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少しでも楽しんでいただければ幸いです!
「うわ、すげ、デカ女」
そんな言葉がどこからか聞こえてきて、私は思わず足を止めてしまった。でも声がした方向を振り返る勇気はない。
俯いて地面を見つめると、鼻がツンと痛み、視界がじんわり滲んできた。
私はアナベル・トゥロック。身長はなんと180cm。
16歳の女子にしてはかなりの長身で、学校で突然知らない生徒に「デカ女」と呼ばれるのも納得の容姿だ。
170cmと平均より長身の母が190cmの父を選んだことで起きた悲劇だった。ちなみに二人の兄も188cm、185cmだ。
胸下まで伸ばしている真っ直ぐの銀髪はちょっとだけ自慢だけれど、もっぱら私が俯いて泣きそうになるとき顔を隠す役割ばかりしている。
目は青っぽくて、幼い頃は綺麗だと褒めてもらえることもあった。今は私がほとんどの人を見下ろしているせいか、わざわざ目の色に言及する人がいない。
私は昨日この貴族学校に入学したばかりだ。今日は「新入生歓迎会」のために三学年全員が学校に来ている。
貴族学校は緑が多くて、春真っ盛りの今は色んなところでお花や草木の良い香りがする。
でも良い気分でいられたのは昨日の朝までだった。私はいまだに友達が一人もできず、学校で浮いているのだ。
多分身長のせいだけじゃないだろう。
私はこの学校で唯一の平民だから。
私の実家はトゥロック商会という大商会で、父は払える寄付金の多さから例外的に私をこの学校の令嬢科に入れることができた。
でもこんな目に遭うなら、大人しく平民の子が行く学校に行けばよかったと思ってしまう。いや、そこでも浮いていたかもしれないけど。
さっきまで新入生歓迎会で講堂に集まっていて、午後から各教室で学校生活の説明を受けるために廊下を移動している最中だった。
私はもちろん一人で歩いていた。だから目をつけられたのだろうか。
でも泣いたってみっともないだけだ。無意識に止まってしまった足を叱咤して、振り向かないまま逃げるように歩き出そうとした、その時だった。
ゴチン。
文字にするならそんな音が背後から聞こえた。続いて「いってぇ!」という叫び声も聞こえて、思わず振り向く。
見れば、一人の男子生徒が、別の生徒の首根っこを掴んで立っていた。
簡素な鎧は騎士の正装だ。新入生歓迎会で騎士科の先輩たちが着ていたから、騎士科の上級生だとわかった。右手で別の男子学生を猫のようにむんずと掴んでいて、状況がわからず混乱した。
「全く、騎士の風上にも置けないやつだな」
彼はそう言って手元の学生を鋭く睨んだ後、すっと私を見上げた。髪と同じ栗色の瞳が真っ直ぐに私を見据える。背筋が伸びるような心地がした。
「一年生か? こいつがごめんな。礼儀知らずで配慮に欠けてて、しかも頭が悪いんだ」
「ヴァーン、ひでぇぞ。確かに頭は悪いけどよ」
彼は少しだけ眉尻を下げて私にそう言った。彼が捕まえている学生も何か言ったが、私は聞いていなかった。
私はその間、瞬きもせずに栗色の髪の男子学生を――見下ろしていた。
彼は小さかった。子どもという意味ではなく、身長がおそらく160cmかそれより少し大きいくらいだ。
捕まえている学生は私に「デカ女」と言った人だろう。頭頂部をさすっているから、おそらく「ゴチン」という音は彼がゲンコツを喰らわされた音だ。
つまり――この栗色の髪の男子生徒は、私を助けてくれたのか。
「……おい?」
「あっ、はい!」
不思議そうな顔で声をかけられて我に返った。ドクンドクンと主張を始める心臓をさりげなく抑えつつ、何を問われていただろうかと考える。
「あっえっと、大丈夫です!」
『デカ女』と言われたことに傷ついていないように見えるよう、ぎゅっと口角を上げた。
「本当の、ことですので」
我ながら上手に笑えたと思う。
なのに栗色の彼は、二、三秒かけて私をじっと見つめると、徐に手元の男子学生に二発目のゲンコツを喰らわせた。
「イテッ! またかよ!」
「何か言うことあんだろ」
そして顎で私を指す。私はその様子を、呆気にとられて口をぽかんと開けて見た。
仁王立ちで男子学生を見下ろす彼は、声を荒げているわけでもないのに、「絶対逆らっちゃダメだ」と感じさせる貫禄がある。
「……あんた、酷いこと言って悪かったよ」
「いえ、大丈夫です……あの、頭頂部は平気なんですか?」
男子学生が謝罪の言葉を口にしたけれど、私は先程のゲンコツの音があまりにも痛そうだったことが気になってしまっていた。
「ああ、平気平気。俺たち騎士科の二年はよくこうしてヴァーンにゲンコツされるからさ、慣れっこ」
「そうでしたか」
「それよりあんた良い子だなー、酷いこと言って本当ごめんな。あんたが綺麗だからさ、話しかけたくて――イテッ!」
「謝罪の舌の根も乾かないうちにナンパを始めんな」
私が瞬いているうちに、なぜかさらにゲンコツを追加された男子学生は、存外けろりとした様子で私たちに手を振りながら去っていった。
「じゃ、俺もこれで」
「!」
さっきの男子生徒にヴァーンと呼ばれた栗色の彼も、私に背を向けてしまう。慌てて声を上げた。
「あの、ありがとうございました!」
彼が足を止めて振り返ってくれる。その視線が私を捉えていることに緊張して、心臓が高鳴るのを必死に抑えた。
「いや、礼とかはいいよ。うちの奴が迷惑かけたな。それじゃ――」
「き、騎士科の方ですよね」
会話が終わらないように頑張って言葉を探す。一年生は午後の説明会が始まるまでまだ時間があるはずだけれど、二年生はどうなのだろう。
彼は少し瞬きすると、私にちゃんと向き直って右手を差し出した。
「ああ。俺はランデール男爵家のヴァーン・ランデール。二年生だ。よろしく」
「アナベル・トゥロックです! トゥロック商会の長女です。アナベルって呼んでください」
握手に応えるとき、全身が沸騰しそうに熱くなった。彼は手の皮が分厚くて剣を握る人の手だとわかった。
私が手汗が大丈夫だったかドギマギ心配している間に、彼は「ああ」と納得したように頷いていた。
「貴族ばっかりで嫌な目にも遭うだろうが、校内は階級を取り払ってただの学友同士って決まりだからな。あんまり気にすんなよ」
「は、はい!」
「ただ、伯爵家以上にはあっちから話しかけられない限り近寄らないのが得策だ。どうしても身分にこだわる奴らってのはいるから」
「なるほど……!」
「あとはそうだな、令嬢科でも剣術の授業をとってる奴らは、身分にうるさくないのが比較的多いはずだ。話しかけるならちょうどいいかもな」
「わかりました!」
ブンブン頷きながら、聞いたことを一つもこぼさないよう一生懸命覚える。
ノートかメモでも持ってくればよかった。教室に荷物を置きっぱなしで手ぶらの自分が悔やまれる。
「とりあえずそんなとこか……顔赤くなってんな、体調悪いか?」
「い、いえ! 元気です! たくさん教えてくださってありがとうございます」
顔を覗き込まれた途端、頭から湯気が出ているかと錯覚するくらい体が熱を持った。
顔が赤いのは彼と話しているせいだけれど、少しだけ、頭が情報でパンクしていることも関係あるかもしれない。
「……お前、記憶力は良い方か?」
「はい! すごく悪い方です!」
「良い返事だな」
彼がおかしそうに笑い、私の心臓が飛び跳ねる。さっきからその一挙一動に反応してしまって、運動した後みたいな疲労さえ感じる。
会話を終わらせたくなくて必死に時間を稼いだ。
「えっと、ランデール様は……」
「お、様付けで呼ばれたの初めてだ」
彼がカラッと笑って、私の心臓が今度はバク転宙返りを決めた。そろそろまずい。これ以上は健康に支障が出る気がしてきた。
するとちょうどチャイムの音が響いた。午後の時間が始まるまであと十分の知らせだ。周りの生徒たちもパタパタと急ぎ足で移動し始める。
「やべ。着替えねぇと――じゃ、無理しない範囲で頑張れよ」
私にそう言うが早いか、彼はあっという間に走り去っていった。簡素とはいえ鎧を着ているのに私より足が速そうだ。
茫然とその後ろ姿を見送り、ほとんど無意識に自分の教室まで帰って席につき、教師からの説明を心ここにあらずの状態で聞き流した。
『ランデール先輩』と、心の中では何度もそう唱えている。
痛いくらい脈打つ心臓が、彼のことを思い出すだけで上気する体が、勝手に漏れ出る吐息が教えてくれる。
それは十六歳にして訪れた、まさしく初恋だった。