第31章 吸血姫伯爵(エレミア・サブネスト)5
お待たせしました。
いつも皆様ありがとうございます。
――目に映るのは空から見下ろす月の姿だけだ。それ以外に何も存在しない。これは夢、だけど、知らない夢。『彼/彼女』の知らない夢。
初めて見る夢だが、そこに驚きはない。『彼/彼女』の見る夢は、いつも地獄か天国であり、ただ静かな夢は知らない。
「何、かしらね。動ける。喋れる。赤くもない。血もない。月しかない」
あまりに静か過ぎる現状に、『彼/彼女』は首を傾げるしかできなかった。幻想の『青年』でも出てくるのかと、少し待ってはみたがその気配もない。
そのままじっとしていると、足元から水晶薔薇の胞子のような光が湧き出てくる。月の光が照らすだけだった世界に、無数の光の胞子が舞う。
だが、照らされて姿を現すはずの地面は黒く塗り固められて、光に姿を晒すことはなかった。ただ黒いだけの世界を月と胞子の光が照らす。
「意味不明ね。でも、どうしてかしらね。誰かに呼ばれてるような、そんな気がするわ」
黒い世界に仰向けに寝ながら月を眺める。何が理由でこんな夢を見ているのか、それすら検討がつかない。
「誰の声のなのかしらね……」
ただ、自分を呼ぶ声だけが聞こえる。聞いたことのない声。否、それは声と表現するには曖昧すぎる感覚。
目を瞑って大きく深呼吸をする。しばらくそうして、目を瞑っていると、小さな足音が聞こえてきた。
「ここからが、夢の本番ってわけね。天国か地獄か……」
そう呟いて目を開けた『彼/彼女』の目に飛び込んできたのは、瞬きをしながら『彼/彼女』の顔を覗きこむ少女の姿だった。
少女は白のワンピースを纏い、銀糸の髪を揺らしていて、どこかアリスに似た容姿をしていた。
「え? あなた誰?」
『彼/彼女』は自身に似ていることはわかったが、見覚えのある相手ではないことに驚きを隠せない。
少女は質問に対して、何度も首を左右に傾げるだけで答えを返そうとはしない。
「かつてないほどに意味のわからない夢ね……」
呆れた表情でため息を吐いていた『彼/彼女』だったが、少女が立ち上がって自身の周りをくるくると回り始めると、それを目で追っていた。
少女が回った場所に徐々に変化が起こり始める。『彼/彼女』はその様子に呆けた表情で固まってしまった。
少女が通った場所の地面から様々な植物が生まれ出る。その中には水晶薔薇の存在もあった。そして、その変化は徐々に速度を増していき、目に映る世界全てへと伸びていく。
『彼/彼女』が上半身を上げて見渡そうとした時には、すでに世界の全てが様々な植物で覆われていた。
「は? え? ほんと、何なのよこの夢……」
少女は楽しそうに緑の生まれた世界で回る。次第に植物だけでなく、虫や動物も生まれ始める。『彼/彼女』はまるで世界創造を目にしているような気分になっていた。
回っていた少女が『彼/彼女』に近付いて手を伸ばす。『彼/彼女』は然も当然のように、その手を取って立ち上がる。先ほどまで転がっていた地面を見れば、そこには何本もの水晶薔薇が芽吹いていた。
「花の妖精……とかじゃないわよね。私にそんなメルヘンチックな心があるとは思えないし」
少女の手に引かれるままに、『彼/彼女』は空に輝く月の下、緑の中を歩いていく。
だが、突如少女が立ち止まってしまう。
『彼/彼女』がその先へと目を向けると、そこには地面に埋まった黒い球体が存在した。
「えーっと、『暗黒』かしら?」
それは『彼/彼女』が知る『暗黒』によく似ていた。『彼/彼女』は考え込むような表情でそれを眺めていたが、少女が自身へと振り返ったことで、視線をそちらへと向けなおす。
少女は小さく首を傾げたまま、小さく笑みを浮かべていた。
「……楽しい?」
少女が言葉を口にする。だが、『彼/彼女』がその言葉の意味を考えるよりも早く意識が浮上し始める。意味を問うことも、考えることも適わないまま『彼/彼女』は夢から覚めることになった。
――水晶薔薇の園へと出かけた翌日、アリス達は冒険者ギルドの視察に来ていた。この町のギルドはモンスターの討伐依頼などはあまり出していない。そういったことはほとんどが騎士団や軍が担当しているからだ。
そのため、この町にいる冒険者の仕事は遠方の調査や他の町や村までの護衛がほとんどである。そういった長期にわたって町を離れなければいけないことは、町の守りを主な仕事をする騎士団や軍では中々行えない。そういった仕事はフットワークの軽い冒険者に任せるしかないのだ。
アリスはギルドの中でギルドマスターとの情報交換に勤しんでいた。ここのギルドマスターは前領主の頃からギルドマスターを勤めている老齢の男性だ。比較的温厚な者が多いこの町の冒険者を取りまとめているだけあって、本人もかなり優しい雰囲気をしていた。
だが、前領主の頃からのギルドマスターというのは伊達ではないのか、アリスの話の節々で鋭い眼光をみせることもあった。その度に、アリスも意地の悪そうな笑みを浮かべて応える。
「貴重な情報感謝するわ。ここで得た情報はうちのところのギルマスにも、しっかり伝えておくわね」
そう告げて話を切り上げたアリスは、入り口の近くで待っていたエレミアと従者の下へと歩いてくる。
「さすがお姉さまだね。あのギルマスからあれだけ有益な情報を聞き出すなんてすごい」
エレミアはそうアリスに言うと、嬉しそうな表情を浮かべながらアリスの手を取る。
「それで、今日はこれからどこに行くつもりなの?」
「そうね、この後は『彼』に会いにいきしょう。今日が丁度その日なわけだし」
アリスは優しい笑顔を浮かべながらエレミアに提案する。エレミアは少し驚いたような表情を浮かべて頷く。
「そう、今日はあなたのお父様、私とあなたを引き合わせてくれた彼の、命日だもの」
――町の中の大きな墓地、その一角にその大きな墓標は存在した。
この国には教会というものは存在しない。というのも、英雄であるオーパルや真竜帝などは現実の存在であり、神として崇める対象も存在しない。必然的に宗教というものが起こることもなく、現実の英雄や伝説的な存在が人々の心の拠り所となっているのだ。
墓標も四角い形をした者が一般的で、十字架などの宗教的な意味を持つ形はしていなかった。
「久しぶりね。今年もこうしてあなたに会いに来ることができたわ」
アリスが大きな墓標に水晶薔薇を供えながら、言葉を口にする。その言葉は今も自分が生きていることに対してなのか、それとも自分が目を背けずにここに来ることができたことに対してなのか、本人にもわからない。どうしてか、その言葉が口から出てしまうのだ。
アリスは知っている。不老不死などというものは悪夢でしかないということを。その身はただ大切な誰かがこの世を去っていくのを見届けることしかできない。ただ置いていかれるだけの身なのだ。
彼女の目の前で失われた命は多い。戦い、病気、寿命、理由は様々だが、彼女にはそれを止めることはできなかった。ただ、理不尽な現実に、時間の流れに涙を流すことしかできなかった。
「エレミアのことは任せてちょうだい。この子は必ず幸せにするし、守ってみせるから」
だから、アリスはただ誓うことをする。失われる者達に、自身のできる精一杯の想いで応えるため。自分の永遠を一時とはいえ、彩り、様々なものをくれた者達がただ安らかに眠れるように願って、彼女は誓う。
「お姉さま、ありがとう。お父様もきっと喜んでる。僕達はお父様のおかげで出会えた。だから僕もお父様に誓うよ。必ず、お姉さまと一緒に幸せになるよ」
エレミアがアリスに続いて自身の誓いを口にする。その姿にアリスは満面の笑みを浮かべる。アリスは気付かない、気付けない。エレミアの言葉の意味に、それが何を意味するのか、気付くことはできない。
だから、ただ喜ぶ。ただ願う。ただ誓う。エレミアが幸せを望んでいることを、エレミアと共に歩み続けることを、エレミアを幸せにすることを……。
(マスターもいい加減、気付きやがってほしーんですけどね。まっ、無理ですね)
後ろで控えていたモアは、アリスのその様子に内心で悪態を吐く。どんなアリスでも愛し、支えることはできる。でも、それでも、歯痒く感じてしまうことはある。今がそうであるように。
(マスターが誓いを果たさないことが、あの陰険チビガキ領主の幸せとか、どーしろっつーんですか)
――その日の夕食の始まりはとても穏やかなものだった。軽い談笑を交えながら、アリスとエレミアは言葉を交わす。
そうやって食事を進めていると、フィレアは一つの報告書をエレミアへと差し出す。エレミアはそれを見ながら、一度渋い表情を浮かべた。
「ん? どうしたのかしら。困り事?」
アリスが気になって尋ねてみると、エレミアは困った表情を浮かべてそれに答えた。
「近隣の『暗黒』に関する報告が少し……」
『暗黒』と聞いて、アリスは今朝見た夢を思い出して、考え込むような表情を浮かべた。『暗黒』はこの世界の人々の頭を悩ませる問題だ。それ故に、アリスも悩んでいるのだろうとエレミアは読み取る。
(あの夢は本当になんだったのかしら。白いワンピースの少女に『暗黒』、私の知っているもの、知らないものが入り乱れる夢……)
エレミアの観察眼でも、今のアリスの悩みを察することはできなかった。
アリスはこの夢が何か特別なモノに思えて仕方ないのだ。忘れてはいけない、考えなければいけない。強迫観念にも似たその思考は一度浮かんでしまえば止まることがない。
(ただの夢。ただの夢のはずなのに、何か重要な何かに思える。そもそも、あの夢は私が見るには異質すぎた……)
どれだけ考えても答えは出ない。その答えが重要であることはわかるのに、取っ掛かりすら掴むことができない。
いずれ答えを出す時が来るだろう。だが、それは今ではなかった。アリスは答えを見つけられず、時間だけが過ぎていった。
その後の夕食は一言も言葉を交わすことなく終りを告げることになった。
今回は伏線回です。
あとたぶん3話か4話でこの章が終わるはず。
次回も楽しみにしてくださると嬉しいです。




