5.結婚生活の始まり
ロランは唇を離し、目の前にいる美しい花嫁をぼうっと眺めてから、ふと教会内に目を向けた。
教会の中では、侮蔑と憐みと安堵の視線が交差していた。
クラリスの美しさ、ロランの地位に目がくらんだのだろうという侮蔑。
醜男、または盲人と結婚させられたのだという憐み。
醜男、または盲人に伴侶を与えられたのだという安堵。
どれもこれもロランの心をいたずらに削って来る、嫌な視線だった。
共に歩き出したクラリスに、ロランは小さく呟く。
「君を、必ず今より幸せにする」
それが、クラリスをないがしろにしていた親族全員に対する復讐になり得る。
しかし彼女はにっこり笑ってこう言うのだった。
「あら。今より?」
ロランの肩から力が抜ける。
「あのなぁ……」
「私、人生で初めて殿方とキスをしました。そんな日より幸せな日なんて、来るのかしら」
「来るよ……多分」
「自分が結婚出来るなんて思っていませんでした」
「……俺もだ」
ロランはどこか不思議な気持ちで、妻を迎えた自分を俯瞰で見ていた。
彼は気づいている。
絶えず侮蔑されて開いた己の心の穴を埋めるために、クラリスを幸せにしようとしている、ということを。
彼女が幸せだと言ってくれれば、自分の惨めたらしい人生がようやく報われる気がする。
余りにも不純な動機だが──
クラリスはそんな彼の複雑な心情を知ることなく、うっとりとロランの腕に寄り添っている。
ロランはどこかうしろめたい気持ちで教会のカーペットを歩いて行った。
オベール家は、その後の会食というお披露目も拒否した。
娘を押し付けて役目は終了、もう関わり合いになりたくないらしい。
さすがのジュストも苛立っていた。
「実の娘にあんな仕打ちがあるか!?目が見えないというだけで、だぞ?」
クラリスが着替えに行っている間、ロランと伯父のジュストは客間で話し合っていた。
「まあ、いいじゃないか。あれこれ口を出されるよりは」
「呆れてものも言えん!ここまでとはな」
「まあ、それを見兼ねてあんたは俺の所に結婚話を持ち掛けたんだろ?」
「うーむ。それもあるが……」
ロランはふと、ジュストの言い淀んだ先が気になった。
「そういえば、ジュストはなぜ俺のところにクラリスの話を持ち掛けたんだ?」
ジュストは夕暮れる外を眺めた。
「……正直に言おう。私は彼女をオベール家で見かけ、単純に〝いい子だな〟と思って」
「クラリスのことを?」
「ああ。ほら、我々は傷痍軍人を見る機会が多いだろ?」
「……ああ」
ロランは天井を見上げた。
先の戦争で、傷痍軍人が多く巷に溢れるようになったのだ。
戦争と言うと、生存者と死者の数が取り上げられがちだが、実際はその間に傷痍軍人と言う存在が漂っている。要は傷を負った軍人──彼らの多くが、二度と剣を振るえないのだ。
隻腕、隻眼、隻足。心を失った者もいれば、聴力や視力を失った者もいる。
その多くは死んだように生きるか、自暴自棄になるのみだ。
「彼らの気落ちぶりを見ていると、クラリスのような子は、まるで奇跡のように思える」
「ふーむ……確かに」
「彼女は目が見えないのに、何であんなに明るいのだろうか」
「そこを尋ねたことはないな。ただ、彼女は徐々に目が見えなくなって行ったと聞いた。いきなり視力を奪われたわけではないからじゃないか?」
「いきなりも嫌だが、徐々に来るのもかなり辛いぞ」
答えのない問いに男二人がぶら下がっていると、
「お待たせいたしました」
と、普段着のドレスに着替えたクラリスがやって来た。
彼女は杖を滑らせ、まるで見えているかのようにするするとロランの近くまでやって来る。
ロランは立ち上がった。
「クラリス。今から食事会をしよう。ジュストとその家族も一緒だ」
「そうなのですね。お久しぶりです、ジュスト様」
「ああ、あれ以来だなクラリス殿。ところで……君は食事が出来るのかい?」
クラリスはカラカラと笑った。
「嫌ですわ、ジュスト様ったら。視覚のない私にとって、食事が現状最大の喜びですのに」
「ほー、こぼしたりもせず食べられると?」
「うふふ。そんなに気になるなら、見せて差し上げましょう。食事に関しては、子供の頃からかなり厳しく躾けられて来ましたから、大丈夫です」
三人は連れ立って食堂へ向かう。
既にそこには、ジュストとその三人娘も揃っていた。
サミュエル家の親族は、今はこれだけだ。この姿を一番見せたかったロランの両親も、ジュストの妻も、流行り病で命を落としこの世にはいない。
三姉妹はクラリスを間近で見ると、小さく歓声を上げた。
「きれーねぇ」
末娘の幼児、ナターシャが言う。
「ありがとう」
「ロランにはもったいないねぇ」
「何だと?」
「まあ……ふふふ」
クラリスは慣れた様子で、杖を壁に立てかけ使用人に椅子を引かれたタイミングで座った。
スープが運ばれて来る。
真ん中の娘、ミリアが言う。
「それ、かなり熱いよ。大丈夫?」
「ありがとう、大丈夫よ」
クラリスは食器のふちをそうっと触った。熱さを確かめているのだ。
ロランが隣で囁く。
「三時の場所にスープスプーン」
「はい」
クラリスは机上をなぞり、ナイフをちょっと除けてスプーンを手に取った。
全く皿を見ることなくスプーンを滑らせ、何の遜色なく口へと運ぶ。
空になるまで掬い取ると、三姉妹が湧いた。
魚介のポワレが出される。
「三時四十五分にナイフとフォーク」
「はい」
鼻歌でも歌うように、クラリスのナイフは魚をほぐす。クラリスがそれをフォークで少しずつ口へ運んでいると、長女のアニエスが問う。
「全部食べられそう?」
「食器が食べ物に引っかかった段階でそれを食べるの。だから皿をなぞっていれば、大体食べられるわ」
「じゃあ、何が口に来るかは食べてみないと分からないのね」
「そういうことになるわね」
「それ、ニンジン」
「ふふふ。ありがとう」
親族が見守る中、クラリスは見えているかのように器用に全て平らげた。
ジュストは目を丸くする。
「なるほど。位置は時計の針の角度で知らされるのだな」
「はい。これは、盲人専用の教師から習いました。ロラン様にも協力していただきました。皿をちょっと触るのも、事前に食事の温度を感じるコツです」
「そういう教師がいるとは初耳だ」
「母も探すのに苦労したと言っていました。でも、確かにいらっしゃいました。12歳まで、その先生から教わったのです」
「そうか。お母様が……」
「ええ。先生も母も、もう亡くなってしまいましたけれど」
日常生活を常人と同じように送るには、長い特訓が必要だったようだ。
ロランは何となく、彼女が朗らかである理由が分かって来た。
訓練を受け、困難を乗り越える術を知っているからだ。それが彼女を楽観的にしている。