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理屈よりも大事なこと

作者: 働く猫の日常

 初めての投稿作品です。読んでいただいた方に少しでも楽しんでいただければ幸いです。

 「なんだってこんなに彼は毎日同じミスばかり繰り返すのだろうか。」

 今年40歳になったばかりの教務課長はいつものように2歳年上の吉田先生の失敗について

不満を述べていた。

 明らかにその言葉が聞こえている吉田先生は居心地悪そうに肩をすぼめているだけである。

 書類の決裁手続きをお願いしようと思っていた僕は、そっと教務課長の後ろを通り過ぎた。


 「今日は何をやらかしたんだよ。」僕がその話をすると吉祥寺先生は、喜んで先を促した。吉祥寺先生は新卒でこの学校に入り、吉田先生と同じく今年42歳となる英語教員である。

 僕は去年からここに新卒で入り、同じ英語科教員として吉祥寺先生が指導係に着いたが、以降様々な面で彼に振り回されている。

 「封筒に住所を書かずに投函したらしいですよ。」

 「そんなことってあるのかよ。」

 「あったらしいですよ。元々、吉田さんの不注意で書類の準備が遅れて締め切りギリギリだったらしんですよ。それが結局、宛先不明で返ってきて届かなくて教務課長の怒りは頂点へ。」

 高校・大学時代に陸上部で投擲の種目で鍛えた教務課長はただでさえ威圧感があり、その見た目通り体育会系の説教をするのだから吉田さんも相当怖かっただろう。

 「それが毎日だと気が滅入るだろうに。」可哀そうだな、と人ごとのように明らかに楽しんだ様子で

吉祥寺先生は、その話を聞いていた。

 「吉田さんは自分の息子さんも大変なのに。」

 「ああ、あの不登校の中学生の息子か。」

 「ええ、もう三か月になります。」

 「それだって最初はいじめられたからって言ってただろ。それがよくよく調査してみりゃ、そんな事実はまるで無くて、いろいろ確認していったら今度は教師に嫌がらせを受けているって言いだしたんだろ。で、それもどうやら違うらしいじゃねえか。今度は何を理由に学校に行きたく無いって言ってんだよ。」

 「学校に自分の居場所が無いって言ってるらしいです。」

 「結局は勉強も苦手で、人付き合いも苦手、だけどプライドだけは高いから上手くいかない理由を他人のせいにしてるだけだろうが。」

 

 「すみません。ここにハンコをついて頂いてもよろしいでしょうか。」

 後ろを振り向けば吉田先生が書類を持って後ろに立っていた。僕はさっきまでの話を聞かれたのではと、明らかに狼狽してしまっていたが、吉祥寺先生は「おう。」と堂々とした振舞いでハンコをついた。

 ありがとうございます。と職員室から出ていくその姿は、枯れ木を連想させるほど生気が無かった。


 「確かにあれは明日にでも、いきなり倒れそうな雰囲気だな。たかが仕事で失敗して、息子が不登校になっただけじゃないか。理解できないね。」

 「そうですね。吉祥寺先生は毎日失敗しているのに、全然悪びれないですからね。」

 吉祥寺先生の作る書類の数字は必ず、どこか間違っているし、さらに絶妙な箇所で誤字脱字をするため、気づかれずに外部に送付されることも多々あった。

 そのたびに所属長に怒られているのだが、その堂々たる姿に間違った憧れすら抱くこともあった。

 その度に彼は「エラーは多いですが、そこからのリカバリーも早いですよ、俺は」と口にした。

 確かに彼の仕事に不備は多いが、提出も早い。だからこそ失敗も多いのかもしれないが訂正も早く、入念に1からチェックするよりも、結果的に早く完成形にたどり着くこともしばしばある。


 「お前は来週土曜日の野球の練習は進んでんのか。」と吉祥寺先生は勤務時間終了までの時間つぶしと言わんばかりに話しかけてきた。

 「あの試合のために練習しているのは吉祥寺先生だけですよ。」

 前期の期末試験に当たるこの時期はここあたりの学校は部活動停止期間に入る。試験当日も含めれば約2週間にも及ぶ。その期間中は部活動もなく、ここぞとばかりに教員は早めに帰宅する。

 「去年も一昨年も負けてるんだぞ。毎年負け続ける訳にはいかないだろ。」

 吉祥寺先生が話しているのは、その時期に行われる城西北高校との恒例の草野球のことだ。20年以上前から続いているらしい。私が勤務している城西南高校と城西北高校はどちらも私立であり、生徒層も似通っている。

 おまけに方角を表す漢字がどちらも二つ入っているため間違われることも多々あった。そういったこともあり何かと対立することが多かったが、仲良くしていこうということで始まった交流会が始まりだったと聞いた。

 結果として、その勝敗で毎年一部の教員はピリピリしているのだから本末転倒のように思える。

 特に教務課長は相手の教務課長と大学の同期らしく、その頃から続く因縁もあるようで、勝敗によって長い間、機嫌が良かったり、悪かったりする。特に負けたときの機嫌の悪さは目に余るものがあり、できるものであれば勝ちたいというのが職場全員の気持ちである。

 吉祥寺先生は野球部に所属した経験は無いものの、好きらしく近所の草野球チームに所属していたこともあるらしい。


 「今週の土曜日は暇だろ。練習しようぜ。」

 「嫌ですよ。それに僕は土日も仕事をしないと終わらないんですよ。吉祥寺先生と違って忙しいんだから。」

 「忙しい人ほど、自分の時間を持っている、と何かの本に書いてあったぞ。良いからやるぞ。溜まっている仕事は手伝ってやるから。」

 決まりだ。と退勤時間になると同時に鞄を持って颯爽と職員室から出ていった。

 いつもは生徒や先生方で賑やかな学校も、試験期間の午後7時にはほとんど人もおらず、静まりかえっていた。ふと見渡すと職員室には僕と吉田先生しか残っていなかった。

 人より多くの仕事を割り振られ、残業してすべてを終わらしたとしても褒められるどころか、怒られ否定される。そんな日常を過ごす吉田先生の後ろ姿は日に日に小さくなっていくように感じた。このまま小さくなり続けていずれいなくなってしまうのではないだろうか、ふとそんなことまで考えてしまう。

 学校を施錠しますよ。と用務員さんが見回りにきたため、僕もその日は職員室を後にした。吉田先生はまだパソコンと向き合っていた。


 久しぶりに目覚ましをセットせずにゆっくり起きようとしていたが、携帯の着信音で目を覚ました。自分にメッセージを送ってくるのは決まって広告やアプリの通知であったから、面倒だと思いながらも携帯を確認した。

 9時にグラウンド集合。と端的なメッセージが画面には表示されており、送信元は吉祥寺先生だった。

 

 「おう遅かったな。」と大学時代の友達から譲りうけたという野球部のユニフォームに身を包んだ吉祥寺先生はすでにネットに向かって打撃練習を行っていた。

 「二人だけで一体何の練習をするんですか。知っていると思いますが僕は、学生時代は文化部所属ですからね。」

 「安心しろ。練習というのはできないことをできるようにすることが目的だからな。それに二人だけでもない。」吉祥寺先生がバットで指示した方向を見ると、明らかにサイズがっていない大きすぎるユニフォームに身を包んだ小柄な男性がグランドをランニングしていた。

 帽子もかぶっていたため最初は誰かわからなったが、「ああ、鈴木先生おはようございます。」と声を聴いてそれがあの吉田先生だと分かった。

 

 「吉祥寺先生から声をかけられたんですよ。鈴木先生も来るから練習に来ないかって。」12時まで練習をし、昼食を買いに行った吉祥寺先生を待つ間、ベンチに座りながら話をすることにした。横暴な立ち振舞いを普段をしている吉祥寺先生だが、そういったお使いなどは率先して行う。

 「断ったって良いと思いますよ。もし無理やり誘われたなら僕が代わりに言って断りますから。息子さんのこともありますし。」とそこまで言って、息子さんのことまで触れるべきではなかったのではと気が咎めた。

 「そうだね。だから最初は断ろうとしたんだけど、そういうときだから誘ってるんだと言われてね。」

 「どうゆう理屈なんでしょうか。」

 「さあね。それと彼に言われて嬉しくなってしまったというのあるね。」

 「何を言われたんですか。」

 「勝つためには私の力が必要だと彼は言ったんだよ。ここ十数年言われたことがなかったからね。恥ずかしながら嬉しくなってしまって。最初は適当なことを言ってるんじゃとも思ったが、彼はそういうことは言わないからね。」

 たしかに彼はその場しのぎだとしても思ってないことは言わない。

 僕のクラスの生徒が悩み相談に来て「先生には私の気持ちはわからないですから。」と泣きながら訴えてきたときでさえ、「わかるわけねぇだろうが。」と間髪入れず答えていた。本当に教員免許を取得されたんですか?と聞きたいくらい、自分に正直に生きている。

 「なんだ。俺の良い良いとこでも言い合っていたのかよ。」

 後ろを振り返ると有名チェーン店のお弁当を両手に持って吉祥寺先生が立っていた。

 

 「何でこんな時に吉田先生を野球に誘ったんですか。」

 「こんなときだからだよ。」

 用事があるからと吉田先生は早めに帰宅し、グラウンド整備は僕が率先して行うことにした。吉祥寺先生は「俺も手伝ってやるからよ。」と恩着せがましく言ってきたが、付き合ってるのはこっちなのにと言いたいのを必死に我慢した。

 「それは吉田先生からも聞きましたよ。」

 「野球ってのは良いんだよ。ただ白いボールを投げたり打つだけなんだぜ。それなのに誰もが熱狂し、多くの人に愛されている。」

 「僕にはわかりませんけどね。まるで生産性もない。くだらないじゃないですか、スポーツなんて。」

 「良いこと教えてやるよ、鈴木。人間は理屈よりも感情を優先するんだよ。誰かが一生懸命投げたボールを誰かが一生懸命打つ。そうするとよ。不思議なことになんか感動するじゃないか。その瞬間だけは、ボールが飛んだってこと以外はどうでも良くなっちゃうんだよ。」

 「だから一瞬でも吉田先生の悩みだとかそういうのを野球で軽くしようってことですか。」

 「わかってきたじゃないか。その通りだ。」

 「根拠も何もない理想論ですね。」

 「根拠が欲しいなら、論文を検索してみろよ。「「スポーツが心に与える影響」」とかでな。きっと誰かが俺の代わりに理屈で証明してくれてるぜ。」

 僕はそれ以上、話しても無駄に感じただ黙々とグラウンド整備を続けた。

 その間もいかに野球が世界的に人々に愛され、また親しまれているのかを語り続けていた。


 どうやら平日にも吉祥寺先生は吉田先生と連れ出して練習をしているらしい。吉祥寺先生が定時に帰ることは珍しくもないのだが、吉田先生が定時に帰ることは滅多にないため彼が早く帰ることに誰もが驚いていた。

 いつもは夜遅くまで作業をし、それでも失敗が目立つ吉田先生の仕事は果たして終わっているのか心配になった。

 「無理やりではないですよ。」

 吉祥寺先生が「今後の作戦会議だ。」と3人とも午後に授業が無い水曜日の午後に近くの食堂に僕たちを誘った。僕は吉田先生があまりに心配になり、吉祥寺先生に吉田先生を無理やり連れ出さないように話した。

 「無理やりじゃないって言ってるじゃないか。」

 「それは言えるわけないじゃないですか。吉祥寺先生はいつも夜遅くまでかかって仕事してるんですよ。それなのに。いつもより2時間以上早く帰宅して終わるわけないじゃないですか。」

 「一応その日終わらせる仕事は全て終わらせてから出るようにしてますよ。」

 「ほら、問題ないじゃねえか。」

 「最初は平日の練習はさすがに無理って思っていたんですが。吉祥寺先生があまりに熱心に誘ってくれるので何とか時間内に終わらせようとしています。常に余裕はありませんが、不思議と終わるようになりました。」

 「それは、ただ文字を打ち込んだり、データを集計したりは早く終わるかもしれませんが、それでミスが増えたらまた教務課長に怒られますよ。」

 「それの何が問題なんだ。」吉祥寺先生はあっけらかんと答える。

 「仕事なんだから適当にやってもらったら困るじゃないですか。」

 「時間をかけたって吉田はミスするんだぞ。仕事の質は変わらずに効率は良くなってんだから今のほうが良いに決まってる。」

 「確かにそうですね。」と吉田先生までもが頷くものだから眩暈がした。

 「それに鈴木の話だと2時間以上効率が良くなってるんだろ。そしたら交流試合が終わったら1時間をそのミスのチェックに回せば解決だ。」それでも1時間早く帰れるぞ。と付け足した。

 そのあとは、打順をどうするだとか、相手校には新任で野球経験者が入ったとか、そういった話を吉祥寺先生がひたすら並べ立て、吉田先生が適切な相槌を打つといった時間となった。

 野球の練習を始めてからというもの、吉田先生が吉祥寺教に入ったという冗談さえ、職員室で聞こえてくるくらいに吉田先生は吉祥寺先生に影響を受けていた。


 次の日、「吉田先生ちょっと良いか。」と例の教務課長が職員室全体に聞こえるような声で吉田先生を呼びたてた。いつ見ても、なぜそこまで大きな声で吉田先生を呼びたてるのか不思議でならない。

 「昨日提出してもらった書類だが、また数値が違っているじゃないか。いつもと違って余裕を持って提出してきたのは良いが肝心なところは直っていないな。明日までに直して提出しなさい。」

 周りの同僚からみたら、いつもの光景が繰り返されているようにしか見えないだろうが、異なる点があった。

 いつもであれば、気まずそうに頬を歪め、背を丸くしている吉田先生が、書類に目を通し、背筋を伸ばし教務課長の指摘した点に耳を傾けていた。

 そして席に戻るやいなや、先ほどまで取り組んでいた作業を中断し、一心不乱に書類の訂正を始めた。

時間にしておそらく15分ほどたった頃、吉田先生は教務課長の前に再び立っていた。

 「なんだ。どこを直せば良いかわからなくなったのか。」と教務課長は明らかにいら立っていた。

 「終わりましたので、点検していただけないでしょうか。」

 教務課長は訝しみながらも、書類に目を通した。恐らくすべて改善されてあったのだろう。

 「最初からこうすれば良いんだよ。」と嫌味を一言添えるだけにとどまった。

 当の吉田先生はそこから、自分の席に戻ったかと思うとカタカタとパソコンを打ち始め、スムーズに仕事に戻っていった。



 金曜日の最後の練習は僕も顔を出すことにした。

 「そういえば」と吉田先生は自動販売機で買ったコーヒーを飲みながら思い出したかのように話し始めた。吉祥寺先生は「明日のために早く寝る。」と言い、一人先に帰宅した。

 「吉祥寺先生が昨日私の家に来たんだよ。」

 「何をしにいったんですか。」

 「どうやら、息子と話をしたいらしくてね。「「アドバイスをしてやらねぇとな」」とか言って。」

 「吉祥寺先生が一体何をアドバイスをするっていうんですか。」

 「私もちょっと心配だったんだけどね。ほら、息子は今学校に行けていないし、ご飯のとき以外は部屋に閉じこもりっぱなしで。私ともあまり会話してくれないからね。」

 「いったい何を話したんですか。」

 「それがわからないんだ。部屋の前まで案内したら私と妻は居間にいるように言ったからね。ただ1時間くらいしたら降りてきてね。「「あいつ、次の交流試合見に来るってよ。負けられねぇな。」」って言って帰っていったんだよ。」

 「余計なこと話していなければ良いですけどね。」

 「何を話していたのか気になって私も吉祥寺先生に聞いてみたんだけどね。教えてくれなかったよ。」

 「野球の話をしたんですかね。」

 「「「学校在中のカウンセラーだって相談内容を全て開示しないんだ。お互いの信用に関わるからな」」とそんなこと言っていたよ。」

 私も良かれと思い、生徒から受けた相談をほかの先生に話したところ、生徒から嘘つき呼ばわりされ、一切相談をしてくれなくなった経験がある。

 「ただ、夕食の時間に珍しく息子が口を開いて聞いてきたことがあったよ。」

 「何て言ったんですか。」

 「吉祥寺先生も不登校だったというのは本当なのか、と聞いてきたんだ。」

 「吉祥寺先生が不登校だったわけがないじゃないですか。」

  僕はまずいと感じた。生徒から話を聞く場合に互いの共通点や共通の話題をしてから本題に入るのは良く使う手段ではある。しかし、この手の生徒に対して嘘をつき接するのはまずい。生徒の信用を大きく失うことになる。

 そこまで考えたところで、いやっと、我に返った。

 「そうなんだよね。彼は正直だ。嘘をつくとは思えない。」

 「吉祥寺先生が学校に行けなくなるような繊細なタイプには見えませんが。」

 「もしかしたら、自分も似た境遇にいたからほっとけなかったのかもしれないね。昔の自分と重ねていたのかも。」

 ああ見えて彼も繊細だからね。とそこまで言ったところで吉田先生は帰る準備を始めた。

 明日はいよいよ交流試合だ。


 僕が8時グランドに着くと吉祥寺先生と吉田先生はすでに到着しており、グランドに試合に必要な白線を引こうとしていた。試合前のグランド整備は毎年交代で担当しており、今年は本校の担当であった。

 こういう仕事は若手が押し付けられる類のものだが、吉祥寺先生は率先して手を挙げた。

 そこまでは良かったが、協力者として僕を勝手に指名はして欲しくなかった。

 9時頃になるとグラウンドに人が集まり始めた。イメージとしてはウォーミングアップは全体で取るものだが、そこまで本格的なものではなく、到着したものから各自、ランニングそしてキャッチボールを済ませるくらいのものだった。

 試合開始前の30分前になると教務課長も到着した。誰よりも遅く来たにも関わらず誰よりも今日の試合にかけている様子が見てとれた。

 試合の勝敗で何か優劣や賞品が決まるわけではないので必死になる必要はまるで無いわけだが、負けたあとは教務課長の機嫌が著しく損なわれ、それが2カ月は尾を引くものだから勝てるものなら勝ちたいというのは共通の目標に思えた。

 普段は仲が悪い教務課長と吉祥寺先生はこの交流試合に関しては通じるものがあるらしく二人でオーダーを決める作業に入っていた。

 ふと、バックネットに目をやると試合に参加しない同僚や家族の方々がまばらながらに見に来ている。

 「吉田先生、息子さん見に来てるんですか。」

 「ああ、あそこで携帯をいじっている眼鏡をかけた子供がいるだろ。あれが息子だよ。」

 吉田先生の息子さんを初めて見るが、丸まった背中で携帯をいじるその姿は以前までの吉田先生を思わせた。

 その隣で落ち着いた淡い青のワンピースを着た女性が息子さんに声をかけていた。どうやらあれが吉田さんの奥さんらしい。

 「奥さんは、この数日間野球の練習に参加することについて何か言ってなかったんですか。」

 子供がこんな時に何が野球か。と責められる姿がいまさらながら頭に浮かんだ。

 「良かった。と言っていたよ。」

 「何がですか。」

 「家に二人もしょげ返った人がいるもんだから困っていたらしい。何でも前向きに取り組むということは良いものだと喜んでくれたよ。」

 「理解がある奥さんですね。」

 「ああ、彼女も大変なはずなのに明るく振舞ってくれていたのだと、今さらながら気づいたよ。本当なら二人で家族のことを考えていかないといけなかったのに、そんな余裕もなかった。」

 「良い姿を見せられれば良いですね。」

 

 「やられた。」とオーダー交換を終えた吉祥寺先生は苦い顔をしていた。

 視線の先を見ると相手校のピッチャーが投球練習をしていた。

 彼が投げる球は明らかに素人のそれではなく、球速そして制球力ともに経験者のそれだった。

 「中学校以降に野球部に所属したことがある人は利き手じゃないほうでプレーする約束だったんじゃないんですか。」

 「中学校の部活動は美術だとよ。ただ地元のシニアリーグでプレーしてたらしいがな。もっと言えば野球部が無い進学校に進んだが、地元の草野球チームでプレーはしてた美術部だ。」

 「そんな屁理屈みたいなのありなんですか。」

 「うちの教務課長も抗議したんだがな、その時の相手の態度が鼻についたらしくてな。大いに啖呵を切ってきたようだな。これで負けたら言い訳できないからなって相手に怒鳴ってたぞ。」

 ベンチに目をやると鼻の穴を膨らませ明らかに興奮している教務課長が腕を組んで座っていた。

 「気をつけろよ。これで負けたら去年の非じゃないくらい職員室の空気は悪くなるぜ。」

 そんなことは想像したくなかったが、試合が進むにつれて現実味が帯びてきた。

 変化球も投げられるのだろうが、取れるキャッチャーがいないのだろう。幸い球種はストレートに限られていた。しかし120km/h後半は出ているであろう球速に本校の打者は手も足も出なかった。

 5回を過ぎてもヒットはおろか、塁に出ることすら出来ていない状況に教務課長は明らかにイラついていた。

 こちらも吉祥寺先生が素人ながら自主練習の成果を発揮しヒットを浴びながらもなんとか0点に抑えていた。ここまで相手を抑えられた大きな要因は素人ながらに覚えたスライダーのおかげだろう。去年までは取れる捕手がいないために投げていなかったが、今年は吉田先生が捕手を務めた。

 スライダーの捕球練習に、この数日費やしていたのだろう。昨日の練習の時点ですでに完璧に捕球できるようになっていた。

 バックネット裏を見れば吉田先生の息子さんが携帯を見る素振りをしながらも、父親のプレーを見ている様子を見ることができた。

 「どうやって息子さんをこの交流試合に誘ったんですか。」

 こちらの攻撃となり、ベンチで給水をしていた吉祥寺先生にどうしても聞きたくなり尋ねた。

 「子供っていうのはよ。親に期待してるもんなんだよ。」

 「親が子供に、の間違いじゃなくてですか。」

 「親が子供にする以上にだよ。親が立派に人間だと信じることができて初めて自分のことも信用できるるんだよ。」子供のうちはな。とまるで何かを思い出すように話した。

 「吉田先生は立派な人間ですよ。」

 「俺たちからすればな。けどよ、あいつからしたら、相手を思いやる余裕も感じられずに生気もない。そんな大人に見えたんだとよ。親ってのは、自分の半身みたいなもんだからな。そうなってくると自分のことも批判的に見たくなってくるんだよ。そうして段々と色々なことに自信が無くなってきて、結局は親のせいだと考えるようになるんだよ。」

 「吉田先生は一生懸命頑張ってきたじゃないですか。」

 「子供にはそんなの関係ないんだよ。」

 「だからよ、教えてやったんだよ。お前の父親はすげぇ奴だ。次の試合で必ず活躍する。この世で一番難しいこと知ってるか。言ったことを実行するやつだよ。お前の父親はそれができる。そしてそれができる奴の息子であるお前もすげぇ奴だってよ。」

 「失敗したらどうするんですか。ここで失敗したらもっと信用を無くしていまいますよ。それに吉田先生は息子さんにそう言ったんですか。」

 「息子じゃなくても俺に約束したんだよ。誰にしようが約束は約束だろ。もうこうなったらやるしかないだろ。全部うまくいったら良いじゃないか。そのために全力を尽くそうぜ。」

 スリーアウト、チェンジ。とアンパイアの声が響いた。体力的な面を考慮し、今回の交流試合は7回制だ。つまり次の回が最終回となる。

 ここまで何とか凌いできた吉祥寺先生であったが、ついに均衡が破られた。こっちのエラーで出塁を許した矢先に相手の4番美術部が左中間を割る二塁打を放ったのだ。1塁ランナーはホームに帰還し、1点を失った。そこから何とか守り追加点は免れたが、痛い失点となった。


 この時は誰もが自分たちの負けを覚悟した。しかし、まさかツーアウト二、三塁の逆転のチャンスで吉田先生に打順が回ってくるなど誰も予想していなかった。

 要因は大きく2つに分けられるだろう。教務課長の機嫌を損ねることが心底嫌だという強い思いと、相手投手の疲れである。

 この回最初のバッターである体育科教諭は今までにないくらい粘り、ヒットこそ打てなかったものの何とか四球フォアボールで出塁した。次の打者は私だった。バントで同点のランナーを進めようとしたところ、ゴロを捕球した相手ピッチャーが一塁に暴投を投げた。1塁ランナーはその間に3塁に到達し、私は2塁まで進むことができた。その間2人のバッターが打席に立ったが残念ながら快音を響かせることはできなかった。ここで九番キャッチャー吉田先生が打席に立った。

 吉田打て、吉田頼むぞ、とベンチから声援が送られる。普段は別段仲が良いとは言えない職員であるがこの時はまさしく一丸となり、吉田先生に声をかけた。あの教務課長までもが吉田先生に向かって激励の声をかけ続けている。

 相手のピッチャーを見ると明らかに息を切らしていた。球速も最初ほど勢いを感じられない。

 当の吉田先生は明らかに緊張していた。終始肩を揺らし深呼吸を繰り返している。

 バックネットに視線をやると、吉田先生の息子さんは携帯から目を離し、父の姿をじっと見つめていた。

 奥さんは祈るように両手を組んでいた。

 相手ピッチャーからしても九番バッターとは言え、次のバッターに回したくないはずだ。今までで一番良い当たりをしている吉祥寺先生がネクストバッターに控えている。

 四球にも気を配らなければならない。

 緊張の中、投げられた初球は外角低めのストレートだった。タイミングは申し分なく吉田先生は振り切った。しかし、バットは空を切った。続く第二球も空振りし、あっという間に追い込まれた。

 ああ、とベンチにいる誰かが漏らした。恐らく諦めがみんなの頭に過っただろう。これから職員室に思い空気が二カ月は続くのだと。

 何人かが試合終了の整列に備え、立ち始めたが、なかなか試合は終わらない。吉田先生は粘った。ボール球には手を出さず、際どいボールには手を出し、ファウルで粘った。もしかしたら、と希望がまた燃え始め声援が再び起こり始めた。

 吉田先生はまだ諦めていない。もしかしたら次の吉祥寺先生につなげようとしているのかも知れない。

 確かに吉祥寺先生なら、なんとかしてくれるかも知れない。そう考えたのは私だけではない。

 「吉祥寺につなげ。」と誰かが声を上げた。

 打席にいる吉田先生がその声に頷いた。しかし、そこで

 「俺じゃねえよ。吉田。」とネクストバッターサークルにいる吉祥寺先生が怒鳴り声に近い声を上げた。

 「お前が決めろ。今ここでお前が決められなければダメだんだよ。今、この瞬間にヒットを打つことはお前にしかできねぇんだよ。」約束しただろうが。と吉田先生に激を飛ばした。

 吉田先生の息子さんは、シャッターチャンスを伺うカメラマンのように、決定的な瞬間を逃すまいと父親の姿を見つめていた。

 吉田先生はもう一度深呼吸をした。その深呼吸はパニックの中でも何かしなければという焦りからではなく、本当に心落ち着けることを目的としたものに見えた。

 相手ピッチャーは、セットポジションに入りボールは投げた。吉田先生もバットを振り始めている。

 ボムっ、と軟式ボールがへこむ音がし、打球は左中間に伸びていった。打球は決して早くは無い。センターが追いかける。追いかける。追いかける。グローブを伸ばす。果たして、

 ボールはセンターのグローブの球2個分横を通過しバウンドした。

 しかしレフトのカバーは早く、すでに捕球体制に入っている。

 2塁ランナーであった僕は必死に足を上げ走った。

 「走れ、鈴木。」と誰かの声が聞こえた。

 吉祥寺先生がホームベースの後ろで必死に声をかけているのが見える。

 ボールは今どこですか。僕は間に合いますか。声にならない叫びが頭をかすめる。

 三塁を蹴って息を切らしながらホームを見ると相手の捕手が捕球の構えをしているのが見えた。これは間に合わない。と思ったが、もう走ることしかできない。

 「頭から来い、鈴木。」吉祥寺先生がヘッドスライディングのジェスチャーをしている。

 僕は両手をベースに必死に伸ばしジャンプした。相手の送球が構えたところより若干上にずれたのが見えた。捕手は捕球後、ベースに向かってグラブをたたきつける。

 僕と相手捕手は一斉に審判を見た。

 時間にすると2秒にも満たない時間であったが、その間、緊張のあまり全く息ができなくなり

 セーフ、と言われたあとも、勝ったのか引き分けなのか理解ができなかった。

 理解が追いついたのは、「よっしゃあ」と両手を上げる吉田先生に同調するようにベンチの同僚が言葉にならない叫びをあげているのが聞こえたからだ。

 見ればあの教務課長もこぶしを突き上げ、顔を真っ赤にして声を上げている。

 ホームで倒れこんでいる僕に「ナイスラン」と唯一声をかけてくれたのは、涙で頬を濡らしている吉田先生の奥さんだけであった。

 隣で立ち尽くしている息子さんは両手を固く握り、父の姿をただ見つめていた。

 「ただの職場の草野球だぜ。何をあんなに喜んでんだよ。」と吉祥寺先生は意地悪な顔をして僕の顔を覗いた。

 「知らないんですか、吉祥寺先生。人は理屈よりも感情を優先するんですよ。」と返すのが精いっぱいだった。

 ただの草野球だ。と僕は思った。何も変わらない。吉田先生は明日からもまた仕事で失敗をするだろうし、教務課長は高圧的だし、吉祥寺先生もまた僕を振り回すだろうし、吉田先生の息子さんもいきなり明日から学校に行けるようにはなれないだろう。

 ただ、この一瞬の共有された感動が、これから先少しでも前に進むきっかけになればと、願わずにはいられなかった。

 

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