は会っているのだ!
……と、言うとまるで週一ペースで会っている恋人同士みたいだけれど、実態は違う。
夏休みに入ってすぐ、部活の後ブタ美さんの様子を見がてら子豚小屋の掃除をしていたら、そこに先輩が現れた。
先輩も剣術部の活動で週五回学校に来ていて、そのついでに寄ってくれたらしい。動物園デートのときの「ブタ美のところへ行くのか」という質問はその確認だったわけだ。
社会見学の日程はその子豚小屋での会話の中で手に入れた。
よく訓練されたストーカーになってしまった私だけれど、先輩が甘やかすので今後もこの調子で行こうと思う。
「社会見学、どうでしたか?」
「すげぇ勉強になった。騎士って、やっぱかっこいいな」
先輩が小さな男の子のように目を輝かせ、私はそれが可愛くて「ふふふ」と笑った。
自分が笑われてるとわかったのか、しゃがんでいる私の頭を先輩がぐしゃぐしゃかき混ぜる。
髪の毛が乱れてしまうけれど、先輩のために整えてきたようなものなので、先輩なら乱してもいいのである。
先輩といると私は幸せで楽しくて安心して、『とんでもなくヤバいこと』の存在もどうでもよくなってしまう。
『とんでもなくヤバいこと』が忘却の彼方に向かったそのときだった。
「そういやお前、夏季休暇前のテストヤバかったろ?」
突然ブッこまれたできるなら避けたい話題に目を白黒させる。「えっと……」と言い淀んだ。
「お前の担任の、ブラウン先生だっけ? この前バッタリ会って、『トゥロックさんに少しは勉強するように言ってくれませんか』って泣きつかれた」
心底申し訳ない気持ちで担任のブラウン先生の姿を思い描いた。先生が泣くほど私の成績を危惧しているとは。
そして私が先輩の言うことなら素直に聞くというのは、教師陣の共通認識らしい。
雲行きが怪しい話題で居心地が悪かったけれど、
「まあ勉強なんて、進級できるならそれでいいだろ」
「そうですよね!」
先輩があっさりそう言ったので、ぺっかーと笑った。彼はそんな私の頭をまたくしゃくしゃと撫でた。
――けれど、先輩の次の一言が私を再び地獄へ突き落とした。
「あ、夏季休暇の課題だけはちゃんとやっとけよ。あれサボるとマジで進級できなくなっから」
ぴしりと固まる。背筋をひやりとしたものが撫でていった。
おずおずと先輩を見上げる。
「進級できない……?」
それって、もう一回一年生をやるということだろうか。いやいや、まさかそんな。
「お前、まさか」
先輩は私の表情で全てを察したらしい。
さっと目を逸らす私の前にしゃがみ、無理矢理視線を合わせてくる。袖を捲ったワイシャツからのぞいた腕が逞しくてかっこいいなと、思わず現実逃避を始めた。
「夏季休暇の課題、今どんくらいだ?」
「……」
「アナベル」
「ぜ、全然やってないです……」
先程から定期的に私の心に影を落とす『とんでもなくヤバいこと』を白状した途端、先輩は勢いよく立ち上がった。
「バカか!? いやバカだったな! バカわいいっつーかバカだな!」
「返す言葉もございません……」
この二か月間、私の課題はスクールバッグにしまわれたままである。
先輩と動物園デートをしたときはまだそんなことどうでもよくて、『選考会』があった頃も「八月にやればいいや」と思っていて、社会見学に行ったときも「まだ平気でしょ」と思っていた。
ここ最近はお風呂や食事中など、ふとした瞬間に課題のことを思い出しては「ヤバい」と焦りつつ、「明日やろう」と先延ばしにし続けていた。
涙目になっている私を見て、先輩は少し冷静になったようだ。
「いや、責めても仕方ねぇよな」
そう自分に言い聞かせるように呟くと、一度ため息を吐いた。
「今日と明日……今日っつってももう十六時か……」
宙を見上げて何かを考えている様子だ。
真剣に考えを巡らせる先輩の横顔もカッコいい、などと再び現実逃避に勤しんでいたら、先輩が急に私を一瞥したのでドキッとする。
そして次の言葉で私の思考は停止した。
「お前の家、今日行っても大丈夫か」