2.異形の伯爵
クラリスは使用人の肩を借りて馬車を降り、嗅ぎ慣れない場所を不安げに歩く。
何かに躓くのだけは避けなければならない。杖を地面に滑らせながら、クラリスはふわふわした足取りでロランの屋敷に向かっていた。
妙に金属の香りがするので、防具を生業とするという情報は真実のようだ。
執事が扉を開ける音がする。
「やあ、どうも」
屋敷の向こうから、歳を取った男性の声が聞こえて来た。クラリスはこれがロランかと思って身構える。
オベール家の使用人が、クラリスに囁いた。
「笑ってください」
クラリスは慌てて取り繕うように微笑んで見せた。
ロランとやらは、思ったより歳を取っているのだろうか。急に思っていたのと違う情報にさらされ、クラリスは暗所に突き落とされたような気がした。
「これはジュスト様。久しぶりですな」
「マルセル様こそ、商会の会合以来ではないですか」
父の声で、彼はロランではなくジュストという御仁であることが判明する。
「クラリス、紹介しよう。この方はジュスト様。サミュエル家の現当主で、ロランの伯父だ」
クラリスはそれでようやくほっと胸をなで下ろした。
「初めまして、ジュスト様」
「やあクラリス、はるばるようこそ。歩いて移動出来ますかな?」
「はい、使用人もおりますし、杖があるので大丈夫です」
「では、こちらへ」
クラリスは階段を上がる。それから、光のない世界へと入って行く。
色は、何となく判別できる。床は赤い。窓からこぼれ差す光が、時たま杖に降って来て煌めく。
輪郭は、何も分からなかった。薄ぼんやりとした色が所々に見られる。そんな不安定な視界しか、クラリスは知らないのだった。
「ここにロランがおります」
ジュストの声が響き、応接間の扉が開けられる。
クラリスはどきどきと緊張し、前を向いて笑顔の準備をした。
父の言葉を思い出す。
(……どうにか、彼に気に入られなければ)
クラリスは虚空に向かって微笑んだ。
(弟たちに、これ以上迷惑はかけられないもの……)
応接室の奥から、足音がやって来る。
クラリスはその足音と対峙する。
確固たる信念のある足音。迷いのない足音。
彼女がそんな足音の持ち主にどんな挨拶をしようか考えていると、急にあちらから声が飛んで来た。
「……おい、どういうことだこれは」
とても低くてよく通る、若い男性の声だった。
が、その声色は朗らかな挨拶とはほど遠い。彼の声は心なしか怒りに満ち溢れていた。
クラリスの心は凍った。
やはりだ。盲人を嫁にするなど、ありえなかったのだ。クラリスが慌ててうつむくと、目の前のロランと思しき若い男性は苛立った様子でこう言った。
「マルセル様と、その使用人とやら。これはあんまりじゃないか」
そうですよね、とクラリスは肩を落とす。
「彼女は長女だと言うのに、ひどい格好をさせられている。髪は結うこともなくボサボサ。ドレスは原始時代のボロ切れ」
クラリスは目が見えないので、今更明かされる恐ろしい真実に「そうなのか……」と急に身のすくむ思いがした。
「事前に噂には聞いていたが……あんた達が目の見えないクラリス嬢を侮り、家でもひどい扱いをしていたのがよく分かる」
それを聞き、オベール家の面々が凍りついているのが、クラリスには手に取るように分かった。
「あんたらは最低な人間だ。もう帰ってくれ。クラリスはここで預かる」
クラリスは、思わぬ言葉に顔を上げた。
マルセルが、急に声を薔薇色に染める。
「と、いうことはロラン。うちのクラリスを娶ってくれるんだね!?」
クラリスは突然のことにくらくらした。ロランは静かに言う。
「娶る気はない。醜い俺なんかの嫁になったら、彼女が可哀想だと思わないのか?」
(……何ですって?)
クラリスは目が点になった。慌ててジュストが飛んで来る。
「こっ、こらロラン!お前は何を馬鹿なことを……!」
「何も馬鹿げたことではない。お針子を呼べ。マルセル殿には期待出来ないから、うちで彼女のドレスを仕立ててやろう。クラリスは美人だからな。きっと着飾ればその内手を挙げる家もあるだろう。身分はご立派なものなんだし」
美人。
これも、聞いたことのない事実だった。
しかし。
(それでも、ロラン様は私と結婚したくないのね……)
やはり体の障害が問題なのだろうか。どんなに着飾っても美人でも、その一点で嫁候補からは外されるのかもしれない。
クラリスの作り笑顔は一転、曇って行った。
しかしマルセルも黙ってはいない。
「いや、この屋敷に泊ったとでも噂が立てば、結婚せざるを得なくなるぞ」
この婚約話をどうにか既成事実化しようという父の魂胆が透け、クラリスは更にみじめになる。ロランはマルセルに冷たく言い放った。
「じゃあ採寸だけして、今日はもう帰るといい。ドレスは後でうちから届けよう」
「んなっ!」
「とにかくだな、あんたは娘の扱いをもう一度考えろ!このままじゃ、あんたを義父にしたがる男は出て来ないだろう」
「ロラン、どうにか……」
と。
クラリスは自分でも気づかぬ内に、ぽろっと一筋の涙をこぼしてしまった。
慌てて目をこするが、明らかに場は静まり返る。
すると使用人が、小さく耳元で繰り返した。
「笑ってください」
その瞬間。
「もういい!お前たちは今すぐ帰れ!!」
ロランの怒号が響き渡った。部屋中にびりびりと反響するような、聞いたこともない大声だ。
クラリスは濡れた目で呆気に取られた。ロランはクラリスの横に立つと、使用人を彼女から引きはがす。
「二度とうちの屋敷に来るんじゃねぇ……人でなし共がっ」
マルセルは何かぶつくさ言っていたが、結果娘を押しつけられるきっかけが出来、ジュストになだめられながら軽快な足取りで帰って行く。
ロランは肩で息を整えながら、大きなため息を吐いた。
「あー……」
そして頭を抱え、しゃがみ込んだらしいことが風の動きで分かった。
「俺は一体何を……」
クラリスはしゃがんだロランを見下ろした。
金色の長い髪。半分赤い顔。白い服。そこまではおぼろげながら分かった。
彼は、自分のことをしきりに醜い醜いと言っていた。
けれど。
「……あなたは、ちっとも醜くなんかありません」
ロランはその声に顔を上げる。
「とても正義感があって、心の美しい人です。家族にすら疎まれていた私の立場を尊重してくれた人は、私の人生の中で、あなたが初めてです」
クラリスは涙を溜め、ようやく心から微笑んだ。
ロランは顔を赤くし、ぼうっとその晴れやかな笑顔に見入っている。