57.名を残す人々
それから半年が経った。
ヴォルテーヌ領内にある小高い丘に、人が集っている。
その中心にいるのは、エドモン三世とベルナデッタ。
古い別荘を取り壊し、瓦礫の撤去が完了したその荒涼とした土地に、大工たちが糸と棒を駆使して建物の線を引いて行く。
大規模な工事現場に、少し遅れて貴族の馬車が次々到着する。
その中の一台から、大きなお腹を抱えたクラリスと、それを支えるロラン、それからトリスタンが降りて来た。
三人は工事現場に佇み、巨大プロジェクトの始まりを目の当たりにする。
人員とその土地の広大さに、巨大な建築物が出来る予感が漂っている。
馬車からはヴォルテーヌ公爵シリルとリディ、それからコレットも降りて来た。
冬空の下、空白の土地に、祈るような皆の視線が注がれている。
「ついに、ここまで来たんだ」
トリスタンが呟いた。
「頑張ったわね、トリスタン」
そうクラリスがねぎらうと、周囲からふわりと笑いが起きた。
「ここにいる全員を結びつけたのは、クラリス、あなたでしょ」
そうコレットが言う。
「いやいや。クラリスを引っ張り出して来れたのは、俺のこの顔のおかげだぞ」
ロランが自身の顔を指し示してそう言うと、
「待て、土地を提供したのはこの私だ」
とシリルが言う。
「お父様のお尻をひっぱたいたのはこの私よ!」
リディがそう言いながら杖をぶんぶん振ったので、トリスタンが慌てて止める。
そこに、王と王妃がやって来た。
ベルナデッタは告げる。
「みなさん」
その声を合図に、全員王妃に向き直った。
「今日はお集まりいただき、ありがとう。今日皆さんを呼んだのは、この施設にあなたがたの名前を残しておきたいからよ」
そう言ってベルナデッタが取り出して見せたのは、手のひら大のタイル。
「これにひとりずつ名前を記し、それを中庭の柱に埋め込むの。そう、とてもひっそりと」
エドモンは、あるタイルを二枚見せた。
エドモン三世と、ベルナデッタの名を記したタイル。
「このように染料で名前を書いたら釉薬をかけて焼き、柱に埋め込む。半永久的に、かの施設に名が残ることになるであろう」
二人の粋な思いつきに、その場にいた全員が幸福な嘆息を漏らした。
目の見えないクラリスとリディは渡された筆で名前を書いたが、かなり字面がダイナミックになってしまった。
「上手に書けない……」
「大丈夫かしら」
「素敵。これはこれで、見つけやすくてとってもいいわ」
ベルナデッタが二枚を回収する。
「書けるか?トリスタン」
「勿論。それにしても……ロランは妙に字が綺麗だな」
「もっと下手に書いてもいいぞ。タイルを焼けば、どうせ字はもっとぼやけてしまうから」
エドモンが二枚を回収する。
「一介の修道女がこんな大それたこと、おこがましいわ」
「あなたこそ名を残すべきですよ。あなたは大勢を救った。そして、これからも救い続けるんだ」
シリルはコレットのタイルと自分のタイルを合わせてエドモンに差し出した。
全員分のタイルを眺め、トリスタンは呟く。
「柱に埋め込むタイルって、これだけ?」
何かを察してエドモンは言った。
「ああ、それだけだ」
「……」
「柱に埋め込むのは、な」
「……」
「教会の裏庭に、碑を建てる予定だ。今回の戦没者全員の名前を刻んだ碑」
ようやくトリスタンは微笑する。
「……そうですか」
「デュベレーの丘まで行くのは、障害持ちには辛かろう。この場所で生き、この場所で故人を偲ぶ方法を考えたら、そうなった」
傷痍軍人のための場所。
「……それなら、良かったです」
「……」
「死んだみんなと、ようやく共に暮らして行けます」
「トリスタン……かつての非礼を詫びよう」
「やめて下さいよ。とにかく、無事に完成させましょう。ところで──」
トリスタンは広大な空き地を眺める。
「この施設の名前はお決めになったんですか?」
エドモンは答えた。
「この丘は、シルヴェストルの丘と言うらしい。土地に根差した名前がいいだろうから、ここは〝シルヴェストル傷兵院〟と名づけることにした」
トリスタンは口に出さず、その名前を心の中で繰り返した。
「名前がつくと、現実感が湧きますね」
「……何を言う。これは現実だぞ」
「何だか夢みたいなんです。最近は、ある日起きたらその夢が覚めてやしないかと心配で……」
クラリスは、みんなの話し声を聞きながら丘の上で風を感じる。
何も見えないけれど大きなものが、意志が、丘の上に渦巻いている。
お腹の子どもがじたばたと動く。母の高揚を共に分かち合うように。
クラリスが出来るのは〝感じる〟ことだけ。
プレートも、建物も、景色も、何も見えない。
ふとロランの手が肩に伸びて来る。
「クラリス、見えるか?」
クラリスは頷いた。
「はい、しっかり見えます」
愛しい人の温かい腕に抱かれ、クラリスは微笑んだ。
「お母様も、ワトー先生も来てる。傷痍軍人のみなさんが、孤児たちと遊んでいるの。大きくなった孤児たちは美味しいものを作って、みんなで分け合っているわ。とても素敵なステンドグラスのある聖堂もあって……皆思い思いに祈りを捧げている。工房では義足や義手、義眼を作っているの。それをみんなでつけて、試して……外国に売るのね。もう、街から排除される人間なんていない。シルヴェストルの丘にはこれからも困った人がやって来るけれど、みんなで受け入れて、協力してやって行くんだわ。ねぇロラン、ここはとっても素敵な場所ね」
それを聞いて、後方のベルナデッタはそっと涙を拭う。
その肩に、エドモンは恐る恐る手を伸ばした。
と、ベルナデッタはこらえ切れなくなって、エドモンに抱きついてわんわんと泣く。
エドモンは呆気に取られたが、胸に飛び込んで来た妻の背中を撫でてやる。
「わ、私……やっぱり〝見えない富〟より〝見える富〟が欲しかったの」
うんうんとエドモンは頷いた。
「ようやく見えたわ。私の探していたものが──私、誰かの役に立ちたかったのよ。誰かのために生きてみたかったの。シルヴェストル傷兵院はまさしく、誰かのためのものなの。ああ、エドモン……きっとこれが、あなたの人生一番の功績になるわ」
エドモンは首を横に振った。
「何を言う。君が横面はたいてくれたから、私も目が覚めたんだ」
「……エドモンったら」
「はっきり言おう。きっと私は立派な王ではなかったのだろう。だから君に余計な負担をかけてしまった」
「……そうね。否定はしないわ」
「傷兵院は、これからも誰かを救い続けるだろう。そのたびに、私と君も救われる」
「……」
「ベルナデッタ。これからも私と──誰かのために生きてくれるか?」
ベルナデッタはぼろぼろと泣きながら、顔を上げエドモンと見つめ合った。
「……もちろん」
エドモンも微笑んだ。ベルナデッタは続ける。
「こんないいものを造れるだなんて、あなたより素晴らしい王はいないわ。この名声は国境を越えて各地に響き渡るでしょうね」
「……急に褒め殺すなよ」
「だって……だって、本当に今、そう思えたんだもの」
「本当に?」
どこか訝しがるエドモンに、ベルナデッタは挑戦的に顔を近づける。
王妃は周囲の目も憚らず王の顔を両手で挟み込むと、その唇を奪った。
「……ベルナデッタ」
「……私からキスしたことなんか、今まであって?」
「……ありがとう」
「素晴らしい王の妃になれて鼻が高いわ。これからも国と私に尽くしなさいよね、陛下」
その光景を眺めていたロランがクラリスに耳打ちし、クラリスはびっくり眼でぱちぱちと手を叩く。
小さな拍手の輪がその場にいた人間に伝播して、シルヴェストルの丘は祝福の拍手に包まれた。