34.目に見えない富
クラリスは王妃ベルナデッタに連れられ、王宮の廊下を歩いて行く。
その背後には、サミュエル家の執事が静かについて来ていた。
「あなたはいつも素敵なドレスを着ているわね?そのドレスは、どなたが選んでるの?」
王妃に問われ、クラリスは微笑む。
「夫が選んでおります」
「えっ!あのロランが?」
「ええ、彼は妻を着飾らせるのに熱心なんです。私は目が見えませんから、装いに関しては彼のなすがままです」
「へーえ。意外と乙女チックなのねぇ、あの人……」
クラリスは誘われるままにある部屋へと通された。
ふわりと大きな扉が開いたような風がたなびき、クラリスは身構える。
執事がそっとやって来て彼女の耳に囁いた。
「ここは王妃様のクローゼットルームです」
それを聞いて怪訝な顔になるクラリスに、王妃は告げた。
「見て!これが私のドレスたち。日に五回は着替えるわ。壁一面、全部ドレスよ!」
クラリスはむず痒そうに笑って見せた。
「は、はあ……凄いですね」
「見て?このトーション・レースは地球の裏側からやって来た輸入品なの」
「……」
「この絹も、南方から取り寄せたものなのよ。蔓模様が綺麗でしょう」
「……」
「ああ、そうそう。このネックレスはダイヤを120個もあしらってるの。輝きが違うわよね」
「……」
「ドレスだから滅多に足元は見えないけど、このハイヒールは金の糸で鳥の刺繍がしてあるの。どう?世界でも、なかなかない逸品だわ」
「……」
クラリスはどきどきと、ある予感に胸が痛くなる。
王妃の言葉の端々が、涙をこらえるように震えているのだ。
目の見えないクラリスを呼びつけ、クローゼットルームで服飾品を見せつける奇怪な行動。
恐らく、それは──
「ベルナデッタ様」
クラリスは、意を決するように言った。
「申し訳ありませんが……私には、どれも見えません」
ベルナデッタはドレスの方を向いたまま、ぎゅっと口を結ぶ。
「見えないので、何とも言えないのですが、その……」
クラリスは王妃の口から、心の軋む音ばかりが聴こえていたような気がしていた。
「なぜ、あなたは泣いているのですか?」
場は静まり返った。
ベルナデッタは途端に鼻をすする。クラリスはそれを聞いてようやくひとつ息を吐いた。
「……私、こんなにドレスがあっても、ちっとも幸せじゃないの」
そう声を震わせる王妃に、クラリスは杖を滑らせながらそろそろと近寄った。
「結婚する前は、王妃になれば色んな最高級のドレスを着られると浮き足立っていたわ。でも、装飾品は私を幸せにしてくれなかった。夫のエドモンも優しくしてくれるけど、何だか思っていたのと違うの。それは愛情というより、他国の王女を娶ったので怒らせないようにしようという遠慮でしかなかった。夜だって互いに余りにも義務的で、何もかもがうわべだけで。私、どうしたらいいか分からないの……」
クラリスはそっと王妃に身を寄せた。
「……それで私を呼んだのですか?」
「ええ、だってあなたは人を見てくれで判断しないでしょう?」
「……」
「着飾れば誰しも幸福に見えるの。それが今、とてつもなく悲しい」
「ベルナデッタ様……」
クラリスは王妃の背中をさする。
「一度、落ち着いてお話ししましょう。思う通りに言葉を吐き出すのも、心の健康に大事なことです」
王妃の部屋で、二人はひっそりと互いの心を持ち寄った。
「クラリスは今、幸せ?」
クラリスは頷いた。
「はい。かなり正直に言いますが、結婚前の方が不幸でした。結婚後にようやく自分の人生を歩んでいる気がします」
「自分の人生……」
ベルナデッタはため息を吐いた。
「それなのよ、私の人生に欠けているものは」
クラリスは頷いた。
「ベルナデッタ様は、何かやりたいことはないのですか?やりたいことをやっていれば、割と楽しく暮らせると思うのですが」
「やりたいことなんてないわ。自我を保つのだけで精一杯」
「お忙しいんですね」
「それもあるわ。私は王妃だから誰それが来たと言われれば、どんなに体調が悪くても、笑顔で迎えなくてはならないし」
「大変なお仕事ですね……」
「空しいわ……誰かのためにしかない人生なんて」
クラリスはその言葉で、ふとロランのことを思い出した。
「私の夫は、いつも自分ではなく他人のことばかり構っておりますが……」
王妃は少し気になる視線をクラリスに向ける。
「……ロランが?」
「はい。私を一生懸命飾り立てて、きれいだきれいだと誉めそやして」
「ふーん」
「かと思えば、最近は傷痍軍人にどうにか仕事を斡旋しようと頑張っているんです」
「そうなの?それも初めて聞く話だわ」
「でも、不思議と夫の口から不満は聞きません。恐らく、それらは彼なりに使命感があってやっていることだからだと思います」
王妃は得心するように頷いた。
「確かに誰かの役に立つっていうのは、ちょっとは自尊心が満たされるかもしれないわね……」
自尊心という言葉に、クラリスも反応する。
「私も誰かの役に立つと、生きてていいんだっていう気持ちになりますもの」
ベルナデッタは、どこか我に返ったようにクラリスを眺める。
「そんな大袈裟な……誰しも生きる権利はあるのよ?」
「そうですか?私はその気持ちを得るまでに大分時間がかかりました」
「クラリス……」
「誰かがいないと、目の見えない私は生きられません。ここに着飾って立っているのも、奇跡だと思うんです。ましてや王宮に呼ばれて、ベルナデッタ様の前で思ったことを口にしているなんてことは。私は生きているのではなく、いつも誰かに生かされているだけなんです」
ベルナデッタは黙った。
クラリスは目を閉じて、その沈黙を共有する。
「そうか……そうね……」
ベルナデッタは窓の外を眺める。
「ロランはあなたを愛している?」
「はい。詰め寄ったことはありませんが、きっと。私はそう信じています」
「彼がいなかったら、あなたは今どうしてたかしら」
「さあ……まだあの家に閉じ込められて、ベルナデッタ様には会えなかった……というところでしょうか」
「まさに、人に生かされたと言うわけなのね」
「過言ではないと思います」
ベルナデッタは、王妃ではなく、ベルナデッタの顔になって行った。
「ふふ。あなたと話してたら、もしかしたら私ってとてもつまらないことで悩んでいたのかなって気になって来たわ。生きていると思うから苦しいのよ、生かされていると思えば、案外楽なのかもしれない」
「悩みというのは相対的なものですから。私をいつだってその対照にしてくださって構いませんよ、ベルナデッタ様」
「やだ……無闇にへり下らないでよ」
クラリスは笑った。
「ベルナデッタ様、これからは見える富ではなく、見えない富を探しましょう。見える富はあなたを幸せにしないようですから。私は見える富は探せませんが、見えない富の探し方なら心得ております」
ベルナデッタは少し声を詰まらせ、クラリスの手を握った。
「……ありがとう。また見えない富のこと、もっと教えてね」
「ええ、いつだってお教えします。今日は、人の役に立つことが見えない富のひとつであることをお教えしました」
「まあ。ふふふ」
「あとは、生かされていると感じること……ですかね」
「そうね。当たり前すぎて気づかなかった。私ったら鈍くて嫌になるわ」
クラリスはようやく心からの笑顔を見せた。
「また呼んでください。いつだって私、見えない富を準備してここにやって来ます」
「ありがとう。クラリス」
初夏の、少し汗ばむ午後。
王妃は王宮の片隅で、盲目の令嬢と、見えない富を静かに分け合った。