002 王城からの脱出
後始末を急がねばならない。
牢番の一人は小柄であったため、服のサイズは合いそうだ。彼女は牢番の上着とズボンを脱がせ、牢の奥の隅のほうへと引きずっていった。
壁のほうを向かせて寝かせ、その上に莚をかけたのは、彼女の身代わりとするためである。できるだけ脱獄の発覚を遅らせたい。
貫頭衣を脱いで、牢番から奪った服に着替えた彼女は、次にもう一人の牢番の死体を引きずって牢を出た。
隣の牢の鍵を鍵束から何とか見つけ出し、扉を開けるとそこに死体を引きずっていった。
騎士の男をどうするか迷ったが、実は殺してはいないのだ。ただ、呆けたように空中の一点を見つめつつ、だらしなく開いた口からは涎が垂れている様は死んだほうがマシだったと言えるかもしれない。
とりあえず手を引いて移動させ、別の牢へと入れておいた。すでに思考力を無くしているのか、極めて従順な態度であった。
あと、騎士の持っていた剣を使用して、彼女は自身の長い髪を自ら切断した。貴族女性にとっては命とも言える長い髪も逃げるには邪魔になる。
躊躇なく切った髪は、まとめて縛ったうえで懐に入れておいた。この豪奢な金髪をどこかの商家にでも売れば、かなりの収入になりそうだったからだ。
もちろん、騎士や牢番の懐を漁って、現金や金目の物(宝石等)を物色したのは言うまでもない。もはや侯爵令嬢としての矜持などどこにも見られなかった。
…
学院の卒業パーティーは正午過ぎに始まったため、まだ夕刻にはほど遠い。
さらに今は牢に入れられたばかりであり、誰かが夕食を持ってくるのはもう少し後になるだろう。だが、逃げるなら早い方が良い。
一人の騎士と二人の牢番が行方不明になっているのだ。時間が経てば経つほど不審に思う人間が出てくることだろう。
彼女の格好は牢番もしくは王城の(末端の)使用人であり、俯いて歩いていれば、咎められることはないはずだ。
明るさに目を細めつつ、ゆっくりと半地下牢のあった建物から外へと歩き出した彼女だった。
なお、短くなった髪と牢の床のほこりで汚した顔を見て、彼女のことを侯爵令嬢と思う人間は誰もいないはずである。
問題は王城の敷地内から市井へと出る方法だ。当然、門番が睨みを利かせている。
どう考えても協力者が必要だ。
…っと、そこへ一人の侍女が通りかかった。アリエルを裸にして貫頭衣に着替えさせた侍女だった。
辺りに他の人通りは無い。
アリエルは侍女の左手の甲、皮膚のすぐ内側に空気の塊を生成した。
「痛っ!」
侍女は蜂にでも刺されたと思ったのだろう。直径1cmくらいの半円状に膨らんだイボを見て眉をしかめていた。
彼女は侍女へと近づいていき、こう言った。なお、できるだけ低い声になるように心がけたのは言うまでもない。
「それは僕の能力だよ。君の顔一面にいくつものイボを生じさせても良いんだけど、僕に協力してくれるなら止めといてあげるよ」
「はん?何を言ってるの?」
嘲笑するような顔になった侍女の右手の甲にもイボを生み出してやったアリエル。
「痛い!」
侍女の顔が恐怖に染まった。どうやらこの少年が言っているのは本当のことらしい。
女性にとってイボだらけの顔など、恐怖以外の何ものでもないのだ。
「わ、分かったわ。何を協力すれば良いの?」
どうやらアリエル・ラルーシュ侯爵令嬢とは気づかれていないようである。
「うん、王城の外へ怪しまれずに出たいんだよね。うまく出れたら解放してあげるよ」
「わ、分かったわ。今ちょうど外へお使いに出るところだったのよ。だから、あなたを従者として連れて行くわ」
こうして全く怪しまれることなく、門番の前を通り過ぎ、王城の外へと出ることができたアリエルだった。
王城の門番の姿が見えなくなった頃合いで、アリエルは侍女を解放した。
ただし、別れ際に脅しておくことを忘れてはいなかった。
「このことを誰かに言ったら、君も処罰されるよ。共犯ってことだからね。あと、僕が捕まったら君の顔はイボだらけになるよ。忘れないでね」
無言でこくこくと頷いているだけの侍女だった。
さて、これからどうするか?
ここ王都にはラルーシュ侯爵家のタウンハウスがあるものの、そこへ向かうつもりは無い。
自分の娘を政争の道具としか見ない父親と、息子だけを溺愛し、娘に全く関心を持たない母親、そして妹を虐待する(内弁慶で屑野郎の)兄しかいないのだ。使用人たちもそんな彼女を見下していた。
とりあえず、男のフリをしてどこかの宿屋に泊まり、明日には王都を脱出しよう。そう心に決めたアリエルであった。
王都を出るのは、自分の能力を検証するためだ。
今日初めて人間相手に自分の能力を使用したけれど、無制限に連発できるのか、それとも上限となる回数が存在するのか、心臓付近と脳内ではどちらがより効率的なのか、攻撃対象としてもっと良い臓器が存在するのではないか等、動物や人間相手に様々な実験を繰り返さなければならない。
そして、能力の詳細が分かったその時こそ、この国の王族と貴族たちへの復讐が始まるのだ。その対象には王太子とその取り巻きたち、彼女の家族、もちろん元凶である平民女も含んでいる。
いっそのこと、王都民全てを皆殺しにしても良いかもしれない。赤ん坊だろうが、老人だろうが…。
そういう妄想を抱きつつ、彼女は一軒の小綺麗な宿屋へと入っていった。