22
テスト最終日、私は自分の机に突っ伏してでろんと溶けていた。
もはや時計のチクタクという音を聞くだけの存在、全く社会の役に立たず、酸素を吸って二酸化炭素を排出するだけのでくのぼうだ。
「トゥロック、せめて最後まで戦え」
背後から来た数学の先生が私の頭に丸めた教科書を軽く当てて、また歩いて行った。周りの令嬢たちはカリカリとペンを走らせている。
そう、まだテスト中である。
この数日間『先輩欠乏症』の症状を紛らわすために一応勉強のようなこともしてみたけれど、数学のテストは強敵すぎて早々に匙を投げた。
一応最後の問題まで目を通してできるだけのことはしたので許してほしい。
ついに解放のチャイムが鳴り、全てのテストが終了した。一週間も毎日テストをするのは長すぎると思う。
テストが終わっても椅子から立ち上がれず溶けていた。先輩にもらったガラスのかんざしを握りしめながら。
周りから「重症ですわね」「お可哀想」「お菓子を差し上げたら元気になってくださるかしら」と口々に私を心配する声が聞こえてくる。令嬢科の同級生たちはみんな優しい。
私はもらった薔薇味のクッキーを咀嚼しながら、のっそり顔を上げた。ロハリーが近づいてくる。
「これはまずい。あたしのミューズが、いまだかつてないくらい冴えない顔になってる」
「先輩が足りない……」
「会いに行けばいいよ。もうテストも終わったんだしデートに誘っても大丈夫でしょ」
私はロハリーに、体育祭の『保健室の女の子』事件を話して聞かせた。そもそも私に「テスト期間だからデートに誘えない」という発想はなかった。
「だからね、その子みたいに避けられたりしたくないから、会いに行くのはよくないかなって」
「あんた馬鹿ね。あんたとその子がヴァーン・ランデールの中で同じ括りになるわけないのに」
ロハリーが呆れた様子で言う。私はびっくりしてやっと体を垂直まで起こした。
「なんで!?」
「だってあんた、ヴァーン・ランデールにちゃんと名前知られてるし」
「当然」という口調で言い切るロハリー。近くで誰かが「そういう問題ですの?」と呟いた。
「『可愛い後輩枠』でしょ? なら大丈夫だよ」
「先輩に会いに行っていいの……!?」
「もちろん」
ロハリーが太鼓判を押し、私は急に体の隅々までエネルギーが行き渡るみたいな感覚を得た。
弾かれるようにがたんと椅子から立ち上がる。
「騎士科校舎行ってくる!」
「道分かるの?」
「……えーっと」
「全くしょうがないな」
「ありがとう、ロハリー!」
一緒に行ってくれるらしい親友に笑顔でお礼を言う。
私は道すがら髪に軽く櫛を通し、しゃんと背筋を伸ばした。長袖のワイシャツ一枚の胸元にリボンをつけ、チェックのスカートという自分の格好も確認した。
先輩に会える嬉しさで笑顔が溢れてくる。
「やっぱりあんたはそうしてるときが一番魅力的」
ロハリーが満足そうに言い、私たちは騎士科校舎に足を踏み入れた。
騎士科校舎に入ったのはそういえば初めてだ。
騎士科はほとんどが男子生徒で、やっぱりガタイの良い人が多いようだ。全体的に騒がしいのはテストが終わった直後だからだろう。
先輩は二年生なのでクラスは二階にあるはずだ。ちなみに一番下っ端である一年が三階、三年が一階だ。
階段を上り、A組のクラスをそろりと覗く。
軽く中を見回せば、私の目がすぐに先輩を捉える。
ほとんど半月ぶりにその姿を拝むことができた。
先輩はワイシャツを肘の上までまくっているだけでなく、ズボンもひざ下までまくり上げて、完全に夏の格好だった。栗色の髪は少しだけ伸びたかもしれない。
机に腰掛けて、誰かと何か話をしている。カラッと笑ったその顔が何も変わっていなくて、涙が出るかと思った。
ロハリーが同じように教室を覗き込んで、私をつつく。
「行ってきな」
「で、でも」
違う教室に入るのって結構勇気が必要だ。しかも半月ぶりの先輩はもはや発光していた。やたら緊張する。
「おい、ヴァ―ン!」
もたもたしていたら背後から馬鹿デカい声が聞こえて、私とロハリーは同時に飛び上がって振り返った。
「アナベルちゃんとお友達来てるぞ!」
「あっムキム――」
私の代わりに先輩を呼んでくれたのは、体育祭の『剣術』で先輩と戦っていたムキムキ三年生だった。何も考えずそう呼ぼうとした私の口をロハリーが素早く塞ぐ。
あまり目立ちたくなかったのにめちゃくちゃ注目を集めてしまったけれど、ムキムキ三年生は善意でそうしてくれたらしく、親指を立ててくれたのでお礼を言う。
「アナベル、久しぶりだな。元気だったか」
「ひゃわ」
先輩が教室の入り口まで来てくれていて、私は慌てて振り返った。
声を久しぶりに聞けて感無量だ。今日もかっこいい。
それもなんだか、新鮮にかっこいい。初めて会ったときに戻ったみたいな錯覚を起こした。その視線の先にいることが恥ずかしい。
心臓が急にテンポを上げて、顔が赤くなっていく。
「げ、元気です。先輩も元気でしたか」
あんまり意味のない質問で時間を稼いでしまった。先輩は前に「風邪ひいたことねぇんだよな」と言っていたのをちゃんと覚えている。
「おう。テストはどうだった?」
「すごくまずいと思います」
「そうか、補習はちゃんと行けよ」
自分のドクンドクンという心臓の音がやけにはっきり聞こえると思ったら、教室も廊下も静まり返っていた。
先輩が変な顔をして周りを見回すけれど、気にする余裕が無い。
「先輩、良かったら、私と」
居ても立っても居られなくて、もじもじしながら本題に入った。顔がさらに赤く染まっていく。
周りの男子学生たちが口々に「おっとー?」と謎の声を上げ始めた。
その音頭に押されるようにして、
「夏休み、出掛けませんかっ!」
一思いに言い切ったら、一気に野太い歓声に包まれた。わけがわからないがにわかにお祭り騒ぎだ。
ロハリーが耳を塞ぎながら「これだから騎士科は」と文句を言うのがかろうじて聞こえた。
先輩が何度か「お前らうるせぇ!」と怒鳴り、それでも落ち着かない周囲に呆れながら、私に向かって何か言った。
「えっ?」
「いいぞって言ったんだ」
「えっ!」
聞き返してやっと聞き取れた言葉に、パーッと顔を輝かせる。
幸せゲージが一気に満タンになった。ずっと先輩不足の状態だったから、乾いた土に水が染み込むみたいにずっと幸せな気持ちになってしまう。
「どっか行きてぇところあるのか?」
「はい! 新しくできた動物園が素敵だって聞いてて」
「お、いいな。俺動物好きだし」
先輩が楽しんでくれそうなデートスポットをラミと一生懸命探した結果見つかったところだ。帰ったらラミにたくさんお礼を言わないといけない。
日付は夏休みに入って一週間後に決めた。ぶんぶん手を振りながら笑顔で別れる。
なぜか騎士科の人たちも私に手を振ってくれるので、先輩の延長で手を振り返した。
私たちが騎士科A組を後にした直後、誰かが先輩に「ほらヴァーン! 今のアナベルちゃん見てわかっただろ!?」と叫ぶのが聞こえた。
先輩の返事は聞こえなかったけれど、一体私を見て何がわかったんだろうかと、少し不思議にはなった。