9.傷痍軍人たち
ようやく、二人の気持ちが少しずつ通じて来たような気がする晴れの日。
クラリスはロランに連れられ、屋敷をくまなく探索していた。
大きな屋敷には、思わぬところに障害物がある。それを教えてもらいながら、今日、彼女は初めて屋敷の外に自力で出ることが叶った。
「ここが玄関ね?」
「ああ。もうこれで、クラリスは自由に外へ出られるようになった」
「でも、ひとりでは出られません。不安だわ」
「俺が不在の時は使用人を連れて行ってもいいだろう。ああ、そうだ」
庭を歩きながらロランは言った。
「そろそろ君を社交界に連れて行こうと思っててね」
「あら。何かご予定が?」
「王宮で、戦勝を祝うパーティがある。そこに妻を紹介がてら、顔を出そうかと考えている」
「王宮……行ったことがないです」
ロランは小さくため息を吐いた。
「君の親父も大概だな」
「しかたがないんです。私みたいな者が明るい場所をうろついていたら、弟たちの婚約者が決まらないんですもの」
「……それ、マルセルが言ったのか?」
「はい」
「早くそんなことは忘れろ。俺がどんどんクラリスを表に連れ出してやる」
「本当!?」
声が弾んだクラリスを見下ろし、ロランはむず痒そうに微笑む。
「君は綺麗だから、みんなに見て貰おう。これからは日なたを歩くんだ」
「日なたは楽しそうですけど……私は別に、誰かに見られたいという願望はございません」
「そうか?俺は君が着飾っていると、癒される気がするんだがな」
クラリスは庭のベンチを勧められ、そこに腰掛けた。
「私が着飾ると、癒される……?」
「美しさは、自分にはなかったものだ。君はそれを持っていて、着飾ることによって最大限伸ばすことが出来る。変な話、自分に出来なかったことをクラリスにさせて、悦に入ってるのかもしれないね」
「何だか難しい感情ですね。でもあなたがそれで気分が良くなるなら、いいですよ。私、やります」
クラリスは思う。
彼女にとっての装飾とは、ひんやりしたネックレスやきつめのコルセット、やたらすべりのいい手袋にストッキング。その感覚があるかどうかでしかない。
見られることに無頓着であると、見せる手立てが分からない。そして見せた上でどんな反応があり、どんないいことがあるのかも知らない。つまり、興味が湧かない。
「……いい匂い」
そんなことより、クラリスは外の匂いをかぐのが好きだ。
「バラが咲いているの?」
「なぜ分かった」
「バラの香りがするからよ」
「?」
ロランはきょろきょろとあちこちを見渡し、ようやく柵の向こうにバラの花を見つけた。
「鼻がよすぎないか?」
「そうなの?自分ではよく分からないけど、確かに香りがしたの」
ロランは手近なバラを手折った。
「ほら、これ」
クラリスは目の前に赤いものが差し出されたのを見つけた。
「……私にくれるの?」
「ああ。存分に匂うといい」
クラリスは手を伸ばそうと思ったが、ひょいと手を引っ込めた。
「?」
「ロラン。その花には棘が……」
ロランはそれを失念していた。
「ああ、そうか。見えないから、無闇にものを持つのは危険だな」
「はい。これは知識があったから拒めましたが、そうでなければ握りしめているところでした」
ロランは庭を見渡した。
先の尖ったアイアントレリスに、茨の巻きついたアーチ型のトンネル。動物を模した石膏の置物。目の見えないクラリスがここを歩くのは、明らかに難しい。
「そう言われてみれば、君が歩くにはこの庭は危ないな」
「そうなのですか?」
ロランはバラの茎部分を千切り捨て、花の頭だけをクラリスに差し出した。
クラリスはそれを手に乗せてようやく微笑み、顔に近づける。
「いい香りのものはとても好きです」
「……香りを楽しむ、か。余り考えたことがないな」
「私が失ったのは視覚だけです。そのほかは、とても元気なんです」
「そう考えると、人間は価値観も娯楽も、視覚に頼り過ぎな気がするよなぁ……」
と、その時だった。
遠くからつかつかと、執事の足音がやって来る。
「ご主人様」
「ん?どうした」
「裏口から、屋敷へお戻りください。またあの連中が来ています」
「ああ……」
ロランはクラリスの手を引き上げ、立つように促した。
「ここにいると危険だ。しばらく屋敷に入っていよう」
「まあ。どなたが来ているのですか?」
「あとで説明する」
クラリスはバラの頭を握りしめ、夫と共に再び薄暗い屋敷へと入って行く。
ロランは二階の自室にクラリスを連れて行き、窓辺から玄関周辺を見下ろした。
玄関前に、傷痍軍人の集団が何か口々にわめきながら執事と押し問答している。
その騒ぎが耳に入ったのか、クラリスは尋ねた。
「一体、どなたが……」
「傷痍軍人だよ」
「ショウイグンジン?」
「戦争で戦ったが、怪我をして心身を欠損した元軍人たちだ。たまにああやって、どうにか金を無心しようとうちに来るんだ」
「なぜ、こっちに来るのですか?戦争での負傷ならば、王宮に行くのが筋ではないのですか」
「うちの防具が悪かったせいだと文句をつけに来るんだよ。一概にそうとは言い切れない気がするんだがね」
クラリスは胸を押さえた。
「それは辛いですね。けれど、何かのせいにしていないと不安な彼らの気持ちは分かります」
ロランはクラリスに視線を移す。
「そうか。気持ちが分かる、か……」
「きっと、視力を失った方もいるのではないですか?」
「確かにいるな。目を傷つけられてしまったり、何かがぶつかったりして」
「足や手を失ったりした人だって」
「そういった人間が大半だ」
クラリスは騒ぐ声に耳を傾ける。
「この世は、欠損した人を怖いと思ったり避けたりする人が大半なのでしょう。我々だって、避けられていた一員だったわけですから……あの叫びは攻撃ではありません。嘆きです。受け入れられない嘆き」
ロランは再び窓辺に立つ。
「早く帰ってくれないものか……」
「あら、追い返すのですか?話し合えば分かってくれるかもしれないのに」
ロランはクラリスが思わぬことを言い出したので首を横に振った。
「何をされるか分からんし、要求もエスカレートして行くことだろう。こっちに入れては駄目だ」
「そうですか……」
クラリスはざわめく窓の光に顔を向けた。
戦勝の影に、恐ろしい現実が隠されている。
(何かあの人達の助けになれることが私にも出来たらいいのだけど……。目の見えない私が出る幕なんてないのよね、きっと……)