第18話 忌まわしき記憶
ヒムロは海を眺めていた。
すでに用意されていた披露宴会場は波に飲み込まれた。
それどころか波は砂浜を越え、今にも町に到達しそうだ。
それでもただヒムロは海を眺めていた。
パステルたちから意図的に離れて。
住民の避難は進んでいる。
町長の指示がなくとも、この海を見れば誰もが逃げ出したくなるだろう。
時折、いま海に出ている漁船に乗っている者の家族が海に向かって叫んでいるが、ヒムロの耳には入らない。
彼はただ海を見つめていた、荒れる海を。
そうすれば何かを思い出せそうな気がして……。
「荒れている……海が……。魔獣……クラーケンの亜種か……。こちらの戦力は不完全なフェナメト一機……」
無意識に彼はつぶやく。
「精霊竜の継承者……毒の力……今回の敵には相性が悪い……。船幽霊……こちらは勝利に必要不可欠……。何より必要なのは……」
ヒムロは大きく目を見開く。
「私だ」
彼はただ海を眺めるのを止め、前に向かって歩き出した。
● ● ●
「くっそ! こんなに風が強くちゃ霧の力はなんの役にもたたない!」
スキュラクラーケンに近づくほど雨風は強くなった。
こいつは天候を操作できる。暴風雨の前に霧は消え去るのみ。
俺が頼れるのが翼と剣だけだ。
とはいえ、その剣もいま群がる触手を切り裂くのに精いっぱい。
この触手一本一本についたオオカミのような頭部は飾りじゃない。
それぞれが思考し、連携して襲い掛かってくる!
今もまた吠えたかと思うと口から、圧縮された水を噴射する。
人間なら体がバラバラになりかねないほど激しい勢いがある。
「ちっ……!」
翼に当たれば穴をあけられるか……。
再生はするけど、一時的に海に落ちてしまう。
それは避けたい。
俺は剣の幅を広くし、竜の鱗をまとわせる。
さらに表面にガマウルシ毒を生成し、水の噴射を滑らせて受け流す。
その間も動きは止めない。止まれば狙い撃ちだ。
しかし、これでは敵に近づけない。
スキュラクラーケンはすでにそのタコのような頭部を海の上に出している。
その両目で俺たちを見て攻める手を考えているんだろう。
「ササラナさん! 触手の動きを何とか止められない!?」
「あら、難しいお願いねぇ。でも、若い子に頼られたらおばさん頑張っちゃうかな!」
ササラナの周囲に水が渦巻き、その水は青く輝く鎖へと変化した。
そして鎖がつながっているのは巨大な錨。穏やか海のような青色だ。
「深海の心錨で一網打尽よぉ!!」
重そうなイカリを軽々と投げると、それは不可解な軌道を描いて飛んでいく。
その軌道は繋がった鎖で触手を縛るためのものだ。
蒼く輝く鎖によって複数あった触手が一つの束にまとめられた。
「今なら……!」
俺はスキュラクラーケンに突撃する。
奴は温存していた触手で妨害してくるが、明らかに数は減っている。
あと少しでその大きな頭部に剣を……。
グオオオオオオッ!
低いうなり声のようなものが聞こえた。
目の前の敵があげた声だと思ったが、違う。
奴が海水を空中に巻き上げ、壁のように展開する音だ。
俺はそこに突っ込み少し移動速度が落ちるが、止まりはしない。
「エンデくん! ヤバいことになったわ!」
ササラナの声を聞き、俺は周囲に視線をやる。
目の前の敵にばかり集中していて気付かなかった。
スキュラクラーケンが大津波を起こし、町を飲み込もうとしている事に。
どうやって津波を止める?
俺にこれだけの海水を受け止める術はない。
ならば、やるべきことは変わらない!
俺はスキュラクラーケンの頭部に剣を突き立てる。
通常のタコとは比べ物にならないほど弾力があり、刃を押し返そうとするが負けない。
「それでいいわエンデくん! カッコいいわよ! こっちもいいとこ見せないとね……!」
ササラナは錨を増やしに増やし、鎖を伸ばしに伸ばす。
そして、それらを押し寄せる津波に向けて放った。
円形の内湾の中央で引き起こされた津波は、かなり広範囲に影響を及ぼす。
すべてをカバーすることは出来ない。
ササラナは町のある部分だけに標的を絞る。
それでも範囲は狭いとは言えないが……信じるしかない。
「海よ……静まって……!」
錨の刺さった波は少しずつ小さくなっていく。
これなら陸に辿り着くころには無害な大きさになっているはず……。
「うわっ!? ちょ……やめて!! 今はダメよ! ああ……ぐぅぅ……!」
ササラナが触手に締め上げられる。
多くの錨と鎖に集中している今は抵抗できないのか!?
「このくらい……大丈夫……。あっ……いや……やっぱりダメ……! 助けてエンデくん……! ふ、船も……もう……!」
ササラナだけでなくプレジアンの船も破壊されている。
フェナメトの剣の切れ味は鋭いが、盾ではあの巨大な船をかばいきれなかったか!
「いやぁ……もう一人は嫌よ……エンデくん……」
嗚咽を漏らしながらササラナがこちらを見つめる。
鎖にはヒビが入り始めていた。
スキルによって生み出された武器は、そのスキル所持者の精神に大きく依存する。
人に作ってもらった普通の武器よりも強く、修羅器よりもより理想に近い武器を生み出せる代償に、弱っている自分を守ってはくれない。一緒に弱っていくだけだ。
ヒビはササラナの心、もう砕けかけている。
しかし、ここでブラッドポイズンは止められない。
もうじきこいつを……!
その時、クラーケンの触手が俺に噛みついてきた。
ゼロ距離からの水による攻撃か……という予想は外れた。
奴が口から出してきたのは……毒だ。
それも俺が今クラーケンに流し込んでいる毒そのものだ。
「……こ、こいつ」
口から声が漏れる。
体内に取り入れた毒を触手から体外に出し、延命しているんだ!
まったく無効化されているわけではない。
その証拠にこいつの皮膚は変色している。
ただ、殺しきるまでの時間はさらにかかる……!
スキュラクラーケンはそのうち倒せる。
しかし、町が……ササラナが……。
血が凍る……あの取り返しがつかないような間違いに気付いたときの感覚……。
寒い……寒い……。吐く息も白く染まる……。
「え……?」
本当に寒い。
冷たい風が頬をなでる。
「エンデさん、攻撃を止めてはいけませんよ!」
声の方を向く。
そこには凍りついた海、津波もその高さを保ったまま動きを止めている。
こんなことが出来るのは一人しかいない!
「ヒムロさん……! 記憶が!」
「ええ、完全に」
俺が前にあげた茶色い短パンはそのままだが、裸の上半身には白衣をまとっている。
その姿は紛れもなくヒムロ・マキナエルだった。
「よくこの怪物相手にここまで犠牲者なしで戦いましたね。そして、すでに追い詰めてもいる。素晴らしいです。微力ながらここからは私も共に戦いましょう」
ヒムロはササラナを拘束している触手を凍らせると、その根元を蹴り砕いた。
解放されたササラナが凍った海に落ちる前にヒムロが受け止める。
「あぁ……さっきまでの弱い私は忘れてね……。演技だから……。まだ戦える……」
抱えられたササラナの四肢はだらんと力なく垂れ、とても戦えるとは思えない。
ただ、消えてしまわなくて本当に良かった。
もう心配することはない。目の前の敵を倒せば!
「終わりだ!」
毒を流し込み続ける。
スキュラクラーケンは触手をジタバタさせて暴れ出した。
しかし、俺はその程度では振り払えない。
だが、古代の魔獣は最後の最後まで抵抗を続ける。
触手の口から吐き出す毒を俺ではなく海の方へばら撒き始めた。
このままでは毒で海が死ぬ!
「ヒムロさん!」
俺の呼びかけでヒムロが周囲の海を凍らせる。
氷の上に毒が落ちれば後から簡単に処理できる。
が、暴れる触手に氷は簡単に砕かれてしまった。
「くっ、津波を止めるのに魔力を使いすぎてしまいました……! ここから長く氷を維持するのは……」
どうすれば海も守れる……。
触手はもはや制御がきかないようで、すべて海上に突き出ている。
それだけが救いだ。海の中で毒を撒かれたらもはや対処不能。
いや、今だって対処が……。
「うらぁ!!」
ササラナが再び深海の心錨を展開。
すべての触手とともにスキュラクラーケンをぐるぐる巻きにしようとする。
「ダメだぁ! 締め上げる力が入んない! だから……あんたらもやりなさいよ!」
無数の錨を海岸へ向けて射出。
そこには港までたどり着き漁船から降りていた漁師たちがいた。
そんな危険なところに……いや、もう雨は止み黒い雲は千切れて太陽の光が射し込んでいる。
波も少々高い程度、潮風も大人しいものだ。
スキュラクラーケンを追い詰めていた俺自身がこいつの弱体化に鈍感だった。
漁師たちは意図を理解したのか鎖を掴みひっぱる。
その中にはカイリ、ナギサ夫婦の姿もあった。
鎖は締まり、クラーケンは完全に動けなくなる。
「ヒムロ! 気合いでこいつの全身を凍らせちゃいなさい!」
「あなたにそう言われたら、やらないわけにはいきませんね!」
ヒムロは凍った海面に手をつき、その氷の範囲をクラーケン本体にまで広げていく。
それと同時に俺をブラッドポイズンを完遂した。
スキュラクラーケンの死体は凍りついたことにより体内にある毒をばら撒かずに陸まで運ぶことができる。
多少の毒は海に溶け込んでしまったが、おそらく魚が全滅することはないだろう。
「なんとかなった……か」
完全に凍りついた古代魔獣から剣を引き抜く。
ギリギリの勝利だ。




