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「あ、あの、先輩……」
「ん?」
先輩が私を見上げ、私は反射的に目を逸らした。胸を満たしているのは後悔だった。
「じ、実はお弁当を、持ってきてて……」
「なんでちょっと泣きそうになってんだ」
「さすがベタだったかなって……こんな恥ずかしい感じになると思ってなかったんです……」
この動物園には持ち込みOKの芝生スペースがあって、ピクニックが推奨されているのが特徴の一つらしいのだ。
でも初デートに手作りのお弁当はさすがにベタというか、はりきりすぎというか、ともかく重かった気がしてきた。深い後悔に苛まれる。
けれど先輩は困った顔をするわけでも、びっくりした顔をするわけでもなく、
「ああ、向こうの芝生で持ち込んだものも食べられるのか。いいな、晴れてるし。行こうぜ」
とごく普通の口調で言っただけだった。
私の顔色を見てわざとリアクションを抑えてくれたような気もする。先輩は人の顔色を読むのがうまいと言うか、鋭いところがあって、そういうところも好きだ。
芝生はお昼時でも人が多すぎず、ちょうどいい人口密度だった。少し小高い丘のようになっている場所にスペースを見つける。
レジャーシートまで持っていることにまた恥ずかしさを覚えたものの、先輩は変わらず冷静で、向かい合って座った真ん中にバスケットを置いて開けた。
「すげー、うまそう」
今日はサンドイッチがメインで、それも一個一個かなりボリュームのある食べ応え満点のものにしてみた。
デートが楽しみすぎて昨日の夜から手の込んだ仕込みをしたあげく、今朝早起きしてこのお弁当を完成させた自分を、タイムマシンに乗って止めに行きたい。
「こ、これは鶏肉とタルタルソースとチーズとレタスにしてみました、結構上手くできてると思います。こっちは――」
「待てこれお前が作ったのか!?」
説明の途中で先輩ががばりと顔を上げ、その勢いに少しびっくりしつつ、「手作りです」と言い忘れていることに気づいた。
「そ、そうなんです。あはは、ちょっと重――」
「マジか! すげぇな!」
先輩は一点の曇りもなく、ただ「すげぇ」と思っているように見えた。引かれたり呆れられたりしなかったことにほっと息をつく。
直後、当たり前だと気づいた。先輩は人の好意や善意を無碍にするような人ではない。そんな先輩だから好きなのに、何を不安になっていたんだろう。
恋をすると人は馬鹿になって、嫌われたくないという不安のせいで当たり前のこともわからなくなることがあるようだ。
気を取り直して残りのサンドイッチの説明をした。
一つ一つ具材が違うサンドイッチを先輩が全部誉めてくれるから、私は自然と笑顔を取り戻すことができた。
先輩は最初に唐揚げとソースとキャベツの千切りのサンドイッチを選んだ。包みを開いて大きくガブリと噛み切り、もぐもぐし始める。
「うめぇ」
「良かったです!」
目を細めて味わい、他のサンドイッチにも一つ一つ感想をくれる。
どれも「めっちゃうまい」とか「すげえうまい」といった言葉で、細かくて詳しい感想ではないけれど、その短い一言に全てが詰まっている気がするのだ。
今朝このサンドイッチを準備した自分とか、この二ヶ月料理にかけた時間や努力が全部報われる気がするのだ。
私もいくつか選んで食べる。パンとお肉がよく合っていると思うし、野菜もシャキシャキだ。
「我ながら上手くできたもしれません」
調子に乗って自画自賛しつつ、美味しそうにご飯を食べる先輩をいつまでも見ていたいなと考えていたら、
「好きなのか?」
と問われた。先輩のことならもちろん好きだ。「はい大好きです」と告白する前に、先輩が「料理」と付け足す。
「令嬢って多分あんま料理しねぇだろ?」
「あ、えと」
先輩は私の料理の腕について疑問を持っているようだ。
逡巡したけれど、先輩に嘘を吐くという選択肢はない。
「先輩が、平民になるって言ってたので……できるようになろうと思って、この二か月くらい練習してて」
かーっとみるみる顔が赤くなっているのが自分でわかる。何だか喉がからからだ。
先輩はサンドイッチの次のひと口にかぶりつこうとしていたのに、停止してしまった。
「……そうか」
たっぷり十秒は経った後で、先輩はやっとそう口にした。
か細い声で「はい」と口にしてから、ああまたこの空気だ、と思う。
嫌なわけじゃない。むしろ好きだけれどなんというか、くすぐったさを感じているのは私だけなんだろうか。
先輩はまたサンドイッチをもぐもぐ食べ始め、結構あったそれらをぺろりと完食してくれた。
そして太陽みたいな笑顔を向けてくれる。
「すげー旨かった。ありがとな」
「こ、こちらこそありがとうございます」
美味しそうにすべて食べてくれた先輩のおかげで、作ってきて良かったと思えた。「食べっぷりの良さ」が先輩の無数の長所に追加されて、また先輩が好きになった。
先輩はあぐらのまま周りを見まわすと、ふと芝生スペースの入り口の方に目を留めた。
「なんか飲むもん買ってくる。いるか?」
「あっ、はい!」
飲み物は持ってきてないのでありがたい。先輩が立ち上がって降りて行き、私は一息ついた。
髪を片手で押さえつつ風を感じていたら、少し離れたところに小さな女の子の姿を見つけた。五歳くらいに見えるのに一人だ。
女の子は背の高い木の下で一生懸命ジャンプしていて、二つ結びがそれに合わせてぴょこぴょこ揺れている。
先輩の姿を探すと、今入口近くのスタンドに着いたところのようだ。
私はバスケットが転がったりレジャーシートが飛んだりしないことを確認すると、立ち上がって女の子に近寄った。
「ねえ、何して――あ」
木の下で女の子と同じように上を見ると、黄色い風船が引っかかっているのが見えた。彼女はこれを取ろうとしていたようだ。
腕を限界まで伸ばして、さらにぐいっと背伸びをしたら紐に手が届いた。しっかり掴んで、女の子に差し出す。
「はい、どうぞ」
しかし女の子は風船を受け取ってくれなかった。ぱっくり口を開けて私を凝視している。
「小さい子とは目の高さを合わせること」と聞いたことがあるのを思い出してしゃがんでみたけれど、変化はない。
私は末っ子なので、小さい子との話し方や接し方がいまいちわからない。
どうしようかと思い始めたとき、女の子がどんぐりまなこをぱちりと瞬いた。
「おねえちゃん、お姫様?」
「え?」
「綺麗だし、大きいし、お姫様なんでしょ!」
何故か断定形になってしまった。この場合は普通に「ううん違うよ」と伝えていいのか、それともお姫様のふりをすべきなのか。
昔「お姫様になりたい」と言ったら近所の男の子に「お前みたいなデカいお姫様はいない」と言われたトラウマを思い出した。
「アナベル、どうした?」
「あっ先ぱ――」
背後から足音がして振り返ると、ドリンクを二つ持った先輩が私に歩み寄ってきていた。
「あっ!」
女の子がりんごのようなほっぺを両手で抑え、私の耳元に口を近づけてくる。二つ結びが私の首をかすってくすぐったい。
彼女は何故かこしょこしょ喋りで、こう言った。
「お姉ちゃんがお姫様ってことは、じゃああの人が王子様?」
「うん、それはそうだね」
私はお姫様ではないが、先輩が王子様なのは間違いない。
先輩が呆れた様子で「何の話だ」と言ったとき、遠くから男の人が駆け寄ってきて、女の子は男性を「パパ」と呼んだ。
「ありがとう、大きなお姫様のおねえちゃん!」
今度は風船をしっかり握って、女の子は元気に手を振りながらお父さんと去っていった。
手を振り返して見送ってから、先輩とバスケットやレジャーシートを片付けた。
不思議な気分だ。今の「大きい」は、嫌ではなかった。
全く何の色も含まれていない、事実としての「大きい」だったからだろうか。今まではそれでも十分傷ついていた気がする。
「アナベル、どうした?」
レジャーシートを片づけてバスケットの中に戻し、芝生が来たときと同じ状態になると、先輩が私に手を差し出しながらそう尋ねた。
私のバスケットと自分のドリンクを片手に持って、もう片方の手を私に差し出している。
頬を染め、笑顔になってその手を握れば、先輩も握り返してくれるのが嬉しくて仕方ない。
「何でもないです!」
「そうか?」
「はい。早く残りの動物も見に行きましょう!」
先輩をぐいぐい急かして芝生スペースの出入り口に向かう。
この大好きな人と、そして親友のおかげで、もしかしたら私は少しずつ大きい自分を受け入れられているのかもしれない。