27.エストーレ病院へ
立ち上がった妻の手を、ロランがちょこんと引っ張る。
「まあそうカッカするな……座れ」
クラリスは我に返って、顔を赤くしながら再び座った。
クラリスはリディに自分を投影している。だから尚更彼女を鼓舞したいのだろう──とロランは思った。
「ところでトリスタン。その、病院の時間は大丈夫か?」
「ああ。午後ならいつでもいいんだ」
パンケーキが運ばれて来た。
リディは足をばたばたさせて、その甘い香りに無言ではしゃぐ。
ナイフとフォークでぱくぱくとパンケーキを口に放り込み、彼女はうっとりと呟く。
「今日が、人生で一番幸せ……」
「まあ、リディったら」
クラリスがくすくすと笑う。
ロランはまだトリスタンと話し合っていた。
「病院は、どこに行ってるんだ?」
「エストーレ教会併設の医院だよ。この街の中心部にある」
「医者にかかるのも金が必要じゃないか?」
「ああ。実のところまだ騎士自体は辞めてはいないので、出世払いということで誤魔化しながら診て貰ってる。ちょっと骨が出てしまってるんで、取り除いて別の皮膚でくるむ再手術が必要なんだ」
ロランは、口には出さないがぞっとした。
「再手術……」
「一度は敵に斬られ、二度目は医者に切られる」
「……苦労が多いな」
と、その時だった。
がしゃんとカトラリーを叩き置き、リディが叫んだ。
「エストーレ医院、行きたい!」
周囲は水を打ったように静かになった。
「おい、何だ急に」
「トリスタン、私も連れてってよ」
「リディはどこも……いや、目が悪いか。でも、医者にかかる必要はないんじゃないか?」
「ううん、違うの」
リディは首を横に振ると、こう答えた。
「エストーレ病院に、お母様が入院しているのよ。だから、行きたい!」
ロランはクラリスの手の甲を静かにつつくと、彼女の横に移動して耳打ちした。
「……どうする?」
クラリスはじっと考え込む。
「そうですね。シリル様があえて口に出していないことですので、我々が首を突っ込むわけには……」
そう言いかけたところで、
「そうか、お母様がいるんだな?いいぜ、連れてってやるよ!」
何も事情を知らないトリスタンが、急に安請け合いした。ロランは思わずむせる。
「お、おいおい……」
「ん?何だ、ロラン」
「ちょっと、まだ、その──」
「何だよ。こんな小さい子が母親に会いたがってるんだから、会わせてやりゃいいだろ」
「わーい、トリスタンいいこと言う!」
リディの喜びように、クラリスも少し心がぐらつく。
「リディ、お母様にはどれぐらい会ってないの?」
「そうね。弟を産んでからだから、二年くらい」
「二年……」
するとトリスタンが顔をしかめる。
「二年も会えないなんてどういうことだ?子どもにとったら、永遠に近い時間じゃないか」
リディがしょぼくれて答えた。
「お父様が、会わせてくれないのよ。一度お母様の様子をお父様に聞いてみたら〝体は元気だ〟って言うの。元気なら、お母様はどうして屋敷に帰って来てくれないのかしら……」
彼女の説明で、様々な家庭の事情があることを、ようやくトリスタンも察した。
「そっか……体は元気なのか、なるほど」
「私、お母様に会いたい」
大人たちはリディに聞こえぬよう、顔を寄せ合った。
「多分アレだな。子どもを産んでから気が狂う女ってのが一定数いるんだ。きっとそれだな」
「エストーレ医院には精神病棟がある。閉じ込めておくやつだ」
「それは知らなかった。内科と外科以外もあったなんて」
「確かにそんなところに子どもは連れて行けませんね」
「でも可哀想だぜ、いくら公爵の隠し事とはいえ、娘を会わせないなんてのは」
「娘を連れて行かないのには、何か事情があるんだろう」
するとリディは小さな声で言った。
「病院に入らなくてもいいの……近くまで行ってみたいなぁ」
我儘な彼女が控えめに言い出したところに、大人たちは全員胸を打たれる。
「……どうする?」
「うーん、近くまで行ってみるぐらいならいいんじゃないか?」
ロランも、色々考えて言う。
「まあ、なかなか外にも出してもらえない生活だからな。母親の気配を感じるだけでも慰めになるだろう」
パンケーキの香りが漂う中、大人たちは頷き合った。
「本当!?やったー!」
リディは椅子から跳ね上がるように喜んだ。
店を出ると、全員一路エストーレ病院に向かう。
街の人々はしかめ面で集団を避けて歩く。ロランは久々にその視線に晒され、どこか懐かしい気持ちになった。
エストーレ教会は川沿いにあった。商店街を抜け、しばらく歩くと橋にさしかかる。この川に橋は少ないので、沢山の人々の往来があった。
リディは橋の下の水の流れに耳を澄ます。
「足元から音がする!すごーい」
と、急に教会から大きな鐘の音が響いた。リディは更に興奮する。
「すっごく近くで聞けたわ!いつも、窓から聞いていた音──こんなに大きい音だったのね!」
すると橋の周辺をうろついていた鳩が一斉に飛び立つ。
「わー!びっくりしたぁ!」
クラリスはくすくすと笑った。
「やっぱり、外に出るのはいいものね。色んな感覚を味わえるわ」
「クラリス、私、また外へ出たい」
「そうねえ。今度は私のお屋敷に来る?」
「いいの!?」
はしゃぐ二人の背中を微笑ましく眺めるロランだったが、ふと何かに気づいた。
一台の馬車を降り、橋の向かい側からカツカツと速足でやって来る見慣れた男の姿──
「おいリディ!そこで何をしている!!」
傷痍軍人を従えたリディは、ぎくりとして立ち止まる。
橋の向こうからやって来たのは、彼女の父、シリルその人だった。