12.クラリスへの手紙
クラリスは、ロランにとって余りにも神聖な存在だった。
だから本当に妻として迎える時は、何かが壊れる時だと思っていた。
しかし彼女が全く別の誰かに壊されそうになった瞬間、気が触れるのではないかと思うぐらいに逆上した自分がいた。
ロランはその夜、初めてクラリスを寝室に連れ込んだ。
震えている寝巻姿の彼女は、夫にしがみついている。
「……怖い思いをさせたな」
クラリスは頷いた。
「君を傷つけるのが怖い」
クラリスは首を横に振った。
「私、あなたがそばにいてくれたら何だって大丈夫です」
「……クラリス」
「でもやっぱり、今日は落ち着かないですから、その……夜中、ずーっと抱きしめてもらってもいいですか?」
「そんなことなら、いつだって」
「本当?嬉しい」
その時、ロランは自分が彼女に今までしてきたことの愚かさに気づく。
クラリスは懸命に自分を求めてくれていた。
それが分かっていたのにいつかまた傷つけられることを恐れて、ロランは彼女の思いに目を背けていたのだ。
けれど一度彼女を愛したら、自分が傷つけられることなど、どうでもいいことに気がついた。
自分が傷つくことよりも、彼女が傷つけられることの方が何倍も怖い。そして自分はもう決して、彼女を傷つけたくない。
極端な話、自分のことなど、まるでどうでもよくなってしまった。
彼女の幸せが、一番の望み
ロランは柔らかなベッドの中で、妻を思い切り抱きしめてキスをする。
クラリスはその力加減の拙さに、声も出さずに小さく笑った。
翌朝。
ロランはベッドの上で目を覚ます。
隣で寝ているクラリスが、小さくうなされている。
日が昇り始めていた。
ロランはクラリスの目を覚まそうと、再び彼女を抱き締める。クラリスはハッとして、目を開けた。
「……ロラン」
「眠れたか?」
クラリスは答える代わりに、夫の首に腕を回す。
「ええ。あなたのおかげで、ぐっすり眠れました」
「嫌なこと、全部忘れさせるように頑張るから」
「じゃあ……もう少しこのままでいさせて」
二人は布団にくるまって抱き合い、飽きるまでキスをして眠気を分かち合う。
昨日のこともあったので込み入ったことはしなかったが、彼は初めてベッドの中にクラリスを導いてくれた。
クラリスはようやくロランが自分を受け入れてくれたのだと思い、嬉しかった。
「もっと楽しいことを探そう、クラリス」
ロランは妻の耳元で囁いた。
「他人に邪魔されず、人の目を介さない楽しみを」
「……そうね。例えばどんなこと?」
「色々考えてる。まずは庭だ。障害物をなくし、君が楽しめるように整備しよう。見た目に美しいだけの植物は取り払って、香りの強いもの、鳥を呼ぶもの、音の鳴るものを植えて」
「いいわね、楽しそう」
「あとは動物でも飼うか?」
「動物……?その前に……やることがあるでしょう、お父様」
クラリスが含み笑いをし、ロランは赤くなる。
「いいのか?この痣が遺伝するかもしれないぞ」
「しませんよ、きっと。あなたの親族に、そんな方いらっしゃいましたか?」
「うーん。それに君は目が見えないし」
「あなたは見えてるでしょ。それに、乳母を雇えばいい話じゃないですか。私、せっかくあなたのようないい夫に出会えたのだから、あなたとの子どもを産んでみたいんです」
珍しく妻が要求を突き付けに来ている。ロランはたじたじになった。
「まぁ、クラリスがそうしたいと言うのなら……」
「本当?じゃあ、その内に」
「嫌な記憶がなくなって、大丈夫そうなら言ってくれ」
まだ、お互いに遠慮がある。
それでも、それはお互いに愛し合っているからだと分かれば、もう悲しくはない。
「あと、私に出来ることをもっと探してみたいわ」
ロランは頬杖をつく。
「マンドリン以外の楽器とかか?」
「それもいいけど、もっと違ったことにチャレンジしてみたいな」
「食事はどうだ?別の国の料理とか」
「それも楽しそうね。でも……もっと、私にしか出来ないことを探してみたいの」
「難しいことを言うなぁクラリスは」
「あら、そう?みんなこの世に生を受けたからには、自分にしか出来ないことを探すものじゃないの?」
「……使命、みたいなものか?」
「うん」
お互いの間にあった壁のようなものが、今はもうすっかり取り払われている。
「……外は、いい天気?」
「ああ。それなりに」
「ねえ、今度、町に出てみない?」
ロランは首を横に振った。
「駄目だ」
「そう……」
「美人も罪だ。いたずらに男の目を集めてしまう」
「じゃあ、今日も庭に行きたいです」
「そうしよう」
「そうだ、外でマンドリンを奏でたらきっと楽しいはずよ」
クラリスはいいことを思いついたとばかりにベッドから降り、そそくさと部屋を出て行った。
庭に出ると、クラリスはマンドリンを爪弾く。
屋外だと音自体は流れてしまうが、風の音や鳥のさえずりが混ざり合い、何とも言えない味わいがある。
実家ではいつも部屋の中にいたクラリスには、とても刺激的な演奏だ。
その隣に、ロランは使用人と共に、どさりとハーブの鉢植え八種類を置いた。
「あら?いい香り」
「ちょっとハーブの苗を持って来たんだ。庭に植えようかと思って」
クラリスは胸の前で手を合わせた。
「まあ……素敵」
「八種類ある。ミント、ローズマリーはお馴染みだな。今の季節ならラベンダーやバジルが花を咲かせている」
「食べてもいいわね」
「……食べるな!」
クラリスはバジルの葉を受け取ると、むしゃむしゃと食べた。
「本当に食べるなよ……」
「ロラン。今日はお庭でトマトとチーズのバジルサラダが食べたい」
「庭で食事か。そういうことは、余りしたことがないな」
「そうなの?きっと楽しいと思うわ」
「この際だから、東屋でも作るか?」
と、遠くから執事がそそくさとロランの隣にやって来る。
「何だ、どうした」
「クラリス様宛にお手紙が来ています」
クラリスは首を傾げた。
「……私に?」
ロランはむっとする。
「彼女は目が見えないんだぞ。それを知っていて手紙を寄越す奴がいるとしたら、どうかしている」
彼はそう言いながら、差出人の名前を眺めた。
「ん?シリル・ド・ヴォルテーヌ……聞いたことがない名前だな」
対してクラリスは、ハッと顔を上げた。
「ヴォルテーヌ?」
「何だ、知り合いか?」
「……知っているかもしれません」
ロランは力づくで封を開けた。
「ならば話が早い。代読するぞ」




