7.外出
二週間後。
古いドレスを捨て、新たに縫い上げられたドレスに着せ換えられ、クラリスは微笑んだ。
今まで着ていたものより、明らかに着心地がいい。淡いグリーンが春らしく、手で胸元をなぞると真新しいレースのざらざらした感触がする。
クラリスはそれを着たまま、杖を頼りにロランの部屋に入った。
「……どうかしら」
彼女の声にロランは書類仕事をやめ、顔を上げる。
そこには、パールの飾りを黒い髪に差し込まれ、淡いミントグリーンのドレスを着たクラリスが立っていた。
馬子に衣装とはよく言うが、美人に衣装を与えると更に輝く。
ロランはぼうっと妻の美貌を眺め、自身の心の痣が癒されて行くような気がした。
「……ロラン?」
ロランは我に返った。
「……ああ、いいんじゃないか?今日、うちの工房から新しい杖が仕上がって来る」
「本当?どんな杖になるのかしら」
「花模様の彫が入っている杖だ」
「楽しみにしてるわね」
クラリスには、今のところ仕事が何もない。
普通の貴族の奥方ならば、あっちこっちに出歩いて親交を広げ情報を集めたり、子どもを産んだなら教育に力を入れなければならない。だが目の見えない彼女には、させられる仕事もすべきこともない。
だからこそ、自分が彼女を外へ連れ出してやらなければならない、とロランは思う。
「クラリス。今日の夜は……」
クラリスは少し緊張の面持ちになる。
「音楽会に行かないか?チケットは既に手に入れてある」
クラリスは思っていたのと違う話が降って来たようで、顔を背けるようなそぶりをする。
「あら、いいですね」
「音楽会には多くの貴族が来る。式には呼べない連中もいたから、そこで顔を覚えてもらうんだ」
「なるほど。ちょっとした顔合わせですね」
「その意味合いも強い。でも、一番の目的は音を楽しむことだから、気負わないで欲しい」
「……はい」
クラリスは頷きながら、最近、自身の心に隙間風が吹いていることに気づき始めていた。
ロランは優しい。
けれど。
(私が求めない限りは、愛情表現をしてくれない)
わざとらしく口を尖らせてみたり、しなだれかかってみたり、夫に行動を促してはいるけれど。
(向こうからは、何もして来ない)
結婚してから二週間ほどが経つが、夫婦生活は特にない。最初は向こうが気を遣ってくれるのだと好意的に受け止めていたが、どうやら違うのではないかと最近不安になって来ている。
信じたいけれど、信じるにもきっかけやとっかかりが必要なのだ。
楽観的なクラリスでも、少し夫を疑い始めていた。
(もしかして何らかの性質を隠すために、文句のなさそうな私を娶ったのかしら)
可能性は充分にあり得る。世間体のためにとりあえず地位の堅固な妻を娶り、影では同性を愛したり、または誰も愛さず趣味に耽ったり、女という女を渡り歩いたり、そんな話は世間にごろごろ転がっている。
それでも、そんなロランと一緒にいたいと思うのは、なぜだろう。
(私は、なぜこの人を好いてしまったのだろう)
それは彼の心根に、一般男性が持ちえない類の優しさがあることを感じるからだ、とクラリスは思う。
変な話、教師や神父、母親に近いような。
「……クラリス?」
尋ねられ、彼女は我に返った。
「今日の夜が、楽しみです」
「一応、初めて顔を合わせる人間だらけだろうから、俺が間に入る。顧客もいるだろうから、出来るだけ彼らの声と名前を覚えておいてくれ」
初めて奥方の仕事らしい依頼が降って来る。クラリスは真面目な顔で何度も頷いて見せた。
夜になった。
クラリスは花模様の杖を手に入れた。それを馬車の中で撫でながら、彫の溝をなぞる。
「ここにバラの模様がある」
模様に導こうとするロランの手が、ふとクラリスに触れる。クラリスは嬉しくなって、ふわりと笑った。
「……他には?」
「ここに、百合の模様。その下にすずらん」
細かい模様が彫ってある。きっと工芸品めいた彫なのだろう。
「ありがとう、ロラン」
「そろそろ音楽堂に着くぞ」
馬車を降りると、人々のざわめきがどっとクラリスの耳に流れ込んで来た。
「わぁ凄い。お祭りかしら」
「都会はこういうものだぞ。日が落ちても、ひっきりなしに人が歩いてるんだ」
「そうなの?私実家では、夜、ほぼ無音で過ごしていたから知らなかったわ」
「そうか。街に出ることもなかったのか」
「はい。目が見えなくなってからは、街へ連れ出されたことはありません」
音楽堂へ入ると、早速誰かに声をかけられた。
「おお、ロラン?ロランじゃないか。珍しいな、お前がこんな人の多い場所に来るなんて」
クラリスは、その声にどこか意地悪な響きを感じてむっとした。
しばし沈黙が流れ、相手が息を呑んだのが伝わって来る。
「おい、まさか彼女が……」
「ああ。私の妻だが」
「うわっ。すげー美人じゃん!」
クラリスは心に色々引っかかりながらも、笑顔を作って挨拶する。
「初めまして。クラリスと申します」
「俺はテディ。ロランのことは昔から知っている。サミュエル家の工房に加工部品を卸しているんだ」
「あら。それではうちのお得意様なのですね」
「と言うより、持ちつ持たれつの関係だよ。いやそれにしても……」
相手の視線が、クラリスの伏せた目と杖に行く。
「噂では聞いていたが、奥様は目が見えないそうだね」
クラリスは目を開けた。
「は、はい……」
すると相手はこんなことを言った。
「うまいことやったなぁ、ロラン」
クラリスは嫌な予感がしてロランの腕にしがみつく。
ロランは憤慨を隠すように、ふんと鼻を鳴らした。