フラワー・クロック
それから私は三時間ばかりずっと小説の構想を練り続けていたけれど、ふと気付いた時には店内には客の姿がわずかしか残っていなかった。テラスの先で、大降りの雨が降り注いでいるのが見えた。
私はすぐにペンケースとルーズリーフを鞄に仕舞い、立ち上がった。傘を取ろうとしたけれど、そこで今日はそれを持ってくるのを忘れてしまったことを思い出した。
どうしよう。このままだと濡れて帰るしかないかもしれない。
確か夜になるとさらに大雨になるということだったので、今のうちに走って駅まで行った方がいいだろう。
私は自分の迂闊さを嘆きながら、カウンターへと向かった。急いで支払いを済ませようと林野さんを呼ぼうとしたけれど、既に彼はそこで佇み、私が来るのを待っていた。
「小説の構想、まとまりましたか?」
林野さんがとても穏やかな笑みを浮かべて、言った。私は小さくうなずき、少しだけですが、とつぶやいた。
「雨が降ってきてしまいましたが、大丈夫ですか?」
彼は私の手元を見て、傘がないことを案じているらしかった。私は苦笑して、小さく首を振った。
「今日に限って持ってくるの、忘れてしまったんです。私はいつも肝心なことを忘れてしまうんです」
そう言ってお札を払って勘定を済ませると、林野さんは何か思い至ったように「あ」と声を上げ、背後へと振り返った。少々お待ち下さい、と言って、カウンターの奥の棚に駆け寄り、何かを取り出した。
「これ、もしよかったら使ってください」
林野さんが差しだしてきたのは、まだ新しくて可愛らしい一本の傘だった。私は思わずその傘とオーナーの顔を見比べて、あの、とつぶやいた。
「本当に、いいんですか? こんな新しい傘を使ってしまって」
すると、林野さんは少しだけ口を閉じて、何かを考えているようだったけれど、もう一度その傘を私に差し出してきた。
「いえ、使って下さい。万一壊れたとしても、別にいいんです。あなたに使ってもらえるのなら」
私はその言葉に胸が大きく高鳴るのがわかったけれど、すぐに受け取って、「すみません」と零した。
「さらに雨が強くなると大変なので、急いだ方がいいですよ」
林野さんの言葉に、私は小さくお礼の言葉を言って、入り口へと向かった。ドアを開こうとして、もう一度林野さんへと振り返った。
「あの、林野さん……」
私が掻き消えそうな声でそうつぶやくと、林野さんは先程と全く変わらない笑みを浮かべたまま、ただ「何でしょうか?」と聞いてきた。
言うなら、今だ。早く本当の気持ちを伝えるのよ。
そう心の中で声が囁いたけれど、私は小さく首を振って、溢れてきたその想いを無理矢理押し留めた。
そして、別の言葉をつぶやく。
「この傘、本当にありがとうございます」
私がそう言ってドアを開くと、最後に林野さんのどこか影の差したような笑顔が見えた。けれど、私は何も言うことなく、そのまま外へと出てドアを閉じた。
息を吐き出して、目を閉じる。大丈夫、いつもの私だ。私なんて彼とは釣り合わないのだから。
次に目を開いた時には、私の鼓動の高鳴りは収まっていた。激しい雨が降りつける繁華街を私はその傘を差して歩いた。
林野さんが最後に見せた曇りのある笑顔が何度も脳裏に過ったけれど、私は考えないようにした。一年前からあの喫茶店に通い出して、林野さんと親しくなるにつれ、こうした葛藤は大きくなるばかりだった。
雨が降り注ぐ中を私は黄色の花柄の傘を差して歩いた。本当なら、こんな傘を持って歩けることに心が少し躍ることもあったのかもしれないけれど、そんな気には到底なれなかった。
遅い足取りで歩いていた所為か、さらに雨脚は強まったらしかった。私はそのあまりの勢いにどこか雨宿りできる場所がないかと探したけれど、すぐにその場所が目に入った。
それは市立図書館だった。まだ仕舞ってはおらず、入り口で数人が雨宿りしているのが見えた。私は急いでその場所へと駆け寄り、小さな屋根の下で傘を折り畳み、一つ息を吐いた。
もう既に袖口がぐっしょりと濡れて、肌が少しひんやりとしていた。私は袖を絞って水を落としながら、ふと傍らに立った三十代半ばほどに見える一人の女性に視線を向けた。
彼女も雨宿りをしているのか、そこに何もせずに佇み、じっと前を見つめていた。その服は全く濡れておらず、彼女は傘を持っていないようだった。
私が傘を小さくまとめようとしていると、そこでその女性がこちらへと振り向き、可愛らしい傘ね、と言った。
「とてもお洒落で、素敵だわ」
彼女はにっこりと微笑み、私が握っているその傘をじっと見つめた。私はその傘を彼女の前へと掲げながら、「借り物なんです」と言った。
「そうなの。あなた、さっき『レイニー』にいたでしょう?」
女性が突然言ったその言葉に、私は鼓動が跳ね上がるのを感じた。もしかして、先程のあのやり取りを見られていたのかなと頬が熱くなるのを感じたけれど、彼女はそれ以上何かを追及することはなかった。
「あのオーナー、最近元気がなかったんだけど、あなたと話している時に元気が出たみたいだったから良かったわ。彼、ずっと悩んでいたみたいなのよ。あなたのおかげで吹っ切れたみたいね」
彼女がオーナーのことを話しだしたのを見て、私は視線を逸らして俯いた。この人、林野さんとどういう関係なの、と思ったけれど、彼女に問いただすことは臆病な私にはできなかった。
「私とあなた、どこか雰囲気が似ているような気がするわ。だから、声をかけたの」
その柔らかな声音に、私はそっと顔を上げて彼女の穏やかな顔をじっと見つめた。その人は本当に優しげな眼差しで私をじっと見つめていた。
何故だろう、彼女を見つめていると、ついさっきどこかで会ったような気がしてしまう。
「なんだかわかったような気がするわ。彼があなたをどうして選んだのかを」
そう言って、その女性は「突然話しかけてごめんね。じゃあ」と小さく会釈して、私から離れて行った。私はその背中が入り口の中へと吸い込まれるのを見届けると、俯き、唇を噛み締めた。
彼女と林野さんの関係を訝る自分の心を抑えて、私は溢れ出しそうなその想いを飲み干した。私には林野さんを想うことなんて許されていないのだ。
私はそっとその傘をじっと見つめた。色取り取りの綺麗な花々の刺繍が可愛らしく、これを持っているだけで気持ちが浮かれてくるような気がしたけれど、その嬉しさが一層私の心を締め付けてくるようだった。
私は傘を回してその模様をじっと見つめていたけれど、そこでふと傘に英語で刺繍がされていることに気付いた。そこには確かに、「Flower Clock」という文字があった。
私はそれを見つけた瞬間、ある懐かしい思い出がふわりと私の目の前を通り過ぎていくのがわかった。この傘、あの雑貨屋で売られていたものだ。
その偶然に、私はこの傘が何か運命として私の元へとやって来たような、そんな気がした。私は少しだけ気分が落ち着くのがわかり、雨も少し収まったようだったので、そっと屋根の下から出た。
小走りに駅へと向かいながら、先程の女性の言葉が心に染みついているような不思議な感覚が私に迫ってくるような気がした。
駅へと何とか辿り着き、私は濡れた服をコンビニで買ったタオルで拭きながら、ようやくホームへと辿り着いた。良かった、と私はほっと一息つき、エスカレーターの側の通路を歩きながら、ふと視線を横へと向けてしまう。
線路のさらに先、フェンスの向こうには裏通りがあって、そこに様々な珍しい店が並んでいた。私が高校時代、先輩と一緒に通った「フラワークロック」という雑貨屋もまだそこにあった。
私はその店をじっと見つめていると、掌の中にある傘の感触がとても優しいものに思えてきて、自然とぎゅっと握った。
この傘が売られているのが、あの雑貨屋なのだ。今は営業時間を過ぎているので仕舞っているけれど、昼間は様々な可愛らしい雑貨が店の前に並べられ、落ち着いたクラシックが流れている。
そして、その隣には、私があの『スペース・オディティ』のCDを買った老舗のCDショップがまだあった。
私はあの道を、先輩と一緒にずっと昔に歩いたことを思い出す。彼女と「フラワー・クロック」に入って雑貨を見て回った後、その隣のCDショップで先輩に『スペース・オディティ』を勧められて買ったのだ。
それで、私はあの曲にとても思い入れがあったのだ。CDを買った時、私は先輩とお互いの夢を語り合ったのだ。
私は小説家になることで、先輩は素敵な人と巡り合うこと。私達は幸せなことに、どちらも夢を叶えることができた。
私は線路の前でじっとその店を見つめながら、小説の構想が徐々に出来上がってくるのを感じた。先輩の言っていた『ずっと見守っている』というあの言葉は、私の心を確かに暖かな感情で包み込んでくれたのだ。
そこでふと、傍らに誰かが立つのがわかった。振り向くと、そこには一人の背の高い少女が私と同じように線路の向こうを見つめ、佇んでいた。
セーラー服を着て、どこか可愛らしい顔をして、その瞳は優しげで、私は以前どこかで彼女を見たような気がした。けれど、記憶を探っても、彼女のことを思い出すことはできなかった。
「あの。今、あなたもあの雑貨屋を見ていましたよね」
少女が黒いストレートの髪を揺らせて振り向き、私に穏やかな笑みを浮かべて言った。
「うん。そうだけど」
私が少し驚きながらそう返すと、少女は子供のように無邪気な表情を見せて、突然語り出した。
「私、彼と一緒にあの雑貨店に入って、初めてプレゼントしてもらったんです。それを今までずっと大切にしていたんです。でも……」
少女の眼差しが少しだけ寂しげなものに変わり、小さな掻き消えそうな声でつぶやいた。
「もう私、彼と会うことができなくなってしまって……それでも、ずっと彼のことを“見守って”いるんです」
彼女はそう言って唇を噛み締めて俯いてしまった。私は何故彼女が突然語り出したのかわからなかったけれど、それでも彼女の心を元気付けようと口を開いた。
「あなたもあの雑貨店に思い出があるのね。私も昔大切な人と一緒にあの店を見て回って、それで今の私があるの。不思議な巡り合わせね」
私がそう語ると、彼女はそっと小さく笑った。とても美しい笑顔だった。
私が彼女のことを聞こうと再び問いかけようとした時、ホームに電車が到着して、滑り込んできた。
私は乗車口の端へと体を寄せて、再び少女の方へと振り向いたけれど、そこには既にその姿はなかった。私ははっと左右へと視線を巡らせたけれど、それらしい影は見当たらなかった。
電車の中へと移動しながらも、ずっと彼女の背中を探したけれど、彼女はもうどこかへ行ってしまったらしかった。
吊り革につかまって電車に揺られながら、私はぼんやりと彼女のことを考えた。図書館の前で会った女性のこと、セーラー服を着た美しい少女の言葉を考えていると、掌の中の傘へと視線が向かってしまう。
その傘が、何か特別な想いによって私に言葉を掛けてくるような、そんな気さえした。私は首を振り、考えすぎね、と小さく笑った。




