<マンホーム>編6
病院での診察から3日後、俺たちは再びサイフから呼び出しを受けていた。官邸の執務室へ入ると、今回は直ぐにサイフが応接卓へとやってきた。勧められるままに席に着くとサイフも腰を下ろして話始めた。
「ナスリーから話は聞いている。体調はどうかね?」
サイフは開口一番俺の体調を気遣う素振りを見せた。
「対処はしましたが、結果が出るのはもう少し先になると思います。」
「なるほど…。もし良ければ私の母校のナノマシン医療に詳しい人物を紹介できるがどうかね?」
サイフは以前、仕事を頼みたいと言っていたので、今日呼び出されたのは仕事の依頼だと思っていた。想定とは違う呼び出しに戸惑いつつ俺は断りを入れた。
「申し出はありがたいですが、もう俺からあなたたちに提供できるものはありません。」
申し出自体はありがたいが、サイフにはこれ以上弱みを握られたくはない。俺の勘が全力で拒否している。
「私は君の想像よりは情に厚いと思うよ。」
サイフは笑顔で諭してくるが俺の警戒心を解こうとしているのであれば逆効果だ。俺は彼を百戦錬磨の政治家だと認めている。
「大臣が情に厚いことは存じていますが、損得も気にする方かと思います。」
「なら答えは出ているじゃないか。君の価値は君が思うほど低くないと言うことだ。我々としても君には万全の状態で居て貰いたくてね。」
サイフは俺の皮肉にも一切感情を揺らすことなく答えた。そしてサイフの言葉はにわかには信じ難い。『イーンスラ』にとって俺は同盟国であるUSとの関係を悪化させかねない存在のはずだ。切る理由はあれど囲い込むメリットは思いつかない。
「納得行かないようだね。理由はいくつかある。まず弟が君と同じリスクを抱えていると言うことだ。」
サイフの弟であるアンタルは俺と同様にナノマシンの強化を受けている。将来的には同じような症状を発生する可能性はある。それを見越して治療法を確立しておきたいと言う気持ちがあると言っているのだろう。
「他には?」
「戦力としての保険だ。『イーンスラ』宇宙軍の実験部隊はまだ発足したばかりだからね。強敵と戦わないとも限らないだろう?」
これも弟絡みとは言えなくもないが言い方に含みがある。まるで強敵と戦わなければならない事態を想定しているかのような口ぶりだ。
「USと事を構えるおつもりですか?」
俺の問いに対してサイフの表情が珍しく緩んだ。
「なるほど。そちらと睨んだわけだ。だがUSとは事を構える気はない。彼らはまだまだ地球圏の盟主だ。戦うとすればユーラシア連邦だ。」
俺は目を見開いた。サイフは何かを掴んでいるのだろう。その声は確信に満ちている。「どういう事ですか?」
俺が再び問うとサイフはいつもの笑顔で答えた。
「ユーラシア連邦が<ルナ>奪還を目論んでいると言う情報がある。」
「<ルナ>を?」
ユーラシア連邦は<ルナ>侵攻を目くらましにして火星圏への進出を選んだと思っていた。実際USは<ルナ>全域を手に入れたが、資源的には枯渇しており旨みはない。一方のユーラシア連邦は手つかずの資源が豊富な火星圏に拠点を設営することで大量の資源を得ることに成功した。
「ユーラシア連邦は昔から領土拡張意識が高い国だ。それに<ルナ>は宙政学上は重要な拠点と言える。」
「だから盗られた領土を取り返そうとしていると?」
「恐らくは。彼らは体面を重んじる文化でもある。面子を潰されたままと言うのも、沽券に関わるのだろう。火星圏でUSに勝ったことで勝算があるのかもしれない。」
「火星の部隊は精強でしょうが、地球圏の部隊は弱体化しているのでは?」
火星への遠征は失敗に終わり弱体化したとは言え、地球圏のUS軍はまだまだ強力だ。言うは易いが<ルナ>を奪還できるものだろうか。
「ここからの話は確証はないが、私がユーラシア連邦の人民会議の長老ならば、火星の部隊を呼び戻す。」
「そこまでしてですか!?」
それこそ言うは易い。だが距離を考えればとてつもない労力が必要だ。
「先ほども言ったが彼らは体面を重んじる文化がある。<ルナ>を失った時点で人民会議の長老の誰かの面子は潰れている。捲土重来を期すならそれぐらいのことはやってのけるさ。」
「クサヴェリーが拒否するのでは?」
折角火星と言う<マンホーム>から離れた拠点を得たのだ。クサヴェリーがわざわざ出てくることは考え難い。
「所詮クサヴェリーは軍閥の大尉だろう?権力の大きさが違い過ぎる。長老が決めれば拒否などできないさ。拒否すれば物理的に首が飛ぶ。」
「なるほど…。」
それだけ権力に差があるのであればクサヴェリーとて拒否できないだろう。
「<ルナ>が全てが落ちない限り、君の出番はないと思っているが、それでも準備を怠る理由にはならない。」
仮に<ルナ>の裏側だけでなく、表側も全てユーラシア連邦の手に落ちたとしたら、ルナ・ラグランジュ・ポイント1にある『ウデュジャーザ』は直接ユーラシア連邦の脅威にさらされることになる。サイフはそこまで想定していると言うことだ。
俺は少し考えてから
「わかりました。そう言うことなら申し出を受けます。」
と答えた。サイフも俺を利用したいのであれば一方的な利益供与とはならないだろうと考えたのだ。
「物分かりが良くて助かるよ。では早速手続きをしよう。」
「それで大臣の母校はどこにあるんですか?」
『ニューフューシ』は狭いし『イーンスラ』の中心は『ウデュジャーザ』だ。また軌道エレベーターで戻ることになりそうだ。
「あぁ、場所はオックスフォードだよ。」
「オックスフォード?」
俺は想定外の名前を言われてそのまま聞き返してしまった。聞いたことはあるがどこにあるか想像がつかなかったのだ。
「私は留学していたのでね。イングランドにあるオックスフォードだよ。」
「やっと着いた…。」
『ニューフューシ』からインド半島租借地にある国際空港へリニアで移動し、そこから飛行機でロンドンのヒースロー空港へとやってきた。ヒースロー空港からは電車で移動し、やっとのことでオックスフォードまでやってきたのだ。時間にして16時間程で大した事はないはずなのだが、如何せん乗り換えに継ぐ乗り換えですっかり疲れ果ててしまった。ヴァレリーが居なければ、どこかで乗り継ぎを失敗していただろう。
入国の審査についてもムアンマル名義の旅券が特に見咎められることはなかった。政府が発行した正式なものであるので当然と言えば当然なのだが、流石に少し緊張した。
「君がムアンマル君か。」
指定された改札を出たところで太り気味の男性に声を掛けられた。
「ジョン博士ですね。ムアンマルです。よろしくお願いします。」
俺はそう言って手を差し出した。事前に教えて貰っていた画像通りの人物だ。サイフと同級生と言うことだが、年相応と言うかジョン博士の方は少し老けて見える。
「こちらこそよろしく頼むよ。」
そう言うとジョン博士は俺の手を握ってきた。夜遅いこともあり博士自らが迎えに来てくれたのだ。
「遠路はるばるご苦労だったね。では家に行こうか。」
ジョン博士は駅前でエレカーを拾うと俺たちはそれに乗り込んだ。こうして俺たちはジョン博士の家へと向かった。




