17.デュベレーの丘修道院
「ロランったら。私のことをもっと知りたいの?」
クラリスは目を閉じて、こらえ切れないといった風にはにかんだ。
ロランは言う。
「いきなり結婚してしまったものだから、俺は君のことをまだ余り知らない」
「そうですね。私も同様です」
「クラリスが過去の話をする時、俺は何だか置いて行かれたような気持ちになる」
「分かります。私も逆の立場なら、ちょっと引っかかる気持ちになりますね」
「今から言うことを笑ってくれて構わないが──つまるところ俺は君のことを全部知っておきたい」
「ふふふ……はい」
「ちゃんと夫婦になる前に」
「ロランって意外とロマンチストなのね」
「……〝意外と〟は余計だぞ」
二人は御者に頼み、行き先を変更して貰った。
行き先は、デュベレーの丘。
ここから遠いが、このまま行けば夕刻には辿り着く。
日が傾き始めた頃、馬車はデュベレーの丘に着いた。
クラリスは馬車を降りると、胸いっぱい夕空の気配を吸い込んで呟く。
「ああ……懐かしい匂い……ジンジャークッキーの焼ける匂いだわ……」
それから彼女は夫に寄り添って、焼菓子の香りに吸い寄せられるように歩き出す。
かつて歩いた、階段状に整備された地面。
丘の上の修道院は、二人を祝福するようにでんと構えていた。
丘の頂上に来ると、子どもの声がちらほら聞こえて来た。干した白いシーツを取り込む修道女たちが、すぐにこちらの存在に気づいた。
「あら?クラリス?」
「クラリスじゃないの!」
ロランは驚いて迫り来る集団を見渡した。修道女の群れの中から、ひとりの老女が進み出る。
「クラリス、お久しぶりです。拝見しましたところ、そちらの殿方はクラリスのご主人?」
ロランは努めて微笑んだ。
「ああ、そうだ。私の名はロラン・ド・サミュエル。以後お見知りおきを」
「私はこの修道院の院長、コレットと申します。ところであなたはあのサミュエル伯爵家のご親戚なのですか?」
「現当主の弟の息子だ。かつては父と共に防具職人をやっていたが、父が死に、私が次期当主に決まったので今は経営方に回っている。現サミュエル伯爵当主に男児がいないから、そうなった」
「あら、そうでしたか。私が丘を降りない間に、そんなことになっていたのですねぇ」
ロランは老女の視線にほっとする。
さすがは宗教者だ。ロランの顔の痣を見ても、全く驚きや嘲るそぶりを見せない。
「それにしても、クラリス……とっても綺麗なお嬢さんになって」
コレットの足音が、どこかしみじみと地に響く。クラリスはその聞き覚えのある足音に、そっと涙を拭った。
「本当に、お久しぶりですコレットさん」
「ワトー先生が亡くなってから、全く来なくなってしまったから心配したわ」
「父が、ワトー先生がいない孤児院に行くことをきつく禁止しましたもので」
「まあ、そうでしたか。確かに不特定多数との交友は、伯爵家のお嬢様にはふさわしくないというお気持ちは分からなくもないですが……。そうですね、ご両親はお元気ですか?」
クラリスは言いにくそうに下を向く。
「母の方は、ワトー先生が亡くなった次の年に病に倒れまして、そのまま……」
「……そうでしたの」
「父と弟は元気です。私は、つい二か月ほど前に結婚したばかりなんです」
「あら、ではお二人は新婚なのね」
「はい!」
そう言うと、クラリスはロランの腕にぎゅっとしがみついた。
修道女がそろりとやって来て、何やらコレットに耳打ちをする。
コレットは頷いた。
「……そうだわ。立ち話も何ですから、お二人ともこちらからお入りなさいな。ホットワインに、デュベレーの丘修道院名物ジンジャークッキーのご用意があるそうです」
「わあ、懐かしいわ!行きましょう、ロラン」
二人は修道女に導かれるまま、修道院へと入って行った。
修道院の客間で、三人は軽食を前に向かい合った。
「コレットさん、実は」
クラリスが口を切った。
「私、今、目の見えないご令嬢についてとある公爵から相談を受けております。それで、ここに何かヒントがあればと来てみたのです」
コレットは頷いた。
「その公爵様がクラリスの振る舞いを見て、娘さんも同じように躾けたいとおっしゃったわけね?」
「!その通りです……」
「……あなたのお母様のような進歩的な考え方を持つ人とは違い、一般の貴族の方々は立場上、孤児院に出向いて教えを乞うなどということは面子を気にして出来ないのでしょう。誤解を恐れずに言いますが、ワトー先生があれから貴族に訓練を行わなくなった理由が、こういった貴族社会の閉塞感にあることは、教育の一端を担わんとするクラリスにもお伝えしておかねばなりません」
クラリスは胸を押さえた。
「それって……」
「実は、クラリス。あなたが先生の教えを一通り出来たところで、マルセル様から孤児院にお話があったの。あなたが生活を一通りこなせ、嫁に出せる準備が整ったから、再び屋敷に閉じ込める、と。その話がワトー先生の中では決定的だったらしく、それ以来、先生は貴族への訓練を行っておりません」
クラリスは頷くと、悩まし気に目頭を押さえた。
「そ、そうですか……」
「病や困難は、立場や金銭の有無に関わらず誰にでも降って来ます。時間の流れと同様に、これは平等なのです。しかし、貴族の方々は大抵それを使用人の働きや金銭で解決してしまいます。だから尚のこと、障害や困難を隠す方へ向かってしまうのです。そして孤児とその病はこの世にないものとして、見て見ぬふりをしてしまう」
ロランにも覚えがあった。
貴族の皆が自分の醜い顔に関し、「この世にないものとし、見て見ぬふり」を決め込もうとすることを。
「つまり、問題は二つあります。ひとつは貴族の方々は障害を恥ずべきことと捉えており、生活訓練を〝障害の矯正〟と捉えていること。ふたつめは孤児と自分達は違う種族であると考えている、ということ」
クラリスとロランは、同時に唾を飲み込んだ。
「そう、とても排他的なのです。だから、病気や障害のことを何ひとつ理解していません。ですから、もううちでは貴族向けの訓練は行っておりません。ただ、孤児にはシスター達による訓練がまだ行われていますよ。見学して行かれますか?」
「……まだ、目の見えない子がいるの?」
「ええ、三人ほど」
「前にワトー先生がおっしゃっていました。目が見えないと分かったから、彼らは捨てられたのだと」
ロランはぎょっとしてクラリスを見やる。
クラリスはそれに気づかずに続けた。
「確か私が産まれた年は妊婦の間で流行り病があり、大量の視覚障害の赤ちゃんが産まれたんですよね。それで、捨て子が横行した。ワトー先生はそれを見兼ねて、盲人を助けるために独自で勉強を重ねたそうですね」
「あら、先生ったらそんなことまでクラリスに喋っていたの?」
「はい。生活出来るようになった孤児を社会に送り出すのが、自らの使命だと」
「そう。……やはり先生は、クラリスには何か感じるところがあったみたいですね」
「?」
「恐らく。その話、先生はクラリスにしかしていませんね。私は今日初めてそのことを聞きました」
「!」
「先生は、クラリスに何か自分の思いを託していたのかもしれません。クラリス。私が思うに、あなたにはきっと、神から与えられた使命がある」
そう言い終えると、コレットはロランに顔を向けた。
「あなたも、クラリスに何か感じるところがあって結婚したのでしょう?ただの、従順なご令嬢にはない部分を」
ロランはクラリスと顔を見合わせた。
「そうだな……」
クラリスは見えない目で、何かを待ちわびるように微笑み彼を見つめている。
「クラリスは見えていないのに、見ないふりが出来ないんだ。そして見えていないのに、きちんと見ようとする。見えていても見過ごしてしまうものを、見過ごさない。そう言う〝目〟を持っているんだ」
クラリスはコレットの方へ顔を向けると、くすぐったそうに肩をすくめた。