29.だあれもいない
一方その頃。
エストーレ医院、閉鎖病棟にて。
外から一見すると豪華なお屋敷の一室で、ひとりの女性が窓から外を見ていた。
「私のリディ……」
教会の大きな鐘がこだまする。
「あの子は一体、どこに行ってしまったの……?」
ヴォルテーヌ屋敷に戻ったシリルは、堰を切ったように話し始めた。
「妻アネッサは、リディが見えないという精神病を患っている」
その場にリディはおらず、クラリスとロランは静かにそれを聞いている。
「最初はわざとだろうと思っていたが……違ったんだ。どうやっても見えないんだ。本当のリディを近づけても、リディだとは思わない。見えないからこの子は違う、と言うんだ。そして決まって、リディを探す。目の前のリディを無視して……」
クラリスは痛々し気に首を横に振った。
「そんなことが……」
「息子のことは認識する。だから、より危ないと思って遠ざけた。このままではリディに取り返しのつかない傷を負わせかねない」
ふとクラリスは呟く。
「多分ですけど、見たいものしか見えていないのでしょうね。見たくないものは見ないことにしている」
「クラリス殿。それはどういう……」
「普通の人と同じです」
普通の人。
クラリスがあえて口にした言葉に、シリルはぎくりと肩をこわばらせた。
「多分アネッサ様は、傷痍軍人も〝見えない〟と言うと思います」
ロランは首を傾けた。
「……とすると、俺の姿も見えないかもな?」
「あると思います」
クラリスはシリルに顔を向けた。
「確かに精神病の一種かもしれませんが、奥様がリディを見るようになるには、どこかしら〝意識〟を変える必要があると思います」
「意識?」
「はい。彼女にとって、リディには〝見たくない〟要素があるということです」
シリルはため息をついた。
「……きっと自分の産んだ子が、目が見えないということを認められないのだろう」
「……」
クラリスは目を閉じ、頭を巡らす。
「うーん。本当にそうなのかどうか、少し実験してみたいですね。アネッサさんが、誰が見えて誰を無視するのかということを」
「こら、クラリス。医者でもないのにでしゃばるなよ」
「でも、もしかしたらそれを重ねている内、見える部分が明らかになるかもしれませんよ。そちらにリディを寄せて行けば、最後にちゃんと奥様はリディを見られるようになるかもしれない」
シリルは頷いた。
「なるほど……確かに医者に任せていても何も進まなかった。やれることをやってみるのもいいかもな」
「必ず治るものではないかもしれませんが、まず家族がお互いを認識して集まれる環境を整えるべきです。彼女はシリル様がアネッサ様を遠ざけていると考えているみたいですし、一度きちんとこのことを説明してみてはいかがかしら」
「!あいつはそんなことを……」
「思い合っているのに、すれ違うのが一番悲しいことです。リディはとても賢いお嬢さんですから、説明すればきっと分かってくれるはず」
と、その時だった。
ドアがこんこんと打ち鳴らされる。
執事が扉を開けると、リディが紙の筒を持って仁王立ちしていた。
「……リディ!」
「話は全部聞かせて貰ったわ!」
リディは紙の筒を耳にあてがう。
「この紙の筒をこうして壁に当てると、隣のお部屋の話しは全部筒抜けなのよ!」
シリルは苦し気に額を押さえる。
「なかなか面白い実験だと思うわ、クラリス。お母様が誰をどこまで見るのか、私も気になる」
意外にもリディは乗り気である。クラリスはシリルに顔を向けて問う。
「一度、みんなで行ってみますか?」
「……リディが傷つくぞ」
シリルがそう止めるが、
「ううん。もう今まで充分傷ついてるから、これからはやれることをやりたいの!」
とリディは晴れやかに言う。
「それに、お父様がお母様を嫌いじゃなくてほっとしてるの。お父様は〝自慢の妻〟でなくなったからお母様を遠ざけたわけじゃない。私のことを考えてそうしたんだって、やっと分かったから」
「リディ……」
シリルは目を閉じる。
「ありがとう。君は強い子だ」
「お父様が弱すぎるのよ!」
リディが叫び、クラリスとロランは肩をすくめて笑った。
「そうと決まれば作戦会議だ。一体どのようにすればアネッサ様の視界に入れるのか、さまざまな可能性に賭けてやれることをやってみよう」




