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Stare  作者: 彼方
3/3

~Stare~

 自宅のマンションへと帰ってきて、傘立てに林野さんから借りた傘を置くと私はすぐに服を脱いでそれを乾かした。普段着に着替えて、ようやく一心地つく。

 私はいつもの習慣でロイヤルミルクティーを作ることにした。紅茶をボウルに入れて熱湯に浸しておいた後、手鍋に入ったミルクと水を火にかけた。

 沸騰する前に紅茶を入れて火を止め、掻き混ぜる。数分蒸らしてから茶こしを使ってカップに入れ、ようやく完成した。

 私はその作業を終える頃には、大雨でバタバタして落ち着かなかった気持ちが少しずつ元のように穏やかなものへと変わっていくのを感じた。

 この作業をしないと、いつもの自分には戻れないような気がしたからだ。私はテーブルについてメイプルシロップを入れながら、ミルクティーを少しずつ飲んだ。

 そこでようやく、心の中に一つのテーマが形となって浮かび上がってくるのを感じた。大切な人が今もどこかで見守っていてくれているということ、それを常に感じて生きていくことの大切さ。

 そうしたものを作品に篭めていきたいと思った。そんな中、喫茶店のオーナーのことを思い出して、私は微笑んでしまう。私と彼はすごく歳が離れているし、こんな風に思ってしまうのはとても場違いな気がした。

 そこでふと、ドアがコンコンと軽くノックされたのがわかった。私は少し体を震わせて振り向き、何だろう、とドアを見つめた。

 すると、再び小さなノックが聞こえてきた。私は誰だろうと思って椅子から立ち上がり、ドアへと近づいて迷ったけれど、チェーンをかけて出ることにした。

 ドアをそっと開くと、そこには少し前に見たその優しげな顔があった。

 図書館で出会った女性だと気付いた時には、彼女は身を乗り出して懇願するような声で語り始めていた。

「あなたにお願いがあるのよ。林野の側にずっといてあげてくれない? もう私は――」

 私が瞬きをした時には、そこに立っていた女性の姿は、セーラー服を着た美しい少女の姿へと変わっていた。

「私は彼と一緒にいることはできないから。だから、あなたが彼の想いを受け止めてあげて」

 少女は私の手首を握って、涙を浮かべてそう訴えかけてくる。

「あなただって、彼のこと悪く思ってないでしょう? だから、お願い――」

 私はようやくそこに立っている女性が誰なのかを悟った。そういうことだったのか、と私は傘立てに置いてある一本の傘を見遣り、肩の力が抜けるのがわかった。

 私は小さく息を吸い、薄く微笑んだ後、わかりました、とつぶやいた。

「彼の側に出来る限り一緒にいてあげようと思います。どこまでできるかわからないけれど、この想いがある限り、ずっと一緒にいます」

 私がそう言って彼女の手を離すと、少女が涙を浮かべたまま、花びらが一斉に吹き乱れるような笑顔を見せてうなずいた。

 ありがとう、とつぶやく。

「本当に、感謝するわ。それが聞けて、私も安心した」

 私が彼女に言葉を投げかけようとした時には、もう少女の姿はなかった。私はチェーンを外し、ドアを大きく開いて外の玄関を見つめたけれど、小さな雨音がしとしとと廊下に響いているだけだった。

 私はドアを開いたままふっと笑い、その想いが確かに心の中に刻みつけられたのがわかった。

 いつまで些細なことを気にしているの、私は。小さなことなんてどうでもいいじゃない。ただ、自分に素直に、自分の道を歩んでいけばいいのよ。

 私はそう自分に語りかけ、その傘をぎゅっと握った。涙が少しだけ頬を伝って、その傘に落ち、花びらに弾けて舞った。


 *


 私はその日、確かな鼓動の高鳴りを感じながら、その傘を手にして図書館の側の道を歩いていた。春の暖かな風が時折私の髪を浮き上がらせ、新緑の鮮やかな色彩を流動させていた。

 私はそんな穏やかな散歩道をゆっくりと歩きながら、もう迷いなくその店に向かって歩いていた。

 小鳥がさえずる声があちこちで飛び交って、あの時の雨に濡れた冷たい空気は、浮き立つような感情を抱かせる心地良い陽気へと変わっていた。

 私はどこまでもこの散歩道を歩いて爽快感を抱きながら、街々の風景を見たいと思ったけれど、今はただ一つの想いが私の心を包み込んでいた。

 そう、私にはやらなければならないことがあったのだ。

 私はそのこじんまりとした喫茶店へと近づいてきて、ドアを開いた。その瞬間、ベルが鳴って、林野さんがカウンターの奥で「いらっしゃいませ!」と大きな声を上げた。

 そして、私の顔を認めた途端に慌てだし、柱に足をぶつけながら走り寄ってきた。私の間近に立つと、照れ臭そうな笑みを浮かべて、もう一度いらっしゃいませ、とつぶやいた。

「林野さん。この傘、ありがとうございました」

 私が小さく声を上げて、その花柄の傘を差し出すと、林野さんはどこか苦々しげに笑って、申し訳なさそうに言った。

「あの、この傘を使って、何かおかしいことなかった?」

 彼がそう言った瞬間、私は昨晩の出来事を思い出し、喉を震わせかけたけれど、すぐに首を振って言った。

「いいえ。特に何も」

 私がそう返すと、林野さんはほっとした顔をして、その傘を握りながらどこか寂しげな眼差しで言った。

「この傘、実は私の妻が使っていた傘なんだ。渡す時、一瞬迷ったんだが、君にならあいつも許してくれると思って。でも、渡してから、君に嫌な想いをさせるかもしれないと気付いて……本当にごめん」

 林野さんがそっと頭を下げようとしたので、私はその肩をつかんで、「そんなことありません」と強く言った。林野さんがはっとした顔で見つめてくる。

「あの、私は……」

 そこで私の心に再び迷いが訪れた。私は本当に彼にこの想いを伝えていいのだろうか。やっぱり自分には自分に合った道があるのではないか。

 そう思ったけれど、そこで――。

 ふと、カウンターの奥の棚に置かれた一つの写真立てが目に入った。

 そこに私の探していたものがあった。

「あの写真立て……」

 私がふとそれに視線を向けてつぶやくと、林野さんがああ、と微笑み、うなずいてみせた。

「私の妻だよ」

 そこにはこの喫茶店を背景にして二人の男女が写っていた。片側に立っているのは林野さんで、彼はまだ若く、髪にも白いものは一つも混じっていなかった。

 そして、隣に立っている彼の奥さんは、あの図書館で会った女性だった。彼よりさらに若く、まだ二十代になったばかりといったような、きらきらしたとても綺麗な瞳をしていた。

 彼はそれをじっと見つめて、何か記憶を辿っているような、懐かしそうな顔をした。そして、私へと視線を向けると、実は、と言った。

「君と小夜子はとても似ていて、初めて会った時から本当に妻を見ているような気持ちになったんだ。こんなことを言うのも気味が悪くなってしまうかもしれないが、どうしても私は君を見る度、気になってしまって」

 林野さんはそう言って私へと体を向け、ぐっと拳を握った。その頬が紅潮して喉が震えているのを見て、私は心の中で散らばっていたピースが集まり、一つの想いを形作るのがわかった。

 私は目を閉じ、息を吸って、そしてつぶやいた。

「私、奥さんのこと、もっと聞きたいんです。彼女のこと、物語にしてみたいとそう思えたんです」

 私がそう言うと、林野さんは目を見開き、薄らと涙を浮かべながら唇を引き結んだ。そして、俯いた後に震えていたけれど、やがて雲が一気に晴れたような笑みで言った。

「ありがとう。妻も今頃微笑んで見守ってくれていると思うよ」

 林野さんはぐっと身を乗り出して、何かを言おうとしたけれど、私も同じように口を開きかけ、あの、と二人の言葉が重なった。

 私達はくすりと笑い合い、その後で私はつぶやいた。

「今日、仕事が終わった後、一緒に食事に行きませんか? もっと林野さんと話がしてみたくて」

 私がその赤く色づいた花びらを彼の心へと舞わせると、彼はその想いを受け取って、真っ赤に顔を色づかせた。彼の体は小刻みに震え始め、やがて彼はガッツポーズをして、「いやっほう!」と飛び跳ねた。

「わかった、絶対に行くよ! よし! 私にもようやく運が巡ってきたぞ!」

 彼はそう言いながら、私を席へと案内し始めた。私は歩き出しながらもう一度棚の上の写真立てへと視線を向け、小さくうなずいてみせた。

 その写真の中の彼女が、微笑んだ気がしたからだ。

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