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不飛梅

作者: 桐谷 小秋

プロットのない行き当たりばったりな習作ではありますが、読んで何かを感じていただければ幸いです。

「死んじゃったのよ」


 母は何でもないことかのように、けれど少しだけ淋しそうな顔でそう言った。

 視線の先には砂利を敷き詰めた庭の中央、くゆりとその身を拗らせた梅の木がまるでしどけなく転寝(うたたね)する天女のように植わっている。

 僕の家はこの辺りではそこそこ古い歴史を持っているそうで、たっぷりとした庭に百年単位の樹齢を持つ木々がたくさん植えられている。件の梅はその中でも特に古い一本で、亡くなった祖父にはうちの守り神のように扱われていた。

 実際に守り神だったのかもしれない。

 村を取り囲むようにそびえる山々で山火事があった時、僕の家のすぐ後ろの山でも火の手が上がったのだけれど、火の粉一つ降ってこなかった。何十年に一回と言われた台風がきた時は村のあちこちで川が氾濫したのに、僕の家の隣の川は至極おとなしかった。雷の時も、大雪の時も、不思議と僕の家だけは被害がほとんどなかった。何かに守られていると思うのはおかしいことじゃない。


「死んじゃったって、どうしてさ?」


 そんな木が、学校の春休みに帰省してみると枯れていたのだ。僕の動揺は大きかった。


「年もあったんだろうけど、一番の原因は虫だねぇ。去年葉っぱをかなり食われちゃって。虫だけなら大丈夫だったかもしれないけど、食べられたところから病気が入り込んだんだよ」

「そんな……」


 他の木は全く被害がなかったようで、梅と同じくらい長生きの杉や銀杏、少し若い白樺や椿、七竈(ななかまど)(かえで)胡桃(くるみ)、新入りとも言える桜桃(さくらんぼ)(さわら)……皆その枝を力強く広げて陽の光を浴びている。ただ梅の木だけが、全く葉の付いていない節榑立った枝を空に縋るように伸ばしている。それが僕には助けを求めているように見えた。


「なんとかならないの?」


 なんで全寮制の学校なんて選んでしまったのだろう。僕の心には後悔という澱がどんどん溜まっていく。ちょっと勉強ができるからと有頂天になっていたのか。県内で最も優秀な学校から声が掛かって、それが嬉しくて、ただ行ってしまった。去年は何事もなかったからと安心しきっていた。

 僕にとって大切なものとの別れに立ち会えなかったなんて!


「庭師さんの伝手で樹木医さんに見てもらったんだけどね、この木はもう手遅れだって言われちゃったのよ」


 無力感に黙るしかなかった。

 まだ中学生の僕に、専門家が匙を投げた問題を解決する力なんてあるはずもない。

 ひどく項垂れた様子の僕に母は何か言いたげな視線を投げかけていたが、ついに口を開くことはなかった。




 ***




 春の夜は寒い。太陽は夏を目指して動き始めたのに、月はまだ冬を引きずっている。時折吹く風は冷たく、春にしては厚着をした僕の体温を奪っていく。

 首巻きに半ば顔を埋めて、僕は梅の木の前に立った。

 庭の石灯籠には火が入れられておらず、梅は月光と障子越しに届く家の明かりの中に浮かんでいた。かつて見せてくれた艶々と輝く反った葉も、数こそ少ないながらふっくらと膨らませていた果実もそこにはない。ただただ寒々しく(ひび)割れた樹皮が濃い陰影を作っている。


「本当に、死んで……?」


 認めるしかないという諦め五割、信じたくない気持ち五割。風に攫われてしまうくらい微かな呟きは二つの思いに等分されていた。

 僕が生まれる前からずっとうちを見守ってくれていた。父が亡くなった時も、祖父が亡くなった時も、いつもいつも気に掛けてくれていた。


「本当に……」

「死んでしまう」


 詰まった言葉に放られた答えは簡潔で、それゆえに僕の胸を刺し貫いた。異論はもちろん、疑問を挟む余地もない。


「そも、最早寿命なのだ」


 苦笑する女性の声。少し掠れた、けれど聞き間違えようのない声。僕は地面に落としていた視線を声の主に向けた。

 臥竜梅(がりょうばい)の大きく横に伸びた枝の傍に声の女性は立っていた。きつく結い上げられた闇色の髪は月光を浴びても艶なく夜に沈んでいる。そこから垂れた一房がくすんだ象牙色の首に纏わり付いていた。かつて見た時は紅を基調とした鮮やかな化粧をしてその綺麗な目鼻立ちを際立たせていたのに、闇夜のせいか精彩を欠く容貌。鮮やかだった紅梅色の着物も色褪せて見える。

 それでも、僕はこの方をこの世で一番美しいと思っている。


「のうめ、さま……」


 僕の声は囁きとも言えないほど小さなものだった。それでものうめ様にはしっかりと聞こえていたようで、儚げな顔を崩して笑いかけてくれた。

 その笑顔が僕の心を抉る。


「よう帰ってきたな」


 優しい声音には幼子を見守るような色が混ざっている。僕のことを生まれた時から知っている方だから仕方ないのだけれど、それが悔しい。


陽真(はるま)殿が亡くなった時にはわんわんと泣いておった子が、もうここまで大きくなっていたか」

「もう十年は昔のことですから」


 陽真とは僕が三つの時に亡くなった父のことだ。役所の仕事で遠出して、出張先で事故に遭っていなくなってしまった。僕は三つだったから『死』というものがどういうものかまではわからなかった。わからなかったけれど、もう父に会えないのだと言われて泣いてしまったのだ。記憶の中の父は静かな人で、正直なところ、遊んでもらった覚えなんてほとんどない。それでも僕は新聞を読む父の膝の上に乗るのが好きで、その時間がもうこないことが淋しかった。

 そんな父の葬式の日、のうめ様はただ座って、縋り泣く僕の背中を撫でてくれた。今だからわかる。忙しく動き回る家人の邪魔にならぬよう、のうめ様は僕の世話をするためにわざわざ出てきてくださっていたのだ。そうでなくば祖父母も母も、たった三つの子供を一人だけで部屋に置くなどしなかっただろう。通夜や初七日にものうめ様はきてくれた。

 ざりざりと砂利を踏み締める音。過去に心を飛ばしていた僕の隣にのうめ様が立った。

 それだけで僕の頬は熱くなる。

 顔を合わせる機会は決して多くはなかった。

 のうめ様は家人の前でしかその顔を見せなかったし、それでなくとも長い時間を一緒に過ごせた日は極々少ない。大抵は言葉を交わすと直ぐに戻ってしまうから。


「あれから十年か。陽臣(はるおみ)殿が亡くなってからは……」

「三年です」

「そうか」


 祖父の名前を出した時、のうめ様の目は遠いどこかを見ていた。

 僕が知る限り、今うちにいる人でのうめ様と一番長い付き合いがあるのは祖母だ。その祖母よりも長い間、祖父とのうめ様は親好があった。


「長かったようにも思えるが、過ぎてしまえば皆一瞬の出来事のように思われる。全く、時間とは不可思議なものよの」


 袖を口許にやってころころと笑う。虫のざわめきすらない庭に染み入るその声が僕の涙を誘った。


「いずれお前は、私のことを記憶の一片にしてしまうのだろうな」

「僕は……」


 紅梅の袖から、それまで隠されていたのうめ様の手がしゅるりと現れた。

 月白(げっぱく)、という色がある。冷え冷えとした月光を集めて絵の具にしてしまったような、蒼みがかった白だ。のうめ様の肌は月白だった。生命の息吹を感じさせない、冬の色。

 その手でのうめ様は僕の頭を撫でた。張りのない指で細く少し長めの髪を弄うように梳いて、梳いて、梳いて。赤子をあやすように。

 事実、僕などのうめ様にとっては赤子とさして変わらないのだろう。永いのうめ様の時間の中で、僕が生まれてからの十余年など、赤子が赤子のままでいる時間と大差ない。それが過ぎ去ってしまったものなら尚更だ。

 だが同じ『過ぎた時間』だとしても、僕にとっては長い時間だった。今までの人生全てなのだから。

 これを単なる一片にできるとは思えなかった。

 意地で涙を引っ込める。


「僕は……ずっと、のうめ様のことを忘れません。一片になんてしません。そんなこと……できません!」


 声は抑えたつもりだったけれど、叫びたい思いを止めることはできなかった。頭一つは上にあるのうめ様の顔を見上げる僕は駄々をこねる童でしかない。それでも童は童なりに譲りたくないものをもっている。


「僕はあなたが……!」


 そっと、冷たいものが僕の口を塞ぐ。

 のうめ様の手だった。

 かさかさに乾いた手が当てられ、僕の言葉を砕いてしまった。言ってはいけないというのだろう。僕の意思は関係ない。


「私はもうすぐ(うつろ)になる。命にとって過ぎたものを忘れるのは悪いことではない。進むために必要なことだと、聡いお前はわかっているだろう?」


 だから忘れなさい、思い出の一つとして胸の奥底にしまっておきなさい。それがのうめ様の理屈だ。

 けれどそれはのうめ様の身勝手だ。自分の心は押し付けるくせに、僕の心を明かすことさえ許してくれない。

 憮然として口を引き結んだ僕に対し、流石にそれ以上理屈を重ねる気にならなかったらしい。のうめ様はゆったりと歩き出し、初めに立っていた梅の枝近くに立った。大きく裂けた幹はうねり、撓んで地面すれすれを這うように伸びている。

 突然、のうめ様はその中でも特に地面に近い所に腰を掛けた。重みで木全体が撓み、幹は完全に地面と触れた。


「なっ!? 何をしているんですか!!」


 気付くと僕はのうめ様の手を取って引っ張っていた。驚くほど軽いのうめ様は引き寄せられて僕の眼前に立った。


「この梅の木は……あなたじゃないですか! なんで傷付けるようなことを」

「私の骸だからだ。最早この木に生きる力がないことは、誰よりも私が知っている。お前の家にある椅子と何ら変わりないぞ」

「でも……」

「気になる、か。人間なのだな、お前は」


 力の抜けた僕の手を引き剥がしてのうめ様は再度、幹に腰掛けた。


「少し、昔話をしよう」


 そう言って自分が座っている所よりも根っこ側を軽く叩く。座れと促しているのだろうけれど、僕は首を振った。そんな悍ましいこと、できるはずもない。いくら梅の木の精に勧められたからといって弱り切った躯を椅子代わりにするなんて!

 頑なな僕に「そうか」と苦笑してのうめ様は口を開いた。


「私が大地に根を張ってから大体四百年(しひゃくねん)の時が経った。その大半はここで過ごしたが、実は芽生えは違う土地でな。親が霊木とされていた木だったからだろうか、若木の頃から私はこのように変化ができたのだ。それで、お前の家の始祖に当たる方に可愛がられていた」


 後ろで組んだ手に醜く力が入る。何を考えてのうめ様はこんなことを僕に言っているんだろう。


「ある時、その方がお上の命令でこの地に封じられることとなった。有り体に言えば流されたのだが、主は恨み言一つ言わず命に従った。私や屋敷の者をそのままに、行ってしまった。

 初めは恨んだ。下人たちも付いて行きたかったと口々に行った。それだけ、誰からも好かれる方であったのよ」


 遠い瞳は僕が存在すらしていなかった昔を見ているのだろう。焦点は星空の先、虚空に合わせられ、話を聞かせているはずの僕はいないも同然だった。


「人とこうして話しながら育った所為だろうか、私は木にしては情が強く育ってしまってな。下人たちが新しい主人に慣れ始めても、主を忘れることができなかった。その頃は若く力もあったゆえ、ならば主を追い掛けてしまおうと思ったのだ。飛梅伝説という前例もあって、できぬとは思わなんだ」


 他の庭木の制止を振り切り、飛び出したのだという。大宰府まで飛んだ飛梅より控え目であろう? と冗談めかして笑った声には少しの自嘲と、温かな記憶を見る郷愁が(ちりば)められていた。望みも勝ち目もないのだと言外に語っている。


「私は情も存在も普通ではないのだ。四百年の想いを引き摺って生き、ようやく終わりを迎える。お前は私の異常さに当てられただけだ。……主も、人と結ばれたしの」


 のうめ様は漸くその視線を僕に向けた。やたら慈愛だけが振りまかれた眼差し。僕は一人っ子だから正確なところはわからないけれど、恐らく兄や姉が弟妹を見る時、こんな風になるのだと思う。

 のうめ様は残酷だ。慕う主を見ているだけ、追い掛けるだけで満足させていた自分の苦悩を僕にも押し付け、しかもこんなに早く、いなくなってしまうと言う。


「ち、ちが……」


 違います、と叫ぼうとした時、一陣の風が吹いた。強く髪を巻き上げる風に僕は首を竦め、首巻きに顔を埋めた。冷えてしまった指先を温めるため拳を握り込む。どれだけ言い募っても躱されるなら、言葉を吐くのもつらい。

 伝わらない言葉ほど自分を苦しめるんだ。


「話せてよかった」


 ただ無力に唇を噛み締める僕にのうめ様の声が降り注ぐ。見ると、月明かりに照らされたのうめ様の姿が細かい砂のように足下から崩れ、融けるように消え始めていた。唖然とする僕の背後にのうめ様は笑いかける。


「もうお別れだ。和江(かずえ)殿、依子(よりこ)殿……達者でな」

「長い間、お疲れ様でした。ごゆっくりとお休みください」

「淋しくなりますけど、仕方ありませんものね。のうめ様、今までありがとうございました」


 いつの間に庭に降りてきていたのだろう。祖母と母が家の灯りを背に佇んでいた。二人がいることでさらに言葉を失った僕は、消えゆくのうめ様に贈る言葉を持っていない。ただ、理不尽な恨み言を言わないように言葉を抑えるしかなかった。

 言葉にして伝えることは叶わなかったけど、のうめ様は僕の想いを知ってくれた。それだけでいいじゃないかと納得させる。


陽斗(はると)殿も、健やかに生きてくれ」


 けれど、最後に名前を呼ばれて僕は号泣した。

 のうめ様が完全に消えるところは涙で見えなかった。




 ***




いにしへの ひとおふうめの うつせみよ

すぎぬものとて こひやわすらるる



「先生、いかがなさいましたか?」

「いえ……あまりに立派な梅の木でしたので、つい昔の知り合いを思い出していたんです」


 往診に訪れた家の庭で大きな梅の木を見掛け、僕は思わず立ち止まってしまった。耳には懐かしい声が蘇る。

 いなくなってしまった誰かを思う時、人はその声を最も思い出せないのだという。姿形や心よりも、声を先に忘れてしまうためだと聞いた。

 しかし僕はのうめ様の声を覚えている。それはのうめ様が人ではなかったからなのか、単に僕が強情だったからか。


「その梅なんですよ、先生に診ていただきたいのは。うちのシンボルツリーなんですけどね、去年に比べて花が少ないんですよ。年々減ってはきてたんですけど……」

「わかりました。早速診てみますね」


 心配そうに眉根を寄せる依頼人に笑いかけ、仕事道具の入った鞄を抱え直した。ゆったりとした足取りで梅の木に近付き、その存在を確かめるように幹に触れる。鞄から取り出した聴診器を当てると水を吸い上げる音が聞こえた。ごつごつとした木肌は無機物にも見えるが、しっかりとその奥に命を内包している。

 もし僕が強情だというなら少しは救われる。伝えられはしなかったけれど、あの想いは確かに僕の胸にあったのだと信じられるから。

 今、僕はあの時の無力感を拭うために働いている。記憶でかつての想いを確かめ、前を見つつも思い出を引き摺って。


「のうめ様。忘れなくても、人は前に進めます」


 笑い声が無性に聞きたくなった。






——————————


いにしへ()ひと()おふ(追う)うめ()うつせみ(空蝉)

()ぎぬものとて こひ()わす()らるる


遠い昔、想い人を追って飛んだ飛梅よ。

あなたはとうに過ぎ去ってしまったものだからと、在りし日の恋を忘れることができましたか。

あなたに似ているわたしは、終ぞ忘れられませんでした。



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