結 ディアーヌ・デ・ラ・セルダの場合
アラン王子の呼び出しに従い応接室へ向かったときの、わたくしのどんよりとした気持ちは一掃されました。
応接室を出たわたくしの足取りは来たときに比べ遥かに軽くなりましたもの!
勝手知ったる王宮の中、わたくしの足は徐々に速まります。
だれもが認める優雅な淑女の所作を身に付けたと自負していますが、もう淑女なんてどうでもいいのです。
わたくしはわたくしに戻ることができるのです!
だんだんと淑女というにはあり得ない速さになり、とうとう走り始めてしまいました。
だって、こんなことがあってもいいのでしょうか?
こんなことが、ディアーヌ・デ・ラ・セルダの身の上に起こるなんて!
意識は半ば混乱していますが、冷静にならなければいけませんね。
こんなことが自分の身に起こるとは思ってもいませんでした。
あの王太子が。幼いときからわたくしの婚約者で、成長すれば頼りない王子になってしまったアラン・ド・ヴィルアルドゥアンが、王太子の地位を返上するなんて!
王族を抜けるなんて!
わたくしとの婚約を解消すると言うなんて!
そんな戯言を、まさか国王陛下が許すなんて!
まさに驚天動地!
ですがこれは好機! 千載一遇の幸運! いまを逃したらわたくしはわたくしの本懐を遂げられません。
心の奥の奥、ずっと奥の深いところに幾重にも鍵をかけて隠しとおしたこの気持ち。
たったひとりの殿方をずっとお慕いしていたこの想い。
もうわたくしは王太子の婚約者ではなくなったのです!
あのお方をお慕いする気持ちを隠さなくともいいのです!
わたくしはある目的地を目指し、長いスカートをたくし上げて走りました。走りながらも魔法で伝書蝶を作り出し、父ラ・セルダ公爵へ王太子との婚約が解消された旨を伝えました。
父は驚くでしょう。王家との結びつきを強めるはずだった婚姻が、まさかの消滅。驚いた父はわたくしを責めるかもしれません。公爵家の面汚しと罵倒するかもしれません。もう娘と呼んで貰えないかもしれません。
それでも。
それでもいいの。
たとえ家から捨てられても構いません。わたくしは王太子との婚約が解消されたことが何よりも嬉しいのです。
国王陛下のご命令で成立したこの婚約に、異を唱えることはできませんでした。
凡庸で頼りないアラン王子の補佐として王太子妃を務められるのは、わたくし以外ありえないだろうと理解していましたもの。
傲慢な考えではあったけれど、同年代の令嬢の中でわたくし以上に賢くうつくしい令嬢は他にはいなかったのだから。
わたくしから見たアラン王子は怠惰で享楽的。必要不可欠な基本的勉学からも逃げ続けるような、情けなく頼りない男でした。
それでも、彼は他者の良いところを認め取り入れる寛容さを持ってましたから、わたくしが上手いこと煽ててそれなりの形式を保つことは可能だろうなと推測していました。
しかし、これから先この凡庸な王太子の御守と尻拭いをする人生なのかと絶望していました。
それが『王国のため』だと自分自身に言い聞かせていたのです。王国が正しく続くよう、歯車のひとつになるのだと達観していたのです。
ディアーヌという『個』を消し、ほぼ惰性で生きてきたようなものでした。
けれど。
王家の方から婚約解消を告げたのです。もう『王国のため』に生きなくてもいいのです!
自分のために、ディアーヌのためにこの先の人生を歩んでいいのです! たとえそれが公爵家の意向に沿えなくても構いません。
わたくし、すべてを捨ててもいい。
たとえ一時でも、あの方の視界に入ることができるのなら。
わたくしを見て、わたくしの名を呼んでくだされば。
たったひとこと、好きとお伝えすることが叶えば。
そして、あわよくば。
この身にお情けをいただければ。
もう、死んでしまっても構わないの。
「アルフォンソさま!」
わたくしが目指したのは王宮の一角に設立された薬学研究所。
「ディアーヌ? え? いったい、どうし……!」
薬学研究所の最高顧問であるアルフォンソ・ド・ヴィルアルドゥアンさま。
わたくしは彼の胸へまっすぐに飛び込みました。
国王陛下の年の離れた弟君。
輝く金の髪と翠の瞳。あの王太子殿下と同じ色彩を持つ王弟殿下。けれどわたくしにとっては愛しい初恋の君。
「どうした? なにから逃げてきたんだ?」
難なくわたくしを抱きとめてくださったアルフォンソさまが、なにやら剣呑な雰囲気を醸しだして尋ねます。
そうですね。淑女は走ったりしないものです。
淑女の鑑と謳われるわたくしが走り込んできたのですもの、なにかに追われていたと考えるのは妥当でしょう。
「君に不埒なマネをしでかす輩がこの王宮にいたのか?」
そう言いながらわたくしを抱き締めてくれるアルフォンソさま。
いつも研究一筋で人嫌い・女嫌いでご結婚もしていません。
それでも昔からわたくしにだけは優しくしてくださるのです。
「いいえ、アルフォンソさま。逃げてきたのではありませんし、わたくしに不埒なマネをする不届き者もおりません。わたくし、すべてを捨ててきたのです」
「捨てて、きた?」
抱き締めていた腕を緩め、わたくしをまじまじと見詰めるアルフォンソさま。
……嬉しい。
勝手に涙が溢れてしまうけど、許してくださいね。
「わたくし、お役御免になってしまったの。もう王太子の婚約者ではないの。陛下から婚約解消を言い渡されてしまいました」
「え?」
「ですから、ここに来ました……アルフォンソさま」
王太子の婚約者になって以来、あなたさまのことは『王弟殿下』としか呼べなくなってわたくしがどんなに嘆いたことか。
お名前を呼べることが、どんなに嬉しいことか。
この涙は喜びのせいだと、あなたさまに理解していただけるかしら。
「王太子の婚約者でなくなったわたくしは、もう公爵家の娘として失格です。結婚直前で婚約解消だなんて瑕疵のついた娘は、おとうさまを失望させ公爵家から追い出されるでしょう」
「ディアーヌ?」
「もう、死ぬしか道は残されていません」
「なにを……!」
「ですが、そのまえに。死ぬまえに一度でいいの。大好きな人に、大好きですって。正直に、心のままに、本当の気持ちを伝えたいの」
「ディア?」
「アルフォンソさま。だいすき。むかしから、ずっとずっと、ずーーーーっと、あなたのことだけが、好き」
「――」
「抱いてくださいませ……お慕いしております」
そう呟いてその温かい胸に縋り付いたわたくしを、しっかりと抱き締めてくださったアルフォンソさま。早鐘を打つような彼の鼓動が直接耳に響いてきます。
「ディア! あぁ、ディア! 本当なのか? 嘘じゃないんだね⁈」
きつく抱きしめられました。もしかして、アルフォンソさまもわたくしのことを……!
「ディア! 俺の女神。ただひとり、俺の愛した俺の小鳥! きみをこの腕に抱くことが叶うなんて……!」
アルフォンソさまがそう言った途端、薬学研究所内が屋根も吹き飛ぶかと思われるほどの悲鳴のような絶叫のような喚声の嵐に見舞われました。
言い忘れていましたが、わたくし、かなりの人を引き連れて走って参りました。公爵令嬢として知れ渡っているわたくしを、宮殿の護衛は止めるに止められず触れることもできず後をついて来たのです。
研究所の中も無人ではありません。施設のスタッフが大勢お勤めしています。それらすべての人々の耳目と興味を集めつつ、最高顧問室にいるアルフォンソさまの許に飛び込んだのです。
そしてアルフォンソさまは人嫌い、女嫌いで有名でした。
そんなアルフォンソさまがわたくしを受け入れてくれたのです。大騒ぎになってしまったのも、仕方がないでしょう。
でもいいのです。
アルフォンソさまがわたくしを受け入れてくださったから、わたくし幸せですもの。
幼いころからのわたくしの『ディア』という愛称を何度も繰り返しながら、アルフォンソさまがわたくしの顔や髪、至るところに唇を落としてくださる。
その幸せをまえにして、それ以外は些末なことですもの。
◇ ◆ ◇
その後。
ディアーヌ・デ・ラ・セルダ公爵令嬢とアラン王太子殿下との婚約解消は、国王陛下の許可のもと行われたと、宮殿中はもとより貴族の誰もが知るところとなった。
公爵令嬢は王弟アルフォンソの許に身を寄せた。ラ・セルダ公爵と長く揉めたが、孫が生まれたことにより和解する。その子どもが後に王位を継いだ。
婚約解消を言い渡したアラン王太子はその地位を返上。一介の王族としてその後過ごすこととなった。彼は『女性は誰も信じられない』と言い生涯独身を貫いたという。
彼の女性不信の元となった女性の行方は誰も知らない。
とっぴんぱらりのぷぅ
拙作「公爵令嬢は恋をして策略を巡らす」の登場人物と名前、地位、関係性が同じですが、まったくの別物です。
以前のお話との違いをお楽しみいただければ幸いです(*´ω`*)
(ぶっちゃけ、名前考えるのが億劫で使い回し)




