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Stare  作者: 彼方
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今までも、これからも、ずっと

 私はその日もお気に入りの喫茶店、『レイニー』で小説の構想を練っていた。時折キリマンジャロを口に運んで飲んでいると、頭が冴えて何かアイデアが浮かんできそうだった。

 店内にはちょうどヴァン・ヘイレンの『エイント・トーキン・アバウト・ラブ』が流れていた。優しい感じの落ち着いた曲を流すことの多い喫茶店だけれど、たまにオーナーが遊び心でハード・ロックを流すことがあった。

 ギターの爽快なサウンドが私の耳から体を突き抜け、鳥肌を立ててくる。なかなか悪くないと思った。たまに肩を揺らせるようなアップテンポな曲が流れると、凝り固まっていた脳みそが溶けていき、柔軟な発想が浮かびそうだった。

 私は次回作は自分の身近なことに関わるテーマを選びたいと思っていた。できるなら、自分が生きていることについて、直接問いかけるような小説を。そう思うのだけれど、どうしてもアイデアが浮かんでこなかった。

 私は溜息を吐き、シャーペンをルーズリーフの上に置き、眉間を軽くマッサージした。普段ならこの店でゆっくりしていれば自然と構想が浮かんでくるのだけれど、今日は何故か気分が空想に乗ることがなかなかできなかった。

 そこでふとひっそりとした足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。振り向くと、オーナーの林野さんが片手にサンドイッチの皿を持って近づいてくるのが見えた。

 私は鼓動が高鳴るのを感じながら、笑顔を浮かべて彼が間近へと立つのを待った。

「これ、差し入れだから、食べてね」

 林野さんはどこか照れたように笑いながら声をひそめて言うと、私の手元に皿を置いた。それは野菜サンドとホイップクリームが入ったサンドイッチだった。

 私は「ありがとうございます」と何度も頭を下げたけれど、そこで林野さんが急に緊張した面持ちになり、みな、とつぶやいた。

「みな?」

「南ちゃんは僕にとって特別なお客様だから」

 彼はそう言って活火山のように顔を赤く染めると、それじゃあ、と回れ右をしてカウンターへと戻っていった。歩く際に右手と右足が同時に前に出ていて、他の客がくすくすと笑っていた。

 私は小さく微笑み、もう一度、「ありがとう」とつぶやいた。そして、そのサンドイッチを食べると、サクッと口の中でレタスが弾け、私は頬を綻ばせた。

 彼と一緒に話していると、心から笑うことができた。自分のそうした気持ちに気付いていたけれど、私は彼に対して一歩踏み出すような言葉を投げかけることはできなかった。その勇気がなかったのだ。

 サンドイッチをゆっくりと味わうようにして食べていると、ハードロックが終わり、次の曲へと移った。その瞬間、流れてきたその懐かしい曲に、私は思わず顔を上げて天井のスピーカーを見つめた。

 わずかでも聞いただけでわかる。それは、デヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』だった。ゆっくりとカウントダウンに移り、『リフト・オフ』という言葉が流れた途端、メロディが弾けた。

 私の心は大きく揺れて、思わず軽く歌詞を口ずさんでしまう。昔の思い出がふつふつと蘇ってきて、何もかも忘れて、浸ってしまった。目の前に宇宙の深遠な闇が広がり、星々の輝きが私の意識をどこまでも膨らませた。

 あの頃は本当に楽しかった、と思う。高校時代、初めて先輩に連れられて老舗のレコード屋でこのアルバムを買った時、早く聴きたくて電車の中で歌詞カードを食い入るようにして見つめ、家に帰って大音量でかけたものだ。

 私にとっては、この曲は本当に青春そのものだった。目を閉じて先輩のことを思い出そうとした時、そこで唐突に声が聞こえた。それは今まさに聞きたいと思った声そのもので、私の胸の内をすっぽりと包みこんでくるような柔らかなものだった。

 私ははっと目を開いてテーブルのすぐ側に立った一人の女性を見つめた。見間違いようもなかった。あの腰まであった長い黒髪は肩で切り揃えられ、今は薄い茶色に染められている。

 長身のすらりとした細い体にぴったりのスーツを着ていて、凛とした面持ちはあの頃のままだった。瞬きもせずじっとこちらを見つめて、微笑んでいる。

 私は先輩、と小さくつぶやいた。

「やっぱり南さんだったのね。本当に会えるなんて。ずっとずっとあなたの顔を見たいと思ってたの」

 先輩はそう言って鞄から一冊のハードカバーの本を取りだした。その表紙を見て、私は思わず声を上げそうになる。それは私が先日出した『形のない空気』という本だった。

 彼女は大切そうにそれを胸に抱き、花が一斉に咲き乱れるような笑顔を見せてくる。

「この本、読ませてもらったわ。とても文学的な作品で、素晴らしいと思うわ。特に佳代子の心が自分と重なるような気がして、何度も読み返して泣いてしまったのよ。一文一文が心に迫るような感じなの。これからも応援しているわ」

 先輩は本を差し出してきて、これにサインして欲しいの、と言った。

 私は震える指でペンを握り、ゆっくりと気持ちを込めてその本にサインをした。何か言葉を絞り出そうとしたけれど、あまりにも様々な想いが胸を過っていて、私は無言で彼女に本を渡した。

「ありがとう、大切にするわ。私、ずっと南さんが本を出す度に、見守ってきたのよ。これからもずっと南さんのこと、見てるから。だから、頑張って」

 先輩はゆっくりと近づいてきて、私と握手を交わした。間近で見る先輩の顔には何か強い意志が漂っているような、そんな表情が浮かんでいて、あの頃よりずっと綺麗に見えた。

 彼女はコーチのバッグへと本を仕舞って、昔やったようにぽんぽんと私の肩を叩いてきた。そこでふと、彼女の背後から男性が呼ぶ声がした。彼女の肩越しに、一人の端正な顔をした男性がこちらに近づいてくるのが見えた。

 先輩は名残惜しそうに私を見て、それじゃあ行くわね、と手を上げ、歩き去っていく。しかし、ふと足を止めると、もう一度こちらに振り返り、にっこりと笑って言った。

「南さん、夢が叶ってよかったわね。ずっとずっと夢に向かって努力してきたことがこうして叶って、本当に南さんはすごいと思ったわ。私も悔しい時があったら、必ず南さんの頑張りを思い出すよ」

 その言葉に、私は目にこみ上げてくるものを感じたけれど、ただ今は素直に先輩の心からの言葉を受け取って、微笑んでいたかった。私はうなずき、そして先輩の恋人を見つめながら、言った。

「でも、先輩だって夢が叶ったみたいじゃないですか」

 先輩はそっと恋人の男性を見遣り、薄ら頬を色づかせて「そうね」と小さな声を零した。そして、今度こそ振り返らずに男性と楽しげな声を交わしながら、店を出て行った。

 私は『スペース・オディティ』が店内から消えていくと、何か大きな閃きが自分の体に迫ってくるような気がした。それはいつも唐突に私の元へと訪れて、あっという間にすべてを形にしてしまう。

 私は今なら小説のアイデアが閃くかもしれないと、ルーズリーフに文字を闇雲に書き写していった。先輩が語ってくれた『ずっと見守っているわ』という言葉が、何故か胸に焼き付いて離れなかった。

 私はその糸を懸命に握って、自分の元へと手繰り寄せようとする。彼女の後押しがあって、私は小説を書き続けていくことができた。その喜びに、いつまでもいつまでも心を震わせていく。




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