31.全体の病理
アネッサが娘のリディを認知出来ていることが分かり、クラリスたちはロランと一緒に部屋に入った。
アネッサの視点が、明らかにロランを外れている。彼には予想のついていたことだが、何も悪いことをしていないのに無視されるというのはやはり辛い。
「あら?あなたたちは……?」
シリルがトリスタンを伴って入って来た。
「やあ、アネッサ。今日は友人も連れて来たんだ」
アネッサは納得したように頷いた。
「まあ、そうでしたの。私はアネッサ・ド・ヴォルテーヌ。以後お見知りおきを」
クラリスが前に進み出た。
「初めまして。私はクラリス・ド・サミュエルと申します。リディお嬢様の家庭教師をしておりますの」
すると、アネッサはクラリスを認知した。
「あら、あの子に家庭教師……?」
「はい、貴族のマナーなどを教えております」
恐らく、クラリスの見た目は一見すると健常者と同じだ。だからアネッサには見えているのだろう。
そしてその事実は、とてもクラリスの心に嵐を呼ぶのだった。
隣で、ロランが彼女の苦し気な様子に気づく。
「クラリス。どこか気分でも悪いのか?」
クラリスは誤魔化すように首を横に振った。
「……いいえ」
と、すかざずシリルがこちらにやって来て、クラリスの手を取る。
「ありがとう。君達のおかげでアネッサがリディを見られるようになったよ」
ロランは、どこか不穏な空気を纏う妻の肩を抱く。
「……やはり顔色が悪いぞ。帰るか?クラリス」
クラリスは賛成するように、ロランに無言で身を寄せた。
「シリル様。どうやら懸案がひとつ解決したようですので、我々は一時退散します」
「……そうか?そんなに慌てなくても」
「失礼します。また何かあったら連絡をください」
トリスタンも、どこか白けた表情でシリルを眺める。
「もう、御用は済みましたか?私もこれで帰ります」
クラリスはロランに支えられ、こつこつと悲し気な音を響かせて院内を歩く。
トリスタンもどこか意を決したように、二人の背中を追って歩いて行った。
サミュエル屋敷に帰るなり、クラリスはロランにすがって泣き始めた。彼の方は既に馬車の中でこのことを予感していたらしく、彼女の背中をさすってなだめる。
「なぜ、母親が子を認めないの?外見にハンディがあると言う一点だけで。そして、なぜ認めたの?外見のハンディを隠しただけで。あれは解決でも何でもないわ。私、余計なことをして、リディにもっと重いものを背負わせてしまった──」
外見に難のあるロランは、じっと考え込むようにクラリスを抱き締めた。
「私が彼女に〝見えた〟のは、貴族の妻になり、身なりを整えたからよ。きっと結婚もせずいつもの古びたドレスを引きずっていたら、アネッサ様は私にも〝見ないふり〟を決め込んだに違いないの」
ロランは黙り込んでいる。
「アネッサ様の病理は、彼女が作り出したのではないわ。だって私やロラン、トリスタンのことを見ないようにしているのはアネッサ様に限らないんだもの……。アネッサ様はこの国全体の病理に押し潰されてしまっただけなの。あの方の病を完全に治すには、この国にはびこる悲しい意識を変えるしか──」
ロランはクラリスから体を離すと、ぽつりと言った。
「変えよう、この国を」
クラリスは涙まみれの顔でロランを見つめた。
「この国を、体に難があっても、侮られず、蔑まれない、外見ではなく心を大事に出来る国にしよう」
「……我々に、そんなこと出来る?」
「出来ないと言ってどうなる?ずっと現状維持のままだぞ」
クラリスは涙を拭いた。
「君に出会ってから、俺もずっとそのことを考えていた」
「……」
「君は孤児院の教えで色んなことが出来た。偶然にも結婚出来、美人だったから周囲に溶け込めた。ラッキーが続いていたんだ。それらは、偶然が作用したものだ」
「……はい」
「本来多くのマジョリティに認められるには、もっとたくさんの事象を各々の力で切り拓く必要がある。そのために、今俺は傷痍軍人の勤め先を確保しようと動いているわけだ。それぞれに違った障害があるが、皆が十把一絡げにされている以上、彼らの努力で障害者全体を世間に認めさせられるかどうかが決まる。その過渡期が、今だと思うんだ」
クラリスは目を見開いて頷いた。
ロランの手が彼女の頬に触れ、彼はそっとクラリスに口づける。
「……俺は君が好きだ」
クラリスは何度も頷いた。
「誰もが愛される権利があるし、愛される理由がある。けれど現状は見た目や体が悪ければ、愛されなくて当然だとする風潮がはびこっている。その風潮を変えないと、リディもアネッサ様もシリル様も我々も、永遠に救われることはない」
クラリスはロランのぶよぶよした赤い頬に触れる。
「……ロラン」
クラリスは再びロランに抱きついた。
「ロラン。体に難があっても、愛し合うことが出来る。そのことをもっと私たちで証明して行きましょう」
「……ああ」
「そろそろ、社交界に戻ろうかしら」
「好きにして構わない。ただ、絶対に今度は俺のそばを離れるなよ」
「……はい」
「うちの工房に傷痍軍人を雇い入れる日が近づいている。彼らがまずどこまでやれるか、そこを見て行かないといけないな。どこに出しても恥ずかしくない一人前の職人になってもらわないと、我々の野望は叶わない」
クラリスはうっとりとロランの頬に自らの頬を擦り付ける。
「ロランったら……どうしてこんなにかっこいいの?」
「野望が叶えば、もっと格好良くなるが?」
「ふふふ、そうねきっと」
「世界を変えよう、クラリス」
「……頑張ります」
二人は約束するように、そっと手を繋ぎ合った。