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「エレナ! 貴族学校の子たちが来たよ!」
キーブルさんが声をかけながら近づき、ピアース伯爵夫人がゆったりと立ち上がった。
「ようこそ。わたくしはエレナ・ピアースと申します。エレナと呼んでね。二人とも歓迎するわ」
握手のため右手を差し出す、その動作さえ絵になるほど優雅だ。テイラーと二人で緊張しながら自己紹介を済ませる。
「アナベルさん、『舞踏』では愚息が申し訳なかったわ。『舞踏の失敗で廃嫡になった生徒がいる』なんて噂を鵜呑みにして……キツくお灸を据えておきましたから、許してちょうだいね」
「とんでもないです!」
エレナさんが悩ましげにため息を吐くと、「すべて許さなくては」という気持ちになった。さすがだ。
「私たち、伯爵夫人のショーの裏側をお勉強させていただけるなんて、本当に感謝してます」
テイラーが言い、エレナさんが微笑む。
実はエレナさんはファッション業界の大物で、社会見学が可能なレベルではなかったのだけれど、私とピアース伯爵令息の奇妙な縁がそれを可能にした。
彼の便箋四枚にわたる謝罪の手紙に返信した後、ピアース伯爵家は親戚一同ひっくるめてトゥロック商会のお得意様になってくれたのだ。
私の父もこれで溜飲を下げ、家族ぐるみの付き合いが始まった。ピアース伯爵令息が「アナベルさんの社会見学先には母がちょうどいいかも」と言い出して今に至る。
エレナさんはなんと服飾研究部の元部長で、モデルのエースでもあった女傑。今はモデルを引退し、自分のブランドを立ち上げて、業界の重鎮として君臨している。
つまり、これは『息子のやらかしの負い目』が生んだ非常に貴重な機会なのだ。私にとっては怪我の功名である。
「今からショーの開演までは、劇場の中をどこでも自由に見学なさって。ショーが始まったらステージの上からご覧になるといいわ」
「はい!」
私とテイラーはしっかり頷き、キーブルさんに連れられて劇場を見学して回った。
テイラーはドレッサーの前に座ったモデルさんとそのヘアメイクさんの会話に興味津々で、邪魔にならないよう気をつけながらカリカリメモを取っていた。
私は現役のプロモデルのみなさんからお話を聞いた。どのモデルさんも、私が服飾研究部のモデルだと聞くと惜しみなくアドバイスをくれる。
「私も服飾研究部だったもの」
「ていうか有名モデルなら大体そうだわ」
「仲間意識も強くて、この世界ではかなりのアドバンテージよ」
一つだけ困ったことといえば、ある程度会話が弾むと、彼女たちが必ず私の身長に言及することくらいだ。
「本っ当に羨ましいわ、あなたのそのスタイル!」
「服が映えるでしょうね!」
「身長だけはどうにもならないものねぇ」
その怒涛の勢いに押し流されそうになりつつ、かろうじて「ありがとうございます」と口にする。
とんでもなく美しいプロのモデルたちが私を羨ましがっているという事実は、なかなか信じがたく、同時に私をふわふわとくすぐったい気分にさせる。
そして何より心に残ったのは、まだお客が一人も入っていない状態のステージだ。
「広い……!」
私はまだ服飾研究部の仮設ランウェイしか見たことがなかったから衝撃が一入だ。
天井近くにある関係者用の通路から見下ろす王都一の劇場は、全くの別物だった。
モデルたちが余裕ですれ違うことができる、幅のあるランウェイ自体はもちろん、舞台袖からランウェイまでのステージ部分もゆとりがある。
まだ薄暗くシンとした静けさに包まれているその場所が、ショーが始まるときにはどんな顔を見せるのか。
十六時のショー開幕が待ち遠しくなった。
「ショーの最後には、エレナも歩くよ。一回だけだけどね」
間近に見るステージに夢中になっていた私とテイラーに、キーブルさんが静かに言う。
「エレナはもう十年も前にモデルとしては一線を退いた。それからはブランドの経営と若手の育成に注力してきたけど――早すぎる引退だったと、僕は思う」
空っぽのランウェイを見下ろすキーブルさん。その目に私たちの姿は入っていない。
彼にとってエレナさんがどんなに大きい存在か、その一端を見た気がした。
「エレナはまだモデルとしても一流だ。二人とも、今日のショーはぜひ最後まで見て行ってくれ」
キーブルさんは寂しさをしまって、最後に明るい笑みを浮かべると、また私たちを見学に連れ回してくれた。
テイラーはヘアメイクさんたちに混ざり、私はモデルのみなさんとお昼をご一緒して、食生活や仕事の話もたくさん聞くことができた。
ショーの準備は午後から激しさを増し、直前になると私とテイラーは控え室の隅に身を寄せた。さすがのキーブルさんも私たちに構っていられなくなったのだ。
「このモデル、髪の結び方が違うっ!」
「私のサンダルどこ!?」
「そのドレスもう少し詰めるから動かないでっ!」
優雅なショーは裏側も優雅だと思ったら大間違いのようだ。
怒鳴り声が飛び交い、モデルはヒールで全力疾走。思わずテイラーと抱きしめ合うほどの迫力で、文字通り目が回りそうな忙しさだ。
開演の三十分前になってようやく、息の上がったキーブルさんが私とテイラーを呼んだ。
「ごめんね、放置しちゃって」
「大丈夫です! ショーの前の空気を実際に味わえて感動してます!」
テイラーが笑顔で言い、私もうんうん頷く。
今日一日でわかったけれど、彼女は会話上手で、目上の人にもそつがなくて感じがいい。きっとヘアメイクさんには必要な素養だ。私も見習いたい。
「そう言ってくれてありがたいよ……ショーが見える位置に移動しよう」
午前中見学したときと同じ、ステージ上部にある関係者用の通路に移動する。
そのときから既に、私の肌はざわざわと会場の雰囲気を感じ取っていた。ざわめきや会場のアナウンス、舞台袖でモデルが話す声。
そして観客の熱狂と、胸を焦がすような期待感。
関係者用通路に登った。
視点は全く同じなのに、見える光景は全く違う。
ランウェイを挟むようにして、数えきれないほどの観客が席に着いている。開演を心待ちにしている。
ポップなBGMが流れ、会場のライトはまだ点いていなくて、代わりに色付きのライトが会場をランダムに照らしていた。
その光景に圧倒されているうちに開演時間になった。