第29章 閉会4(終)
お待たせしました。今回は2日連続更新です。
いつも皆様ありがとうございます。
――夢、これは夢。幸せな夢。あり得ない、あり得てはいけない夢。
そこは何の変哲もない平民の家。そこでアリスはドレスではなくシャツにロングスカート、上にはケープを羽織った姿で男性、ジムに寄りかかって幸せそうに笑っている。周りではどこかアリスとジムに似た子どもがはしゃいでいる。
アリスを『母』と呼び、ジムを『父』と呼ぶ子ども達は、アリスの語る昔の冒険譚を目を輝かせて聞いている。様々な場面で様々な反応を返す子ども達。
これは夢。幸せな夢。アリスが貴族にならず『愛する夫』と過ごす、そんなあり得てはいけない夢。
どれくらいそうしていただろうか、子ども達が舟をこぎ始めたのを確認して寝室へと連れて行く。子ども達を寝かしつけたら、今度は夫のためにホットミードを作り始める。
ホットミードをコップに入れてジムへと持っていく。彼はそれを受け取ると、一つだけお礼を言ってコップに口を付ける。アリスは自身のコップの縁を指で撫でながら口を開く。
「穏やかで、本当に幸せよね」
これは夢。どんなに幸せでも、夢でしかない。『今のアリス』を否定する、あってはならない夢。
それでも、アリスは目の前にある『偽り/夢』を手放せない。何よりも望んでいたものだったから。
アリスはジムに寄りかかって目を瞑る。彼の傍で穏やかな時間を過ごし、愛する子ども達に囲まれて、ただ普通の『妻/母』として生きていく。
唐突に肩越しに感じていた感触がなくなり、アリスは横向きに倒れこんでいく。
(あぁ、わかっていた。わかっていることだった。これは夢、あってはならない夢)
倒れこんだ先は床ではなく、血でできた池の中だった。身体が徐々に赤い池の中へと沈んでいく。
これは『現在/夢』だ。アリスのあるべき『真実/夢』だ。だから怯えることも、涙を流すこともない。先ほどまで見ていた『偽り/夢』はあってはならないもので、今いる場所こそが『彼/彼女』が歩んできた『真実/夢』だ。
沈んでいく、深く沈んでいく。それでも息苦しさを感じることはなかった。目を瞑って身体を委ねる。
気付けば身体に纏わりつく感触がなくなり、自分の足で立っていた。その目に映るのは何もない真っ赤な荒野だった。
荒野を歩いていく。どれだけ歩いても、荒野の景色は変わることはなかった。
『彼/彼女』は真っ赤な荒野を歩き続ける。行く当ても、目的地もなく、ただ歩き続ける。時折、自身の姿がぶれてかつての『青年』の姿になることもあった。
荒野は終わらない。
――目が覚めたアリスは、呆けた頭のまま上半身を起こした。目をこすって、近くに置いてあるぬいぐるみを手繰り寄せる。そのままぬいぐるみを抱きしめると、顔をその頭部に埋めていく。
(酷い夢だった。あんな夢見るなんて、絶対リリスのせいだわ……)
「あらぁ、おはよう、お姫様」
聞こえてきた声に一気に意識が覚醒していくのを感じる。声の方向へジト目を向けると、そこには昨夜散々なことになったリリスが笑みを浮かべていた。
「いつも思うんだけど、よく平然と顔を出せるわよね」
アリスは呆れたような表情でそう問いかけるが、リリスは特に気にしている様子もなく笑顔を浮かべている。
アリスは視線を外すと、再びぬいぐるみの頭頂部に顔を埋める。リリスは胸を強調させるようなポーズになって口を開いた。
「そんなこと言われても困っちゃうわぁ。だって、私お姫様のこと大好きだもの。会いに来るのに理由がいるかしら?」
「好きな子ほどいじめたくなるとでも言うつもり? あんたは小学生か……」
アリスに皮肉を言われると、リリスは嬉しそうに身体をくねらせた。
「よぉく、わかってるじゃぁない。さすがは創造主様ね」
そんなことを言われて、アリスはわざとらしく舌打ちをして眉をひそめる。アリスにしてみれば、昨日あれだけのことがあったのだから、リリスが顔を出さないことも覚悟していたのだ。
だが、リリスは今までもそうしたことを気にした様子を見せたことはなかった。今までに同じようなことがある度にアリスは、リリスに嫌われたんじゃないか、リリスに怖がられてしまったんじゃないかと考えて、もう直接会えないことを覚悟してきた。
だが、ただ一度ですら、その覚悟が意味を持ったことはなかったのだ。
「お姫様も細かいことは気にしちゃダメよぉ。ほぅら、今日は私が朝のお世話してあげちゃうから」
そして、その朝はいつもリリスがアリスの世話をする。これは損な役回りを任せることに対する、他の従者二人の心遣いである。
リリスはアリスを後から抱きしめて自分の上に座らせると、どこからか取り出したブラシでアリスの髪を梳かし始める。その手つきは繊細で、まるで壊れ物でも扱うかのようだった。
そもそも、リリスは従者の中で最もこういったことに長けている。高級娼婦でもある彼女は、身だしなみや化粧などといったことに非常に明るい。美を商売導具の一つにしているのだから当然のことではある。
「リリス、あなたはどうして……、いや、いいわ」
アリスは何かを聞こうとするが、それを最後まで口にすることはなかった。リリスは一度手を止めて、後から手を回して頬を撫でながら言う。
「大好きよ、お姫様。私達はあなたに生み出されて、あなたに愛されて、あなたに必要とされた。だから、私達はあなたに精一杯の愛を返すのよ」
いつものリリスとは違う、妖艶さのない穏やかな笑みと声音でそう告げる。その言葉を受けて、アリスはぬいぐるみを抱く腕に力をこめた。
リリスはアリスに対して敬意など示したことは一度もない。だが、敬意こそ示さないけれど、愛情だけはこうして時折示してくるのだ。だから、アリスも彼女を嫌うこともできなければ、邪魔だと思うこともできない。
自然とアリスは口を閉ざしてしまう。その間にもリリスはアリスの髪を梳かし、整えていく。静かな時間だけが二人の間に流れていく。
髪のセットを終えて、リリスは一度アリスをベッドに降ろすと、今度は手足の爪のケアを始める。それが一通り済むと、今度はクローゼットに向けて歩き始める。リリスはクローゼットからいつものドレスを取り出すと、すぐにアリスの下へと戻っていく。
慣れた手つきでアリスの着替えを終えた後、今度は彼女を金色の装飾がされた化粧テーブルの椅子に座らせる。そして、アリスの顔へと化粧を施していく。
アリスは元々男だったこともあって、この世界に来たばかりの頃は化粧などできなかった。イェレナや現王妃であるエレノーラと仲良くなって、半ば無理矢理教えられることになった。しかし、片や元冒険者、片や貴族でありながら騎士をしている女性、それほど凝った化粧ができるわけではなかった。
そんな理由もあって、10年近くの間アリスは簡単な化粧しかできないでいた。それが、10年ほど前に従者を生み出して、リリスが誕生することで状況が一変することになる。
リリスは『色欲』を司るモンスターの魔石を使っただけあって、そういった方面に対する興味が強かった。夜の作法はもちろんのこと、化粧やおしゃれについても急速に吸収していった。数年も経つ頃には、国内でもかなりの腕前になっていて、大事な場面でアリスのメイクやコーディネートを行うようになった。
更にアリスにそれらの指導も行うようになり、気付けば女性としての作法の先生とも言える存在になっていたのだ。
「はぁい、これでおしまい。かわいくできたわよ、お姫様」
アリスが目を開けて鏡を見ると、そこには薄くだが化粧の施された自分の顔が映っていた。それほど手間をかけたものではないが、モアや自分がするのとは明らかに質が違った。
アリスの肌は元がアバターであり、吸血鬼であるせいか、元から不自然な程綺麗だったため、薄化粧でもほとんどナチュラルメイクと変わらない感じになる。それを生かして濃い目のメイクをすることはほとんどなかった。
メイクの確認も終り、アリスは席を立ってドアへと歩き始める。ドアを開ける直前にふと思い出したように、リリスに向けて言葉を発した。
「昼頃にニャアシュを執務室に呼んでちょうだい」
リリスはそれに対して恭しく一礼する。それを確認した後、アリスは部屋を出て行く。
部屋の中には小さく笑みを浮かべるリリスだけが残された。
――昼になって、執務室の中で呼ばれたニャアシュと、呼んだアリスの二人が対面していた。
「カイト達のSランク入りだけど……」
「よし、言い訳を聞こうかにゃぁ?」
カイト達の大狩猟祭での成績が書かれた書類を見ているアリスの表情は引き攣っていた。引き攣っている理由は簡単だ。
「さすがに二桁ポイントは予想外もいいとこだにゃ。
聞けば、どっかの誰かが途中でカイトと戦闘をおっぱじめたって言うしぃ?」
そう、Sランクに上げるには成績が悪かったのだ。LDは問題なかったが、他の三人は途中でアリスとカイトが戦闘を始めたので成績が芳しくなかった。
「いや、私もある程度ポイントを稼ぐまで待つつもりだったのよ。でも、途中でカイトに気付かれちゃったし、仕方なくというか……」
アリスはバツが悪そうに視線を逸らす。反対にニャアシュの顔は憤怒に歪んでいる。
「グリムスの森の調査には、あのパーティーが必要なのはわかってるかにゃ?
あの森の探索条件はLVとSランクであることの二つ。それを満たせる唯一のパーティーだってことはわかってるのかにゃぁ?」
「わ、悪かったわよ……」
アリスが小さな声で謝罪を口にする。普段の態度からは考えられないほどに、今のアリスはしおらしかった。自分のせいで、重要な計画に支障が出ているのだからしかたないことなのだが。
「はぁ、黒竜王とのバトルの件でなんとかしてみるにゃ」
ニャアシュは仕方ないとばかりにため息を吐いて、苦肉の策を告げた。黒竜王に勝ったという実績は『確認できない』ことを除けば、十分にSランク入りできる実績になる。
アリスはそれを聞いて、驚いたような表情を浮かべて身を乗り出した。
「それよそれ。最初からそれでいいじゃない!」
アリスの天啓を得たとばかりに口にするが、ニャアシュはまるで可愛そうなものでも見るかのような生暖かい視線を向ける。
「は? 証拠もなにもないのに、上が簡単に納得するわけないでしょ」
もはや語尾に『にゃ』を付けるのも忘れて、アリスに対してダメ出しをする。だが、アリスからすれば、『証拠がない』ことが理解できなかった。
「そんなの、黒竜王とドラゴンを連れてきて証言させればいいじゃない」
アリスの言葉を聞いて、ニャアシュは頭を抱えることになった。戦いに対しては誇り高いドラゴンの証言であれば、十分に証拠となるだろう。嘘で『負けた』などと言えるような種族ではないのだ。むしろ『まだ完全に負けたわけじゃねーし』とか言っても不思議ではないくらいだ。
だが、そもそもどうやってドラゴンを連れてくるというのか、そんな発想ができるのは大英雄アリスくらいなものだ。
「それじゃ、黒竜王達を連れてくるのはアリスに任せるにゃ……」
もう疲れたとでも言わんばかりに肩を落としたニャアシュは、アリスに丸投げしてしまうことを選んだ。むしろそれ以外の方法が何も思いつかなかった。
「そう、じゃあ、あのパーティー全員のSランク入りの準備だけはしておいてちょうだい。『明日』にでもちょっと竜の箱庭に行ってくるから」
ニャアシュは聞きたかった。行って何をするのか。どうやって説得するのか。どれだけの血を流すつもりなのか。
だが、それを聞く元気はもはやニャアシュにはなかった。一刻も早くギルドに帰ってソファーでゴロゴロしたいと思うばかりだった。
「あぁ、それじゃあちしはもう……」
「もう一つ」
ニャアシュが退室を告げようとした時、それを遮ってアリスが声を出す。その目は鋭く、話の内容が重要であることを告げていた。
「丁度、転移者の登場と同じ頃から『暗黒』の増加が急速に広がっている件についてよ」
それを聞いて、先ほどまで肩を落としていたニャアシュも、軽く肩を回しながら鋭い目つきになる。その問題の重要性を理解しているからこそ、彼女はついさっきまで抱いていた欲望を投げ捨てて表情を引き締めた。
「正確には『特定の場所』以外での『暗黒』の増加だけどね」
「領主様、それは『災害』が発生する可能性があるほどなの?」
アリスは一度目を閉じてから、一組の資料を取り出す。それをニャアシュに投げ渡す。
ニャアシュはそれに目を通しながら驚いた表情を浮かべた。
「それは昨日帰還したリリスの情報を元に推測した資料よ」
ニャアシュは驚愕と絶望の入り乱れる表情を浮かべながら、資料から目を離せないでいた。
「有力候補が二箇所。一つは帝国と王国の国境にある『大戦場』。そして、もう一つが……」
「えぇ、『グリムスの森』よ」
それは近く起こる決戦を告げる言葉だった。アリスにとっても急すぎる報せだったはずだが、その瞳には強い決意が宿っていた。
「転移者の冒険者を招集する準備をしておいてちょうだい。『第0級接触禁忌災害』がそう遠くない内に出現するわ」
最大の脅威との戦いが迫っていることを、アリスは緊張した面持ちで口にした。
それはこの世界において、歴史上最大の戦いになるだろうことは容易に想像できた。そして、最悪この可愛らしくも健気な辺境伯が死ぬ可能性すらもあった。
執務室の中に重い空気が充満していく。討伐隊が負ければ、待っているのは国の消滅だ。アリスだけではない、ニャアシュも覚悟を決めなければいけない。
自然と資料を握るニャアシュの手に力が入る。
「必ず決戦は起こるわ。このグリムス領でね」
戦いの足音が聞こえてきた。それは避けることのできない運命であり、人々が生きるために立ち向かわなければいけない必然なのだ。
決戦の時は近い……。
というわけで、ついにレイドボスの影が見え始めました。
今回の引きは本当に難儀しました。
レイドボスについてほのめかすだけで終わるかどうか悩んで、あえて描写することにしました。
次回から過去章になります。
次回も楽しみにしてくださると嬉しいです。




