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 最後は途中で脱落した選手も戻ってきて全員が拍手を受け、揃って校庭から退場する。


 その直前、割れんばかりの拍手を浴びながら、先輩はふと自分のTシャツについた『何か』に気付いた。


 それは見たところ血のようで、先輩は怪我をしていないはずだから、おそらくムキムキ三年生が頬を怪我した時に付いたのだろう。つまり返り血だ。



 先輩はそれを見つけると、ほぼ一秒も考えずに――ガバリとTシャツを脱いだ。



「噓でしょ!?」


 悲鳴に近い声を上げたのは私だ。両手で顔を覆い、しかし指の隙間からしっかり目を出して、Tシャツを片手に持ってごく普通に退場していこうとする先輩を凝視する。


「先輩! ちゃんと上を着てください! あなたが全校生徒を見惚れさせてどうするんですか!?」

「アナベルおち、落ち着いて! ヴァーン・ランデールがTシャツを脱いだところで、みんな大して気にしてないから!」


 ロハリーが私を必死になだめるけど、そんなわけないので納得できない。

 あまりのことに何だかクラクラしてきた。顔が熱い。


「アナベルあなた顔がすごく赤――アナベル!?」


 ロハリーが珍しく取り乱し、私は鼻に異常を感じた。レイチェルも私の顔を覗き込んできて、なんだか慌てているようだ。

 よくわからないままに鼻を啜る。何かが口に入って鉄の味が広がった――鼻血だ。


 驚いて両手でそれを隠した瞬間、無視できない音量で周りがざわついた。


 顔を上げれば、待機スペースと校庭を区切るロープを素早く飛び越えて、先輩が真っすぐ私に向かってきていた。


「お前、どうした? さっきの競技でどっかぶつけたか?」

「いえ、あの……」


 彼が私の顔を覗き込み、ロハリーが慌てて引っ張り出したティッシュを何枚か受け取って、鼻を抑える私の手に握らせた。


「小鼻の辺りを抑えろ。ぶつけたわけじゃないんだな?」


 また確認されるけれど、否定も肯定もできない。


 こんなところで正直に「先輩の上半身に興奮しただけです」と言うのはハードルが高すぎる。というか口が裂けても言えない。


 しかも私は気づいてしまった。鼻血を出した私を見つけて校庭を横切って来たらしい先輩は、まだTシャツを脱いだままだ――元凶が目の前なのである!


 先輩のせいなのか鼻血のせいなのか、さっきから顔が熱くてクラクラする。先輩は視線の覚束ない上に耳まで赤い私を見て何か思うところがあったらしい。


「アナベル、保健室行くぞ。腕回せ」


 先輩が私の手を取って自分の首に回させた。わけがわからずされるがままになっていると、背中と太ももの裏に先輩の手が回って、体が仰向けにフワッと浮いた。


 これ、お姫様抱っこだ。


「無理です! 無理です!」


 気づいた瞬間叫んだ。半裸の先輩のせいで鼻血が出てるのに、元凶がすごく近づいてくる!

 脳が処理できる情報量を越えていて、私は馬鹿みたいに「無理です」と繰り返した。


 先輩はその「無理」を体重や身長を気にしての「無理」だと思ったらしく、「いやできてるだろ」と不思議そうにしながら、さっさと歩き始めた。


 校庭の反対側にある救護テントより校内の保健室が近いと判断して向かうようだ。


 自分へのダメージを少しでも少なくするため、私はギュッと目をつぶった。

 唯一状況を正しく理解しているロハリーからの「気をしっかり持つんだよ!」という声を先輩の背中越しに聞いた。裸の背中越しに。


 保健室に着いたときはもはや息も絶え絶えだった。体温が上がりすぎて、先輩に椅子に下ろされたときクッションが冷たく思えたくらいだ。

 実際保健室は日陰だからひんやりしていて、中も静かだった。僅かに薬のにおいがする。


「先生、鼻血です。ティッシュもらいます」


 先輩は前にも保健室にきたことがあるようだ。振り返った養護教諭は先輩の姿を見とめると、膝を怪我した別の生徒の処置に戻った。

 保健室には真っ白なベッドも二つ置いてあるけれどカーテンが開いていて、今は私たちとその生徒しかいないようだ。


 先輩は勝手知ったる様子で進み、ティッシュを持って戻ってきた。それを私にわたすと、火照った額に手を伸ばしてくる。


「うお、熱……お前ちゃんと水分とってたか?」


 先輩がまた何かを取りに行った隙に、汚れたティッシュをゴミ箱に捨てて新しいものと交換した。鼻血の付いたティッシュとか、あんまり好きな人に見られたいものではない。


 鼻血はやっと止まってきたけれど、明らかに元凶が私から離れたおかげだ。


「これ飲め」


 先輩が持ってきたのは紙コップで、スポーツドリンクが入っていた。保健室の冷蔵庫に入っていたようだ。


 受け取ってありがたく飲む。水分はちゃんと取っていたけど、応援のしすぎで喉が渇いていたから嬉しい。乾いた喉に冷たいスポーツドリンクが染み込んでいった。


 先輩は氷嚢も同時に持ってきていて、椅子に座っている私の横に立って首に当て始めた。


「気持ち悪くないか? 横になるか?」

「あいじょうぶれす」


 鼻をおさえたまま答えた。鼻血と体の熱さのせいで熱中症患者だと思われているようだ。


 膝を怪我していた生徒が処置を終え、養護教諭は「彼をクラスまで届けてくる」といって保健室を後にした。


 つまり保健室には私と先輩だけだ。

 半裸の先輩である。私はできるだけ先輩を視界に入れないことで心の平静を保っている。


 外では閉会の言葉が始まった頃だろうか。

 試しにティッシュを離して見てみると、もう血はついていなかった。涼しい部屋で首を冷やしたおかげで体温も大分下がっただろう。


「先輩、ありがとうございます。ちょっと顔洗ってきます」

「おう」


 保健室には水道もある気がしたけれど、私はわざわざ廊下にある水道で口周りを洗った。先輩に見られるのが嫌だったのだ。

 ポケットに入れていたハンカチで拭いて、化粧室の鏡でまだ汚れているところが無いかチェックする。


 保健室に戻ると、先輩は水道でTシャツの一部を洗ったところのようだった。


 血を綺麗に洗い落とせば、ちゃんと上を着てくれるかもしれない。

 そう期待したけれど無駄だった。先輩はTシャツをギュッと絞ると、それをそのまま近くに置いたのである。


「き、着ないんですか!?」

「濡れるだろ」


 いきなり大きな声を出した私を、先輩が変なものを見る目で見ている。


「何か着るものもってないんですか!?」

「今日全員家から運動着着てきたし、何もねぇよ」


 先輩は「別に帰りは馬車だし問題ない」と言わんばかりである。

 問題大ありだ。このままではせっかく止まった鼻血がぶり返す。


「あっそうだ! 私のTシャツ着てください」

「馬鹿馬鹿馬鹿」


 自分のTシャツの裾をガッと掴んだ私の腕を、先輩がガッと掴む。


「わかったなんか探す、探すから」


 先輩に「少しも動くな」と厳命され、私はソファに腰掛けた。


 おそらく運動着を忘れた生徒に貸し出す用の無地の黒いTシャツを発見した先輩は、「多分大丈夫だろ」と言ってそれを着たので、あわや鼻血再びの危険はなくなった。


 無事上体を隠した先輩が、私の横にどっかり腰掛ける。一件落着だ。


「先輩、迷惑かけちゃってすみません。ありがとうございました。戻りましょうか」

「は?」


 立ち上がろうとしたら、手首を掴まれて引き戻された。再び柔らかいソファにぽすんと座り込む。


「お前校庭であの長い校長の話聞いて、また熱中症ぶり返したらどうすんだ。もっと休め。ここにいろ」


 全体的にキュンとした後、私はどうするべきか少し考えた。

「先輩も一緒にいてくれるのかな」とか「先輩が何かをサボるなんて珍しいし不良っぽくてかっこいい」とか色々思ってしまう。


 けれど、そもそも私は熱中症ではない。


 至れり尽くせりで私の世話をしてくれた先輩にこれを伝えないのは、騙しているのと一緒だ。心配してくれている相手にとっていい態度ではない。


 私は優に十秒は悩んだ後、「口が裂けても言えない」と思っていたことを伝えようと決めた。


「先輩……こっち、来てください」


 保健室に他に人がいないことはわかっているのだけれど、私は先輩を手招きした。言われるがまま距離を詰めてくれた先輩に、もじもじしながら蚊の鳴くような声で告げる。


「私、熱中症じゃないんです。先輩がTシャツを脱いで鼻血が出ただけなので、気にしないでください」

「は?」


 言ったそばからブワッと体が熱くなる。


 先輩はまた赤くなり始めた私を少し眺め、


「俺のTシャツとお前の鼻血に何の関係があんだ」


 と当たり前の疑問を口にした。ぼかして伝えてしまったし、不思議になるのも当然だ。


 私は視線を彷徨わせて言葉を探し、


「その、先輩がTシャツを脱いだから鼻血が出ただけなんです」


 と口に出した。何の説明にもなっていないしさっきと同じである。

 案の定先輩は「だからなんでだよ」と怪訝な顔をしている。


 私の頭ではこれ以上婉曲な説明は見つからず、自分で手招きしたくせに先輩の距離の近さももう限界で、とうとうヤケクソになった。


「だから! 先輩の上裸に興奮して鼻血が出ただけなんですってばっ!」


 言い終わった瞬間、顔を両手で覆って羞恥に悶える。


 私は一体何を言っているのだ。先輩は一体何を聞かされているのだ。


 先輩の表情は見えないのに、「ものすごく残念なものを見る目」で見られていることだけはわかった。


「お前……」

「はい」

「本当に俺のこと好きだな……」

「だいすきです」


 先輩が長いため息をついたのが聞こえる。


「まあ熱中症じゃねぇなら良かった。鼻血出したのは事実なんだし、やっぱりもう少し休んでから行けよ」


 そう言ってソファに深く座り直したようだ。


 顔を隠していた両手を下ろしてそろりと見遣ると、目線だけこちらに寄越した先輩とばっちり目が合った。反射的に逸らしてしまう。


 やっぱり先輩は一緒にここにいてくれるらしい。

 体調不良の人を一人で置いていかないという気遣いなのか、それとも別の何かだろうか。


 後者だったらいいなと思った。


「先輩――」


 早速尋ねようとした、その時だ。

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