58.幸福な場所
六年後。
「お母様!早く早くー!」
「お母様!早く早くー!」
サミュエル家にいつものけたたましい声が響く。
「お母様の隣に座るのは私よ!」
「いいえ、お母様の隣に座るのは私なんだからー!」
クラリスは娘二人に玄関まで引っ張られ、馬車までばたばたと走らされる。
「こら!ロジーヌ!ロクサーヌ!お母様は目が見えないんだぞ、走らせるんじゃない!」
ロランが小走りに階段を下りて来る。
「お父様!早く早くー!」
「お父様、早く早くー!」
さらさらの金髪をなびかせ、二人の女児はばたばたとその場で足を踏みしめた。
ロジーヌとロクサーヌ。
五歳の双子の女の子だ。
どちらも片腕に、左右対称のように赤い痣がある。
けれど、彼女たちはそんなことはまるで気にしていなかった。
クラリスが馬車に乗り込むと、ロジーヌが隣に座っていつものように問う。
「お母様、この痣は神様が目印につけてくれたのよね?」
更にロクサーヌがやって来て、母を挟んで反対側に座る。
「私たちがいい子だから、目印につけてくれたのよね?」
クラリスは二人の頭を抱きかかえると、胸いっぱい子どもたちの頭の匂いを嗅いで微笑んだ。
「そうね。みんながお父様の子どもだと分かるように、神様が腕に同じような赤い痣をつけて下さったの」
「お父様とお揃い!」
「私もお父様とお揃いー!」
子どもたちは両親の言うことを信じ込んでいた。
クラリスが双子を出産した時、彼女たちは腕にそれぞれ同じような赤い痣を持って産まれて来たのだ。
ロランにそう告げられた時、クラリスはひとりひとりを両腕に抱え、こともなげにこう言った。
「神様が愛し子に、天上からでも見られるよう、印をつけてくださったに違いないわ」
ロランはちょっと泣いた。
そういうわけで、子どもたちにもそう教えてある。
クラリスは現在、子どもの顔が見られないと悲しがることは杞憂であったと思っている。
顔が分からなくても、あちらから狂おしいほどにクラリスを求めてくれる。
その元気な声を聞くだけで癒されるのだから。
ロランも、左右に揺れるほど騒々しい馬車に乗り込んだ。
「おい、ちょっとは静かにしろ。馬が迷惑そうな顔をしていたぞ」
最後に乳母も乗り込み、馬車はかの地に向かって走り始めた。
完成したシルヴェストル傷兵院へ──
傷兵院の前には沢山の馬車が停まっていた。
新しい施設の完成を祝って、国中から貴族たちが駆けつけたのだ。
もうそこに、傷痍軍人をないがしろにする空気は漂っていない。
しばらくすると、入居予定の傷痍軍人たちが集まって来た。
馬で乗りつけたトリスタンは移動を指示する。
傷痍軍人はこの五年で幾分数を減らしていた。傷ついた彼らの中には、既に終戦の時点で心身共に限界の者が複数含まれていたのだ。なのでこの傷兵院は通常ではありえないほどの人員を雇い集め、かなりのハイスピードで造ったのだった。完成が遅れれば、彼らは介護されずに死んでしまう。時間との戦いだった。
クラリスがロランと双子を伴って出て来ると、先に到着していたヴォルテーヌ公爵家の面々が出迎えた。
「クラリス!久方ぶりだな」
「シリル様、アネッサ様、しばらくそちらへ行けなくてすみません」
「いいんだよ。君も子どもの教育に忙しいだろうからな」
背が伸び、すっかりレディになった十二歳のリディがやって来る。
「クラリス!」
「ああ、リディ!」
二人はお互いの肩と顔を忙しく撫でさする。
「とても大きくなったわね!」
「クラリスも……ちょっと大きくなった?」
「もう、からかわないでリディ」
二人は邂逅を喜び合った。
ロランがトリスタンに声をかける。
「陛下から手紙は来たか?」
「落成式が終わったら、中庭で茶会だ。タイルを探す遊びをするそうだ」
「まずは聖堂だな。それから茶会で会おう」
ロランはクラリスの肩を抱くと、子らを導いて聖堂の中に入って行く。
リディは両親や弟と共に、ぺちゃくちゃと喋りながら聖堂へと入って行った。
それを見送りながら、トリスタンはどこか浮かない顔で傷兵院を見上げた。
「俺……あれから何も変わってないなぁ」
荘厳な落成式が執り行われた。
招待された人々は他国に類を見ない国家事業を目の当たりにし、声も出せない。
傷痍軍人のためだけにここまで大掛かりな建築物を造ったという事実は、市民の度肝を抜いた。同時に、先進的な国に住んでいると彼らは自負するようになった。市民意識はこの施設の出現によって、明らかな変化を見せていた。
最後に、聖堂に王と王妃が入って来る。
少し表情が柔和になったエドモン三世と、大きなお腹を抱えたベルナデッタ。
全員で神への感謝の祈りを捧げた後、詩歌と聖句を口ずさむ。
司祭は聖堂内をうろつき、工事関係者全てに聖水を振り撒いて祝福を与えた。司祭が聖堂を出、他の部屋へ祝福の足を向けると、落成式の参加者は聖堂から思い思いに出て施設の見学を始めた。
ロランが妻子らを伴って孤児院のエリアへ入って行くと、馴染みの声がする。
「ロラン!クラリス!」
コレットの声だ。クラリスはそちらへ顔を向けた。
「コレットさん……」
「ああ、あなたの目が見えないことをこれほど悔やんだことはないわ。ここはすごく素敵な建物なのよ」
言いながら、コレットが時計を眺め何かに気づく。
「そうだわ、そろそろ教会の鐘を鳴らすの」
「鐘、ですか?」
「ええ。それがね、前の教会みたいに大きな鐘が何個、という鐘じゃなくてね。複数の鐘で旋律を奏でられる、最新のカリヨンなのよ」
カリヨンとは、30個以上もの音を鍵盤によって奏でられる鐘のことだ。
クラリスはうっとりと胸の前で手を組んだ。
「まあ、カリヨンですって?素晴らしいわ。陛下ったら、そんなものまで……」
「うちのシスターが順番に弾いているのよ。もしよかったら、クラリスも奏でてみる?」
「ええっ」
クラリスはあわてて首を横に振った。
「そんな……間違えたら恥ずかしいから、いいです」
すると、
「私やってみたーい!」
「私やってみたーい!」
ロジーヌとロクサーヌが同時に声を上げた。乳母が進み出る。
「奥様。お二人は大分ピアノが上達しましたのよ。まだ音符が重なった曲は難しいですけど、連弾なら単音でも音が重なるし、どうでしょうか」
クラリスはコレットに尋ねた。
「……いいでしょうか?」
「あら、連弾なんて面白そう!是非やってみて」
「すみません……娘たちが我儘で」
「いえいえ。鐘なんて毎日鳴らしてるんだから、今日ぐらいどうってことないわよ。じゃあ、ロジーヌとロクサーヌ。私について来て」
「よろしくお願いします」
ロジーヌとロクサーヌは浮き足立って、コレットと乳母に連れられて行った。
ロランが言う。
「カリヨンは最上階にあるそうだ。どうだクラリス。そっちに行ってみないか」
クラリスはロランの腕にしがみついた。
「……はい!」
風が吹く教会の最上階。
クラリスはロランと二人きりで、娘たちの奏でる鐘の音の出現を待った。
街を一望出来る空間。
二人は無言で街を見下ろした。
「……ここに来るまで、色々あったな」
ロランがぽつりとそう漏らした。
「そうですね」
クラリスはしみじみと風に吹かれている。
「俺は、君に会うまではこんな世界大嫌いだった。でも、クラリスが屋敷から出て来たら全てが変わった──何もかも」
クラリスは微笑んだ。
「私もです。私、あなたと結婚してから目が見えるようになったんですよ」
ロランは不思議そうにクラリスの目を覗き込む。
「本当か?」
「うふふ。実は見えてましたよ」
「おいおい……そんなはずは」
「そうなんです。確かめようがありませんよね」
「からかってるな?」
「……正直に言います。〝今〟は見えません。でも〝未来〟は見えるようになりました」
「予知能力でも身に着けたか?」
「ふふふ……これも確かめようがありませんね」
ロランはクラリスの肩を抱いて、同じ方角を向いた。
「まあ、見えていても見えていなくても関係ない。この国はもう、〝見ないふり〟をしない国になった」
「……はい」
「君は目が見えなかった。でも、何事も〝見ないふり〟はしなかった。その信念を持ち続けることがどんなに崇高で、けれど大変だったかは、隣で君を見ていた俺が一番よく知っている」
「……」
「君はきっと、人の目を開くために産まれて来た。しまいには、国王の目まで──」
「いいえ」
クラリスは微笑んだ。
「言ったでしょう?あなたと結婚したから、私の目が開いたんですよ」
「……クラリス」
「ひとりではきっと、何も出来なかったわ。そう、あなたが私の目になってくれたから──」
その時だった。
カリヨンの音が、がらんがらんとこだました。二人が言おうと思っていた愛の言葉はタイミング悪く打ち消され、二人は思わず笑う。
娘たちがかき鳴らすカリヨンの調べの中、言葉を失った二人は幸福なキスをした。
一方その頃。
「あ、鐘の音」
リディは人気のない教会の裏庭で、トリスタンとカリヨンの音色を聞いていた。
「わー、この教会の鐘には旋律があるのね、素敵ー!」
ふらふらと歩き出そうとするリディを、トリスタンが引き止める。
「こらっ、危ない」
と。
リディがトリスタンの隻腕にぎゅっとしがみついたのだ。
トリスタンは無言でリディを見下ろす。
「……ん?どうしたいきなり」
「ねえトリスタン。きっとここで結婚式をやったら素敵よね?」
「?」
「子供の頃からの夢だったの。私、トリスタンのお嫁さんになりたいな」
トリスタンは慌てた。
「馬鹿なことを言うんじゃない!曲がりなりにもリディは公爵令嬢だろっ」
「あと六年経ったら18歳で適齢期なの。それまで待てる?」
「……結婚する前提で話すな!」
「トリスタンは六年後、何歳?」
「30歳だけど?言っとくが、絶対俺はリディと結婚なんか……」
すると、リディは愕然と地面へと崩れ落ちた。トリスタンは慌てる。
「えー!?そ、そんなに凹む?」
「ぐすっ。きっと私の目が見えないからだわ……」
「はあ?」
「私の目が見えないから、結婚してくれないんだわ。私は永遠に独り……」
「ちょっと待て」
「私の目になって、トリスタン。お願い」
「あのなー、何て言うか……急過ぎるよ。時間をだな……」
「時間をかければ私のこと好きになってくれるの?」
いきなり笑顔になって立ち上がったリディを眺め、トリスタンは頭を掻きむしる。
「……わ、分かんない。だけど、その……えーっと……」
最近、すっかり大人びて盲目の美少女と名高いリディ。
トリスタンはそんな彼女に迫られ、意識しかかる自分をどうにか否定しようとした。
「ほら俺、腕が片方しかないから、きっと咄嗟の時にリディを助けられないよ。身分だって低いから、きっと君のお父様が反対するに決まってる──」
リディの顔が悲しみに歪んだ、その時だった。
「いいぞ」
頭上から、思わぬ声が降って来た。
トリスタンとリディは同時に声の方へ顔を上げる。
シリルとアネッサが笑顔で二人を見下ろしていた。
「交際を許可する!これからもリディと親交を深めてやってくれ!」
「トリスタン、頑張ってねー!」
父の声にリディは諸手を上げて喜びを表し、トリスタンは全て聞かれていたので真っ赤になった。
「ちょっ……」
「わーい!親公認の仲よ、トリスタン!」
「……本気で言ってんの?ヴォルテーヌ公爵家も随分変わったな」
「時間をかけて、ゆっくりお互いを知って行きましょうね!」
「いや、知り過ぎるほど知ってるんですけど……」
「あーよかった!私、親が家の格で取り決めた人間じゃなく、好きになった人と結婚するのがずっと夢だったの……やっぱり、努力すれば夢は叶うのね!」
「……リディ」
いつも前向きで、一点突破の努力家で。
「そうだよな……リディも凄い頑張ったんだよな、ここまで」
思えば、こんなに素直で頑張り屋のいい子は、なかなかいない。
「いいぜ。しばらく恋人ごっこに付き合うよ、リディ」
「ごっこじゃないよ……もう、トリスタンったら……」
「分かったよ。ほら」
「えへへ。あ、そうだ。中庭に埋まってる私のタイル、代わりに探してよね」
リディはひっきりなしに喋りながら、満面の笑顔でトリスタンの腕にしがみつく。
二人は並んで傷兵院の方に入って行く。中庭でお茶会が始まるのだ。
国王、王妃、貴族、大勢の傷痍軍人、盲人、子ども。あらゆる垣根を飛び越えた祝宴が始まった。誰もが体の不自由を理由に、そこから弾かれることはない。
道を塞がれることも、蔑まれることも、追い出されることも、恋を諦めることもない。
誰もが願い、彼らが夢見た世界がそこにあった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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それでは皆様、今度はまた違う物語でお会いしましょう♪