18
先輩が弾かれたように保健室の入り口を振り返った。
釣られて真似するけれど、特に変わったところはない。
一拍置いて、彼が素早く立ち上がる。目を瞬く私の腕を掴んで立ち上がらせ、保健室の中を見回す。
「アナベル、こっち来い」
「え? どうし――」
「静かにしろ」
口に手の平を押し当てられ、私は先輩が望むならずっと静かにしていようという気持ちになった。
先輩は私を連れて、二台ある空のベッドのうちの一つに向かった。私をベッドに上らせ、自分も乗るとカーテンを素早く閉める。
カーテンがベッドの四方を覆ったその瞬間、ガラガラ保健室の扉が開く音がした。
「ヴァーン先輩ー? いるんでしょ?」
聞こえたのは女の子の声だった。私と同じくらいの歳だろう女子だ。
保健室はしんと静まり返っているけど、彼女は中に入ってきたようだ。
「ヴァーン先輩?」
もう一度呼びかけながら、彼女がゆっくりと歩いているのが足音でわかる。
先輩はベッドの上であぐらをかいたまま微動だにせず、目で私にもそうするよう言っているのがわかる。
衣擦れの音もさせないよう、頷くのではなく、一度ゆっくりめに瞬きすることで応える。
「あっヴァーン先輩ったら、そこにいるんでしょ!」
女の子が楽しそうな声をあげ、唯一カーテンが閉まっているこのベッドに目をつけたことがわかった。
足音がゆっくり近づいてきて、謎の緊迫感を感じる。先輩はそれでも植物のように静かなままで、返事をしないようだ。
心臓がドクドク脈打つのを聞いていたら、カーテンの向こうにうっすら影が見えて、カーテンの接ぎ目から人の指がのぞいた。
それが勢いよく引かれて開けられるその前に、私は喉を手で押さえながら息を吸った。
「あなた」
よく通るその声は、普段の私の声とは全くの別物だ。
先輩が目を見開く。
カーテンの端を握った手がピタッと止まる。
「ここは体調不良の方が休む場所ですのよ。大きな声を出して入ってきて、どういうつもりですの? 私の体調を悪化させたいのかしら」
声色を微調整しつつ、口から出まかせでつらつら喋った。出来るだけツンツンしたキツい口調を心がける。
イメージはそう、高飛車な高位貴族だ。
「ご、ごめんなさい」
女の子がカーテンを離した。少しだけ後退りしたのもわかった。
「わ、私そんなつもりじゃなくて。人を探していたんです」
「全く傍迷惑な方ですこと……フン、まあいいわ。許して差し上げるから、さっさとお行きなさい。次からせいぜい気をつけることね」
「はい」
パタパタと足音がして扉が開く音がし、保健室の中はシンと静かになった。
先輩がカーテンの隙間から外を覗く。彼女はちゃんといなくなっていたようで、先輩はやっと声を出した。
「何だ今の! すげぇな!」
「えへへへ」
私は頬を染めて笑った。先輩は人を褒めるとき真っ向から行く。そういうところも好きだ。
「実は声真似が特技なんです。女性の声だったら大体真似できて」
実はさっきの声は、今日会ったメリッサ部長の声を真似したものだ。気品溢れる声を出そうとした時真っ先に思い浮かんだ人だった。
「たとえばこれはロハリーの声で」
「すげえ!」
調子に乗ってロハリーのハスキーな声を真似しながら言い、
「これはさっきの養護教諭の声です」
「マジだ! 一回聞いただけでもできんのか!」
今度は大人の女性らしい落ち着いた声を真似してみせる。先輩は目を輝かせて、リアクションがとてもいい。心がぽかぽかしてきた。
「いや助かったわ。ありがとな」
「えへへへ」
私の特技が先輩の役に立ってとても嬉しい。歌が好きな延長で、小さい頃意味もなく極めて本当によかった。
「あと、さっき勝手に顔触って悪かったな」
「大丈夫ですよ」
私はベッドの枕の側に横座りしている脚を組み替えつつ、さっきの女の子を思い返していた。
「誰だったんですか?」
「知らん」
「え? でも」
間髪を容れず答えられ、困惑する。親しげだったし、知り合いっぽかったけど。
「本当に知らん。名前もわかんねぇよ。『先輩』って言ってるし一年なんだろうが」
「えっ……」
先輩は淡々としているが、私の体を薄寒いものが走った。親しげだったし名前呼びだったのに、知らない子なのか。
「最近行く先々に現れて、話しかけてきたり食べ物渡してきたりするんだ」
「ああ」
彼女は先輩のファンなのか。昼ごはんの時に見た、先輩への深い好意を瞳に宿した女子生徒を思い出す。彼女は運動着のラインが水色だった気がした。
それなら同じ穴のムジナだ。『先輩大好き』穴である。
つまり、私もやり方を間違えれば、彼女と同じように先輩の迷惑となって避けられる可能性があるということだ!
想像して思わず身震いしてしまう。もっと気をつけなければいけない。
少なくとも彼女のお陰で『下の名前を呼びながら保健室で先輩を探す』のはダメだということがわかった。
物思いに耽っていたら、先輩があぐらのまま軽く身を乗り出し、手を伸ばして私の頭を撫でた。そしてしみじみとこう呟いた。
「お前は可愛いな」
私の顔がボンッと赤くなり、頭からフシューっと蒸気が噴き出た気がする。
今日はなんなんだろう。なんならもうダンスの時点で、とっくにいっぱいいっぱいだったのに。
「ちゃんと俺の都合とか迷惑を考えるだろ。お前はバカだけどバカじゃない」
思わず正座になって、されるがままにしばらく頭を撫でられていた。
先輩は私を大型犬の一種だと思っている節がある。
あと、体に触る前はちゃんと許可を取ってくれるけど、一回許可を取った場所はもういつでも触っていいと思っている節もある。
出来る限り微動だにせず、より長く撫でてもらえるように頑張りながら私は考えた。
出会ってからというもの、私の先輩への想いは留まるところを知らず、どこまでも大きくなり続けている。
先輩はどうなんだろう。初めて会ってから二ヶ月以上。少しは私への気持ちが変わっている部分もあるのだろうか。
口を開きかけたけど、なんとなく聞くのが怖い気がして、私はもう少し黙って先輩に撫でられることにした。