画家になった男
男が一人、夕暮れの耕された麦畑の間の、ぬかるみの一本道を、東の町から歩いて来た。
先ほど、羊飼いに導かれた泥だらけの羊の群れとすれ違ったせいで、彼が父の金で買い揃えた一張羅の服は、早くもみすぼらしく汚れてしまった。
頬のこけた血色の悪い顔に、赤毛の顎鬚をびっしりとたくわえ、落ちくぼんだ眼窩の底の青い目には、射るような鋭さがある、傍目には一種異様に映る男だった。
彼は俯いて、泥が撥ねるのも構わずに足早に歩みを進めながら、こんな事を考えていた。
「テオにとっての僕は、果たして対等なパートナーだろうか。何しろ、本業の絵で一セントも稼いでいないのだから、彼の金銭的援助なしでは、僕はたちまち仕事はおろか、生活さえ立ちいかなくなってしまう。とても望ましい関係とは言えまい。しかし、テオが画廊で僕の絵を積極的に売る努力をしてくれないのも、画家として自立できない一つの原因なのだ。これまでにかなりの数の油彩やスケッチをテオに送ったし、中には自分では出来栄えが良いと思う絵もいくつかあったが、彼の手紙の絵に関する返事はいつも、『もう少しで売れそうなんだが。』とか、『これからも続けたまえ。』だ。
テオは優しい男だから、僕の絵に見込みがないと言い出せないのではないか。だとすれば、僕は五年間も彼に無心して生きて来ただけのやっかい者という事になる。そう考えると、これまで絵の上達のために注いで来た努力や時間が無意味だと言われたようで、惨めで心苦しくて耐えられなくなる。
むしろ、画家として認めてくれず、このまま飼い殺しにされるくらいなら、協力関係など打ち切ってくれた方がいい。
僕が画家として自立してやって行けるようになる事を、弟も望んでいると思えばこそ、これまでは心から感謝しつつ援助を仰ぐことができていたが、もし、将来的にも画家として望み薄だと思っているのなら、これ以上の援助を彼から受け続ける事はできない。
ただ生かされているだけのやっかい者だなんて、誰だって思われたくないし、思いたくもないものだ。
しかし、たとえアントウェルペンに行って、運良く画家として活動するためのつてを得られたとしても、絵だけで生活を立てて行けるという保証はないし、自分はかえってそういった部類の成功とは縁遠い画家になりつつあるという予感のようなものも、感じ始めている。
というのも、これまで絵を描いて来て、分かった事の一つに、『次第に僕は、従来の絵画の技術一般から遠ざかって、僕独自の美意識と技法で描くようになるだろう。』、という感触があるからだ。
つまり、たとえ僕が将来、絵筆を自由に使いこなして、思い描いた通りの理想とする絵を描けるようになったとしても、その良さを理解できる人はそれほど多くはないのではないか、という事。
それでいて僕は、この道を歩む事を止めようとはしないだろう。
行きつかなければいけない場所が分かっているのに、別の場所へ寄り道するなんて悠長な事をしている余裕は、金銭的にも時間的にも、僕にはない。
僕がやろうとしている事は、芸術の高みへ導く魂の迸りを、絵で表わす術を身につける事だ。
絵を描き続けることができさえすれば、僕はいつか目標とする地点に到達できると信じているし、それ以上の見返りを求めるつもりもない。もちろん、僕の絵の理解者に出あえれば、なおさら嬉しいのだけれど……。」
男はそこで、顔を上げた。
刈り込まれた樺の並木が、夕焼の残照の逆光となって青黒い列をなしていた。その寂しげな並木の間を、ぬかるんだ道が、遠く地平線まで広がる薄紫の麦畑のはての、くすんだ真鍮色の空までゆるやかに蛇行しながら続いていた。
男はその微細な変化に富んだ光と影の中で、己の歩むべき道が慎ましくまた清らかに彩られているのを、静かな喜びとして見出した。
完