51.祈れる体
デュベレーの丘は、ようやく追悼に静まり返った。
祈り。
そこにないもの、死んでしまった者に向け、全員が静かな念を捧げる。
エドモン三世は、ようやくその丘の上で〝見た〟。
〝見えないもの〟を。
コレットが足音もなく近づいて来る。
「陛下。帰りの馬車の用意が出来ました」
エドモンは振り返らずに言う。
「分かった」
しかしそこから動かなかった。
コレットはその背中を眺め、誰にも気づかれないように微笑む。
「いつでもお帰りになれます。それでは」
ベルナデッタはエドモンの隣で同じ景色を見ている。
エドモンは彼女に言った。
「見えるものが全てではないんだな」
ベルナデッタは驚愕の表情になったが、慌ててうつむく。
「そう……ですね」
「戦死者はこの世にいない。でも、みんなで墓標を立てて、花を供えて」
「……」
「それを〝意味がない〟とは切り捨てられない。どんな人間も」
遠くで隻腕のトリスタンが立ち上がった。
その影が、ゆっくりとエドモンの方へ歩いて来る。
ロランも慌ててトリスタンを追いかけた。
王はトリスタンと対峙する。
彼が口を開く前に、王は言った。
「何が望みだ」
トリスタンは王の表情の変化に気づき、おっかなびっくり言葉を選んだ。
「えーっと……俺たちとしても、段々要望が前と変わって来ていて……金とかより、ひとりひと部屋、住まいが欲しいんだ」
「ほう。それから?」
「あの、これは最近思うことなんですが……」
トリスタンは言う。
「傷痍軍人っていうのは、どうしても出るものだと思うんです。これからも、長い国の歴史でずーっと。だから、それを前提で介護施設みたいなものがあると助かります」
「介護……」
「両足のない奴とか、両腕のない奴とか、目のない奴とかはひとりでは生活出来ない」
「……」
「見て下さい。あそこにいる奴。花も供えられないから口で挟んでる。俺も、片手がないから祈るために指も組めない。それがどんなにみじめだか、今日きちんと陛下にも見て、知ってもらいたいんだ」
エドモンはようやく、戦勝の犠牲に目を向けた。
祈ることも出来ない体。
ふと、隣にいるベルナデッタが何を思ったのか、目をこすった。
エドモンは、嫌われているのを承知で涙ぐむベルナデッタの肩を抱く。
彼女は驚き、肘で夫を押してその抱擁を拒んだ。
しかし。
恐らくこの場にいる全員が、今、同じ気持ちになったのは確かだった。
「……分かった」
エドモンは言った。
「少し時間をくれ。そうだな……二週間後、王宮に来たまえ。そこの、ロラン」
名を呼ばれ、ロランが駆け寄る。
「何です、陛下」
「二週間後、そこの隻腕の傷痍軍人を連れて君も王宮に来い。共に傷痍軍人の今後を考えよう」
「……!」
急な展開に、ロランは目を丸くした。
「なっ……」
「確かに、私はそういった視点が今の今まで欠如していた。今まで誰に指摘されても分からなかったが、今日、この光景を見てようやく分かった」
「!?」
「……いちいちそんなに驚くなロラン。そうだ、ベルナデッタ。君も話し合いに参加しろ」
ベルナデッタは嫌そうに顔を歪めたが、
「それではクラリスも連れて参りましょう。盲目の視点も必要でしょうから」
ロランのこの言葉に、王妃はほっと胸を押さえる仕草をした。余程夫と膝を突き合わせて仕事をするのが嫌らしい。
トリスタンは顔を輝かせると、ようやく騎士の所作を思い出して国王の前に膝をついた。
「……ありがたき幸せに存じます」
「そんなに平伏するな。私がここに立てているのは、君が失った腕のおかげなのだから」
「……!」
「そんなに驚くな若き騎士よ。誰しも〝目が見える〟ようになる瞬間がある」
「……はい」
「騎士よ。そなたの名は?」
トリスタンはどこか赤い顔でぼうっとエドモンを眺め、答えた。
「……トリスタン・ド・ロワです」
「トリスタン。長い付き合いになるだろう。よろしく頼む」
ベルナデッタも変化した夫の表情を、どこか探るような眼差しで盗み見ている。
ロランは久方ぶりに気分が高揚して来た。
エドモンが、あの人の気持ちの分からない王が、追悼礼拝を経て急に稀代の名君のような顔つきになったのだ。
クラリスは帰宅したロランから先の戦没者追悼の話を聞き、胸を押さえた。
「まぁ……陛下が、そのようなことを」
「事態は大きく動き出したぞ。みんなの祈りの現場を見て、あの陛下が心動かされたらしい」
「きっと陛下も〝見えない富〟に気づいたんだわ。見えないものを大切にすることを。ところで……」
クラリスは新たに着せられている、ゆるくふわふわした胸元切り替えのドレスをぽんぽんと両の手で叩いた。
「また五着もドレスを作るというのは……一体どういうことなのでしょうか?」
ロランはふっと髪をかき上げた。
「どうって……妊婦用のドレスを作っているんじゃないか」
使用人がわくわくと色めき立って、クラリスの着ている仮のドレスに待ち針を打っている。
「……五着も必要ですか?」
「君の腹はどんどん膨れるだろう。その神々しい姿を楽しむには本来五着じゃ足りない」
「はい……?」
「それに、妊娠は一回とは限らない。まだこれからも使う。そうだろう?」
「言われてみれば、確かに……」
「女は妊婦の時期が一番輝いていると聞いた。ならばドレスを五着新調するしかない」
「えーっと……何回聞いてもどういう理屈かさっぱり……」
使用人はしつけ糸の作業を終えると、全てを理解していたかのように部屋から引き下がる。
ロランはクラリスを正面から抱き締めた。
「何もかもが、いい方向に変わるぞ」
クラリスは驚いたが、ロランの気分に乗せられて夫の首に腕を回す。
「……そのようですね」
「二週間後、クラリスも一緒に王宮へどうだ」
「はい。あなたと行くのであれば、安心です」
正面から抱き合ってキスをすると、心なしか二人の腹がくっつき合うような気がした。