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高い天井にある無数のライトがランウェイを照らす。モデルたちが舞台袖から次々に現れる。
この日のためにプロポーションとウォーキングを磨き上げてきた、本職のモデルたちだ。
顔の三倍はあろうかという帽子を目深に被っていたり、竹馬みたいなヒールを当たり前のように履きこなしていたり、体中を本物の植物で装飾したモデルもいた。
観客の心を掴んで引き付ける、夢みたいなショーだ。時間を忘れて見入ってしまう。
あの場所を歩くのはどんな気分なんだろう。舞台袖から歩いてきたモデルに、つい自分を投影した。
きっとライトが肌を焼いて、目が眩みそうな中、観客の歓声だけが聞こえる。真っさらなランウェイを進んで、あの黒い手袋が一番美しく見えるポーズを取る――。
自分があのルックを任されたモデルならどう歩くか、どんな表情をするか、どんなポーズを決めるか。
一つ一つ想像しながらショーを見ていた。
すると私の体感ではまだ二十分というタイミングで、キーブルさんが「次が最後だ」と囁いた。
「さあ来るよ。瞬きもしちゃだめだ。見ててほしいんだ、一瞬たりとも逃さずに――」
興奮気味にそう語るキーブルさんが一番、手すりから身を乗り出して舞台袖を食い入るように見つめている。通路から落ちないか心配なレベルだ。
その瞳に宿る強い光を見た瞬間、脳裏に過ったのは親友だった。
「僕のミューズが、思う存分に輝くところを!」
キーブルさんにとってのエレナさんは、ロハリーにとっての私なのか。
そう気づいたとき、エレナさんが非の打ち所がない歩みでステージに現れた。そのままランウェイを進んでいく姿をできる限りを目に焼き付ける。
メリッサ部長が人を惹きつけてやまないカリスマ性の塊なら、こちらは華やかさの擬人化だ。
ショーの最後を締めくくるのにふさわしい、堂々と闊歩するかのようなウォーキング。
エレナさんがランウェイを折り返して舞台袖に姿を消した後、キーブルさんは号泣してしまって、私とテイラーはその背中をさすった。
テイラーは困惑していたけれど、私はその姿にさらなる重圧を感じた――気がついたのだ。
ロハリーがここまでの想いをモデルとしての私に持ってくれているとしたら、私はエレナさんのような完璧なパフォーマンスで、それに報いなければいけない。
「今日は本当にありがとうございました!」
観客が全員劇場から出て行き、モデルや関係者の撤収作業が行われる中、私とテイラーはキーブルさんとエレナさんに頭を下げた。
「どういたしまして」
キーブルさんが泣き腫らした目で、それでも笑顔で言い、エレナさんは微笑む。
そのときヘアメイクの男性が隣の部屋から顔を出した。
「さっきのヘアメイク志望の、テイラーちゃんだっけ? 道具を使わせてあげようか」
「いいんですかっ!」
テイラーが走り出さんばかりの勢いで出て行き、
「アナベルさんはこっちにいらっしゃい」
続いて私を手招きしたのはエレナさんだった。
言われるがままついていけば、到着したのは例のステージで――それも、さっきまでの上からの景色ではない。
目の前にランウェイが続く、まさにステージの上だ。
「少し……歩いてみる?」
「えっ」
驚くけれど、エレナさんは既に右手に一足のハイヒールを持っていた。私が歩くのは決定事項のようだ。
ローファーと靴下を脱ぎ、目の前に置かれたハイヒールに足を入れてみる。シルバーの光沢が美しい、高級そうなピンヒールだ。
高さは10cmだろうか。『選考会』の後から私はそれまでの8.5cmヒールから10cmヒールに乗り換えている。
「どうかしら。サイズは合ってる?」
「あ……合ってます」
教えていないのに。その靴は吸い付くように私の足に馴染んでいて、エレナさんの観察力に脱帽する。
こつんと一歩踏み出して問題がないことを確認すると、細く長く息を吐きだし、すっと顔を上げて歩き出した。
そしてすぐ、「広いな」と思う。
私とエレナさんしかいない劇場に一人分の足音が響く。
経験したことのないランウェイの幅広さだけでなく、壁と天井の遠さが私に孤独と心細さを感じさせた。
――同時に、ワクワクも。
ランウェイの最果てで折り返し、舞台袖近くのステージに立つエレナさんのもとまで戻ってきた。
「ウォーキングは今年から始めたのね」
「は、はい!」
「あなたは将来プロのモデルになりたいの?」
その口調は責めるようなものではなく、終始ごく普通の確認の様相を呈していた。
なので私も、ごく普通に正直な気持ちを答えた。
「わからないです」
「素直でいいわ」
ふふ、と笑ったエレナさんがランウェイに歩み出る。私の側を通り過ぎるとき、彼女が私をエスコートするように手を引いたので、自然とまたウォーキングを始めた。
「まだわからなくていいの。でも、未来にどうなっていたいのか、今から考えるのが大事なこと」
エレナさんの手が歩きながら私の膝に、肩に、腰にそっと触れる。
「三十歳のときはどんな自分でいたい? 四十歳、五十歳は?」
私の身体に染みついた悪い癖がエレナさんの手によって優しく矯正されていくのがわかった。
必要な部分は力強く、それでいて余分な力は抜けた状態。体の使い方がうまくなってすっと脚が軽くなる。
「今のあなたには何があって何ができるの? そして何より、何をしたいの?」
ランウェイの最果てに着いて折り返したとき、エレナさんのエスコートが自転車の補助輪みたいにそっと外れた。
彼女は残り半分の間私に伴走し、ステージに戻ってきたときには今日一番の笑顔を見せてくれた。
「その靴はあなたにあげる。たくさん悩むのよ。応援してるわ」
足を揃え、手を重ねて、深く頭を下げる。彼女は服飾研究部の先輩であると同時に、私の人生の先輩でもあると思ったからだ。
私の人生の大きな分岐点となり、度々思い返すことになる『一年生の社会見学』は、そうして幕を閉じた。