番が見つかって成長し始めた竜人族の天才魔道具師、なぜか番本人の王弟殿下に「相手は誰だ」と毎月問い詰められています
研究室の柱には、細い刻み目が一本だけ残っている。
入省した日に、室長が「伸びたら教えろ」と面白半分に刻んだ線だ。それから一度も、その線より上に新しい傷が増えたことはなかった。
竜人族は、番が見つからないと10歳前後で成長が止まる。20歳の私は、ずっとこの線と同じ背丈のまま生きてきた。
────それが今朝、指二本分、はみ出していた。
「⋯⋯⋯⋯ふへっ」
変な声が漏れた。二本目の刻み目を入れようとした小刀が震えて、線がちょっと斜めになる。いいの。斜めでも。何年も待った二本目なんだから。
私の番は、見つかった。
隣国ラディオール。人間の国の王弟殿下、エイラルド・シュターゲン様。列国魔導技術発表会で私の搾乳機が牛ごと暴走して、周囲の研究者や貴族を巻き込んで頭から生乳を浴びた、その時に隣にいた、あの方だ。
生乳まみれで別れる間際、あの方は『今度は、俺が会いに行く』と言った。
子供の頃は、当たり前に思い描いていた。番に出会って、みんなと同じように大きくなって、番と一緒に笑って暮らす。竜人族なら誰だって手に入れる、当たり前に叶うはずの、ありふれた未来。
でも17歳を過ぎても、20歳を迎えても現れないもんだから、途中で待つのをやめた。待つのをやめて、研究に潜った。魔術式は、待っていても裏切らないから。
────その、とっくに畳んでしまったはずの未来が、柱の傷ひとつ分だけ、動き出している。
「おいミチェ、朝から柱に張り付いて何やってんだ」
「室長! 見てくださいこれ! 二本! 二本目ですよ!」
「知ってるよ。帰りの列車で9日間、毎朝お前の頭のてっぺんを測らされたからな」
室長は欠伸を噛み殺しながら、自分の机に鞄を放り投げた。そう、帰国の9日間で、私は室長に全部白状している。というか、根掘り葉掘り聞き出された。番の香りのこと。あの方が番だってこと。
「で、手紙は書いたのか」
「⋯⋯⋯⋯書いてません」
「番だって、言わねぇのか」
「言いません」
室長が、ものすごく面倒くさそうな顔をした。
「竜人族同士なら、会った瞬間に互いが分かる。俺がかみさんに会った時もそうだった。けど向こうは人間だろ。こっちが言わなきゃ一生分かんねぇぞ」
「分かってますよ、そんなこと」
分かっている。人間には、番の香りが分からない。あの方は、私が番だなんて、これっぽっちも知らない。
────でも。
あの日、あの方の周りには、着飾った令嬢たちが花みたいに群がっていた。如才なく相槌を打って、綺麗に微笑んで、なのに目の奥だけが、ガラス玉みたいに凪いでいた。
そこへ見ず知らずの竜人族が「あなたは私の運命の番です」なんて言い出したら、どうなるか。人間のあの方にしてみれば、何の根拠もない一方的な告白だ。王弟殿下の肩書きに群がる令嬢たちと、何が違うんだろう。
それに。
あの方は、私を子供としてでも、竜人族としてでもなく、技術者として見てくれた。「君は、正しい判断を取った」って。だったら私も、あの方に「番だから」なんて理由を背負わせたくない。番の香りなんて分からない人に、竜人族の本能を押し付けて、困らせたくない。
もし、選んでもらえる日が来るなら。
────ミチェ・フェルナシアンとして、選ばれたい。
「⋯⋯⋯⋯まぁ、そもそも選んでもらえる予定なんて、どこにもないんですけどね」
「朝から一人で落ち込むな、面倒くせぇ」
その時だった。研究室の扉が、ノックもなしに勢いよく開いた。
「室長ぉっ! た、大変です! ラディオール王立魔導工学院から、正式な書簡が!」
同僚が差し出した封書には、見覚えのある紋章。室長がひったくるように開封して、目を走らせて────固まった。
「⋯⋯⋯⋯共同研究の、申し入れだ」
「えっ」
「議題、『使用時発動型魔術式の基礎研究』。先方の代表者────エイラルド・シュターゲン」
研究室が、しんと静まり返った。
「⋯⋯⋯⋯予算が、出る」
室長の声が震えていた。
「向こう持ちで、予算が出るぞ⋯⋯⋯⋯! 民生魔道具開発室始まって以来の、外部予算だ⋯⋯⋯⋯!」
雄叫びを上げて同僚と抱き合う室長の横で、私は封書の最後の一行に釘付けになっていた。
『なお、初回の打ち合わせには、代表者本人が伺う』
────今度は、俺が会いに行く。
本当に、来るんだ。
✤✤✤✤
半月後。ナーリア国魔法省の、継ぎ足しだらけの廊下の突き当たり。予算も人員もカツカツな我が民生魔道具開発室に、隣国の王弟殿下が立っていた。
プラチナブロンドを緩く括った長身が、天井の低い部屋に明らかに収まっていない。梁に頭をぶつけないよう、ほんの少しだけ屈んでいるのが、妙に可笑しい。
「約束どおり、会いに来た」
「⋯⋯⋯⋯ン゛ンッ」
「────共同研究の、打ち合わせにだ」
────────ッぶなっ⋯⋯⋯⋯危なっ⋯⋯⋯⋯んっ!! 思わず、私に会いに来たのかとか、会いたくて来てくれたのかとか、なんの白昼夢だとかいよいよ幻聴まで聞こえ始めたとかヤバイヤバイ、一回落ち着こう、深呼吸っ⋯⋯⋯⋯すぅー⋯⋯⋯⋯っ⋯⋯⋯⋯ぁああああああああこの匂いだああああああ!!
くっ⋯⋯⋯⋯甘くて重い、喉の奥にまとわりつく、番と出会った時に知ったアンバーグリスの香り。呼吸なんてするんじゃなかった。このまま一生息をしない選択肢だってあったのに。後悔してももう遅い。部屋中がそれで満たされて、膝から力が抜けそうになるのを、机の角を掴んで耐える。
背後で同僚たちが、とうの昔に感じた現象に今更テンパってる私を見て、生暖かい目で見てくるのホントやめて。分かってる。初心な反応なんでしょ、でもこっちは20年間知らずにきた芳香に、立っているのがやっとなんだから!
帰国した日、僅かに伸びた背丈を見た同僚たちに「番が見つかったのか!?」と取り囲まれ、私が口を割るより先に、室長が祝い酒の樽を開けながら全部しゃべった。悪気がないのが一番たちが悪い。殿下の前で一言でも漏らしたら異空間鞄に詰める、と全員に口止めはしてある。
(大丈夫。今日は仕事の為に来てくれたんだ。仕事の話だけする。番のことは殿下には言わない。絶対に、言わない)
そうだ。 この方に、背負わせちゃいけないんだ。
だって、人間は⋯⋯⋯⋯番を感じられないんだから⋯⋯⋯⋯。
「えと、と、遠いところを、よよようこそお越しくださいました、で、殿下。っ早速ですが、こちらが使用時発動型の────」
「背が伸びたな」
資料を差し出した手が、宙で止まった。
琥珀色の瞳が、私の頭のてっぺんから爪先までを、測るように往復している。
「は、はい⋯⋯⋯⋯少し」
「竜人族は、番に巡り合えば、止まっていた成長が再び動き出すと聞いた」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯はい?」
エイラルド様は、真顔のまま、一歩だけ距離を詰めた。
「────相手は、誰だ」
(あなたですけど!?!?)
脳内で叫んだ声が、危うく口から出るところだった。飲み込む。全力で飲み込む。喉がごきゅっと変な音を立てる。
「⋯⋯⋯⋯こ、個人情報、です」
「⋯⋯そうか」
エイラルド様は短く頷いて、何か小さな声でブツブツと呟いた。
それから、その視線がすうっと横に滑って────私の隣に立っていた室長の上で、止まった。
一秒。二秒。三秒。
「⋯⋯⋯⋯なんで俺を見るんですかね、殿下」
「いや」
エイラルド様は、何事もなかったように私の資料を受け取った。
「ラディオールからここまで、君と二人きりで9日の旅をした男がいたなと、思い出しただけだ」
「行きも9日でしたけど!? 行きと帰りで18日、こいつの愚痴と寝言を聞かされて、帰りは毎朝頭のてっぺんまで測らされてましたけど!?」
室長が叫んだ。エイラルド様はそのまま黙って、もう資料の一枚目に没頭していた。
✤✤✤✤
それから、エイラルド様はラディオールの共同研究者として、その翌月も研究所までやって来た。
ラディオールからナーリアまで、魔導列車で片道9日。往復で18日。1か月の半分以上を列車の中で過ごす計算になるのだけれど、あの方は本当に、毎月やって来た。
エイラルド様が帰った翌朝は、部屋に残ったアンバーグリスの香りを、つい鼻で探してしまう。3日もすれば薄れて消えて、消えた途端に、胸の真ん中がすうすうする。番と片時も離れたくないという竜人族の本能は、どうやら本当だったらしい。(とは言え、仕事がある以上、皆忍耐力で乗り切っているらしい)次の訪問日まで壁の暦に毎日バツをつけるのが癖になって、室長に「囚人かお前は」と呆れられた。
2か月目。
柱の刻み目が、四本になった。
「相手は、誰だ」
「個人情報です」
エイラルド様の視線が、今度は隣の戦闘用魔道具開発部から書類を届けに来た若手職員の上で、止まった。
「君は以前、あの部署から引き抜きの誘いを受けていたそうだな」
「なんでそれを知ってるんですか」
「共同研究の相手方の人事は、把握しておくべきだろう」
「ジーク君とは、もう何年も前からの顔見知りです」
「ジーク、君、⋯⋯⋯ほう、随分と近しい存在のようだ」
「⋯⋯はい? 番だったら、会った瞬間に分かってますし。そもそもジーク君、もう背が伸びきってるからとっくに番がい」
「文献の上ではな。検証はする必要がある」
戦闘用魔道具開発部のジーク君(17)は、迫りくるキラキラオーラのエイラルド様から後ずさり、書類を置いて逃げるように帰っていった。
先月は室長、今月はジーク君。エイラルド様の視線が止まるのは、なぜか毎回、私の近くにいる男の人だ。まるで、容疑者を一人ずつ取り調べているみたいだ。
3か月目。
刻み目が六本になった。お母様が、何年ぶりかに私の採寸をした。
巻尺を私の肩に当てたまま、お母様はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「⋯⋯⋯⋯やっと、あなたの寸法を測り直せるわね」
お母様の目が赤くなっていたから、私は気づかないふりをして、窓の外を見ていた。窓硝子に映った自分の目も、たぶん同じくらい赤かった。
その月、エイラルド様は私を見るなり、少しだけ目を見開いた。
「⋯⋯⋯⋯ドレスか」
「母が、縫ってくれて」
「そうか」
そして、たっぷり間を置いてから。
「────相手は、誰だ」
「個人情報です」
うん、そろそろ微笑みながら怒っているのが分かるようになってきた(どうしてだ?)
4か月目。
刻み目が八本。容疑者は、毎朝ナーリア魔法省に牛乳を届けに来る酪農家の青年になった。
「ミチェ殿の自動搾乳機の、試験導入先だそうだな」
「なんでそれも知ってるんですか」
「共同研究の、実証試験の相手方だ。把握しておくべきだろう」
「あの人、私が入省する前から毎朝来てますけど」
「検証はする」
酪農家の青年は、翌月から配達の時間を早朝にずらした。
これ、魔導式の共同研究に関係あるのかな? 私の番が誰かを知る必要の意味が、未だに分からない。
5か月目。
刻み目が十本。容疑者は、何故かまた室長に戻った。
「冷静に考えてみた」
エイラルド様は、共同研究の打ち合わせの最中に、真顔でそう切り出した。
「君は毎日、この部屋で最も長い時間を彼と過ごしている」
「そうですね、上司なので」
「行きと帰りで18日、二人きりで旅をしている」
「予算が二人分しかなかったもので」
「彼は帰りの9日間、毎朝君の頭のてっぺんを測っていたと聞いた」
「なんでそれを知ってるんですか」
「本人が初日に叫んでいた」
「あの時、殿下は資料に没頭してて、聞いてなかったじゃないですか」
「聞いていた」
「⋯⋯⋯⋯」
「殿下」
室長が、ゆっくりと手を挙げた。
「俺には、妻と、5歳の娘と、3歳の息子がおります」
「⋯⋯⋯⋯そうか」
「竜人族の番は、生涯一人です。俺の番は、うちのかみさんです。あの18日、かみさんと離れて俺がどれだけ干からびてたと思ってんですか」
「そうか」
エイラルド様は、納得したように頷いた。それから、手元の資料に何かを書き込んだ。
────覗き込んだら、容疑者一覧だった。室長の名前に、二重線が引かれていた。
その下に、まだ五人分の名前が並んでいた。
(本当に一覧になってる⋯⋯⋯⋯。殿下、共同研究のために、ここまで真剣に⋯⋯⋯⋯。あと、殿下の字、綺麗⋯⋯⋯⋯)
「おいミチェ」
打ち合わせのあと、廊下で室長に捕まった。
「お前、いい加減にしろ。俺はもう嫌だぞ。月に一度、隣国の王族に番疑惑をかけられる上司の身にもなれ。おまけにお前の背が伸びてきてから、かみさんの目が怖ぇんだよ」
「だって⋯⋯⋯⋯」
「だってじゃねぇ。見りゃ分かるだろ。あの人、完全にお前に────」
「────研究ですよ」
遮った声が、自分でも驚くくらい硬かった。
「あの方が好きなのは、私の式です。使用時発動型の魔術式。あの方の国の工学が何十年も越えられなかった線を、越える式。だから毎月来るんです。私じゃなくて。あの容疑者一覧だって、私の番に誤解されて共同研究が止まったら困るから、先に身辺を洗ってるだけですよ」
打ち合わせの時のエイラルド様は、いつもそうだ。式の話になると、目の奥の凪いだガラス玉に、ぱっと火が灯る。私の組んだ迂回路を指でなぞって、「ここは、どうしてこう曲げた」と身を乗り出してくる。
あの目が向いているのは、式だ。私の後ろにある、式。
「⋯⋯⋯⋯お前、本気でそう思ってんのか」
「思ってます」
室長は、長い長い溜息をついた。それから、拳を私の頭の上に乗せた。グリグリはされなかった。ただ、乗せられただけだった。
「⋯⋯⋯⋯バカな天才が」
✤✤✤✤
【エイラルドside】
「殿下ぁ。ちょっと、ご報告いいですかぁ」
ナーリアからの帰りの魔導列車。向かいの席で、部下が手帳を開いた。
「この一年で殿下が王都にいらした日数、百二十三日。列車の中、百九十八日。ナーリア滞在、四十四日。数えてみたんですけどね?」
「それがどうした」
「殿下、ご自分の執務室より、ナーリア行きの二等寝台に長く住んでますよ」
「一等は、揺れる割に高い」
「そういう話じゃないんですよねぇ」
窓の外を、山の稜線が流れていく。
俺は手元の資料をめくった。共同研究は順調だ。彼女の式は、見れば見るほど底が知れない。使用時にだけ目覚め、それ以外は眠る魔術式。あれが工学院の規格に落とし込めれば、この大陸の魔道具の寿命は、少なく見積もって三倍に延びる。
だから、通う。理由なら、いくらでも用意できる。
────用意できるのだが。
資料の裏に書いた容疑者一覧を、指でなぞる。研究室の同僚たちは、毎日昼時になると番が食事を届けに来るので、一覧に載せるまでもなかった。室長殿は消えた。ジークとかいう若手も、酪農家の青年も消えた。残る三人のうち、街で彼女と並んで歩いていた男は実の兄で、魔法省図書室の司書は八十二歳で、彼女がラディオールで泊まった宿の主人は人間だった。昨日の時点で、全員に二重線が引かれた。
残っている名前は、もう無い。
「殿下」
「なんだ」
「その紙、共同研究の資料じゃないですよねぇ」
「共同研究の資料だ」
「裏の話してるんですけど」
俺は紙を伏せた。
部下の言いたいことは分かっている。分かっているから、聞く必要もない。
竜人族の文献なら、あらかた読んだ。工学院の書庫にあるものも、王宮の禁書庫にあるものも、ナーリアの滞在中に魔法省の図書室で借りたものも、全部だ。
番を得た竜人族は、番と片時も離れたがらない。
番同士は、出会った瞬間に互いが分かる。
そして────番を得た竜人族の傍に、番ではない異性が居座り続けることは、番にとって耐え難い苦痛となる。
俺には、何も分からない。香りも、電流も、何ひとつ感じない。
竜人族同士なら互いに分かるというのなら、分からない俺は、番ではない。当たり前の話だ。俺は人間なのだから。
他の男を疑う時は「文献の上ではな」と切り捨てておいて、自分を外す時だけ、その文献を信じている。技術者としては落第だ。それでも、俺が番かもしれないという仮説だけは、検証する気になれなかった。
────十歳のまま止まっていた彼女の時計を動かしたのは、俺ではない誰かだ。
「⋯⋯⋯⋯次で、区切りにする」
「は?」
「次の訪問で、共同研究の基礎部分は形になる。以後の窓口は、お前に任せる」
部下が、手帳を取り落とした。
「えっ、ちょ、殿下、それは」
「彼女の番が誰であれ、そいつにとって、月に一度隣国から通ってくる男は害でしかない。彼女を困らせる」
口にしてみると、驚くほど筋の通った話だった。
あの日、血筋を差し引いて、一人の技術者として真正面から命令を寄越したのは、彼女が初めてだった。「君は、正しい判断を取った」と返しながら、誰よりもその言葉を欲しがっていたのは、俺自身だった。
だからこそ、今度は俺が、正しい判断をするべきだ。
窓の外で、山が遠ざかっていく。
胸の奥にある、この名前のない何かに、名前をつけるのはやめておいた。つけてしまったら、たぶん、次の訪問で平静を装えなくなる。
✤✤✤✤
1年目の月。柱の刻み目は、二十四本になっていた。
室長と並んで立つと、頭のてっぺんが、もうその肩の少し下に届く。同僚たちに「誰?」と二度見されることにも、ようやく慣れてきた。
お母様の縫ってくれたドレスは、三着目で、やっとパフスリーブとフリルから卒業した。
そしてこの日、共同研究の基礎理論が、ひとつの論文の形にまとまった。
「────以上で、基礎部分の検証は完了とする」
エイラルド様が、最後の頁に署名を入れた。室長と私も、それに続く。
終わった。1年分の打ち合わせと、1年分の「相手は誰だ」と、1年分の「個人情報です」が、一冊の紙束になった。
(来月は、何の話をしようかな。応用研究? 量産化の規格? それとも、そろそろお尻洗浄機の────)
「ミチェ殿」
「はいっ」
「共同研究は、今日で区切りにする」
────え?
「以後の窓口は、こちらの部下に任せる。書簡のやりとりで十分に回るはずだ」
エイラルド様の隣で、部下の方が、ものすごく何か言いたそうな顔をしていた。でも、何も言わなかった。
「え⋯⋯⋯⋯あの、でも、応用研究は」
「君ならば、書簡だけで進められる」
淡々とした声。いつもの、凪いだ琥珀色。式の話をする時の、あの火は、灯っていなかった。
「君の番に、これ以上いらぬ誤解をさせたくない」
「⋯⋯⋯⋯っ」
「────幸せに」
エイラルド様は、立ち上がった。梁に頭をぶつけないよう、1年前と同じように少しだけ屈んで、扉をくぐっていく。
扉が、閉まった。
アンバーグリスの香りだけが、部屋に残った。
「⋯⋯⋯⋯おい」
室長の声が、遠くに聞こえる。
君の番に、誤解をさせたくない。
────私の番に。
1年間、毎月聞かれていたんだから、あの方が自分以外の誰かを私の番だと思っていることくらい、分かっていたはずだった。なのに、それであの方がここへ来なくなるなんて、一度も考えなかった。私が1年間「個人情報です」とごまかし続けたせいで、あの方は、いもしない私の番に気を遣って、去っていった。
番の香りが分からない人に、本能を押し付け困らせたくなかった。それは今でも、本当だ。
でも、あの方は1年間、片道9日の列車に揺られて、ここへ来てくれていた。その間、私はたった一つの本当のことさえ、あの方に渡していない。
選ばれなくていい。おこがましいのも分かってる。それでも、いもしない私の番に遠慮したまま、あの方を行かせるのだけは嫌だ。
(⋯⋯⋯⋯ずるいのは、私の方だ)
「室長」
「なんだ」
「今日の午後、半休ください」
室長は、壁の時計を見て、私を見て、それから、机の引き出しをがたがたと漁った。
「⋯⋯⋯⋯ナーリア駅発、ラディオール行き。午後の便は、四半刻後だ」
投げて寄越されたのは、魔導列車の時刻表だった。
「半休じゃ足りねぇだろ。1日やる。────行け、バカな天才」
「それって、不細工な美人と一緒っ」
私は、涙声でそう言って、走り出した。
✤✤✤✤
走って、気づいた。
脚が、長い。
一歩で進む距離が、1年前と全然違う。10年間、どれだけ急いでも大人の早足に追いつけなかったこの脚が、今は官庁街の坂道を、石畳を、ぐんぐん後ろへ蹴り飛ばしていく。
ああ、これが。
番に出会うって、こういうことなんだ。
ナーリア駅。ラディオールの駅とは比べものにならない、石造りの小さな古い駅舎。ホームに、出発を待つ魔導列車が白い蒸気を吐いている。
その二等寝台の車両の前に、プラチナブロンドの長身が立っていた。
「────エイラルド様っ!!」
振り返った琥珀色の瞳が、見開かれた。
息が上がって、言葉がうまく出てこない。膝に手をついて、肩で息をして、それでも顔を上げる。
「ミチェ殿。どうして」
「個人情報じゃ、ないです」
「⋯⋯⋯⋯何?」
「相手は誰だって、1年間、毎月聞かれました。私、一度も答えてません」
ホームの喧騒が、遠くなる。
甘い。重い。アンバーグリスの香り。1年前、あの水晶宮の大広間で、私の全部をひっくり返した香り。
「────私の番は、あなたです」
エイラルド様が、動かなくなった。
「最初から、あなたでした。ラディオールの街角で、風に乗ってきた香りを嗅いだ時から。水晶宮で、あなたを見つけた時から」
「⋯⋯⋯⋯だが、俺は」
「分からないですよね。人間には、番の香りは分からないから」
だから、言えなかった。
「言ったら、あなたに背負わせることになると思ったんです。香りも何も分からないあなたに、竜人族の本能を押し付けるなんて、おこがましくて。────あなたは、私を子供じゃなく、竜人族でもなく、技術者として見てくれた。だから、もしいつか選んでもらえる日が来るなら、番だからじゃなく、ミチェ・フェルナシアンとして選ばれたかった。⋯⋯⋯⋯そんな日、来るはずないのに」
言い切ってから、自分の声が震えていたことに気づいた。
「⋯⋯⋯⋯でも、それで黙ってたら、あなたが何も知らないまま行っちゃうって、さっきやっと分かって。だから、追いかけてきました。ずるくて、ごめんなさい」
発車を告げる鐘が、ホームに鳴り響いた。
エイラルド様は、列車に乗らなかった。
「⋯⋯⋯⋯俺には、竜人族の番というものが分からない」
低い声だった。
「香りも、電流も、何ひとつ感じない。君の言う『番』が本当に俺なのかどうか、俺には確かめる術がない」
「⋯⋯⋯⋯はい」
「だが」
エイラルド様は、一歩、距離を詰めた。
「月に一度、片道9日をかけて、共同研究の議題を毎回ひねり出していた理由なら、分かる」
「────え」
「応用研究も、量産化の規格も、あと3年分は議題を用意してあった。容疑者一覧の裏にな」
「表と裏、逆じゃないですか!?」
「逆だったかもしれない」
くつ、と喉の奥で笑う気配。1年前、水晶宮で「命令されたな、確かに」と言った時と、同じ笑い方だった。
「君に会いたかった。────君の番が誰であろうと、それだけは、一度も変わらなかった」
番の香りの分からない人が。竜人族の本能なんて何ひとつ持たない人が、1年間、何も知らないまま。
────それでも、選んでくれていた。
視界が、滲んだ。
「⋯⋯⋯⋯室長じゃ、なかったのだな」
「なんでここで室長が出てくるんですか!!」
「二重線は引いた。引いたが、最後まであの男が一番怪しかった」
「妻子持ちって、ご本人が言ってたでしょう!!」
鐘が鳴り終わる。魔導列車は、私たちを置いて、白い蒸気と一緒にホームを滑り出していった。部下の方が、窓から手帳を振っているのが見えた。たぶん、「窓口はお任せください」とかではない何かを叫んでいた。
エイラルド様が、手を差し出した。
骨張った、あちこちに小さな火傷の痕が残る、王族のものとは思えない手。
1年前、水晶宮で、私はこの手を取れなかった。触れてしまったら、きっともう、まともでいられないと思ったから。
けど、今度は迷わない。
指を重ねる。大きな掌が、私の手を包み込んだ。指先だけが、ほんの少しはみ出している。10歳の手のままだったら、きっと、すっぽり隠れていた。
「⋯⋯⋯⋯まともで、いられません」
「何がだ」
「こっちの話です」
✤✤✤✤
その夜。
鏡の前で、お母様が縫ってくれた四着目のドレスに袖を通した。
ふと、下を見る。
20年間、見下ろせば足の甲がまるっと見えていた、あの視界。
────つま先が、見えなかった。
「⋯⋯⋯⋯お母様」
「なあに?」
「ドレスの胸元、もう一回、測り直してもらえますか」
◆完◆
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
────────
※新作の短編『婚約破棄が採点競技の国で、自分の婚約破棄の審判をしたら殿下は0.3点、なぜか隣国の大公様が私に満点をつけてきます』を公開しました。作者ページからお読みいただけます。
※ミチェとエイラルドの出会い────牛の暴走と、二人そろって生乳まみれになった一日は、前作で読めます。
『番が見つからないと成長が止まる竜人族です。ちなみに見た目10歳・中身20歳、運命の番は隣国の王弟殿下でした。』
「殿下、その容疑者一覧は燃やしてください」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆での評価や、ブックマーク、いいねで応援していただけると、とても励みになります。




