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第6話(最終話) 疲れた管理職の結論

 朝が来ると、書類も来る。


 一年前と同じだ。魔王ゼルダークの一日は、天幕の中の事務机から始まる。リーゼルが持ってくる紙束を受け取り、数字を追い、判を押し、指示を出す。


 違うのは、紙束の中身だ。


 交易記録。

 次便の品目確認。

 黒曜石の出荷量。

 月光草の乾燥状況。

 魔鉄の加工済み在庫。

 輸送路の天候報告。

 人間側からの受領確認。

 カザンへの配給計画。


 死亡報告がない。

 前線の兵員配置表がない。

 戦争の書類が消えたわけではない。

 小競り合いの報告も、前線の監視結果も、まだある。

 だが紙束の中でそれが占める割合は、一年前の半分以下になっていた。


 代わりに増えたのが、交易にまつわる細かな調整の書類だ。品質基準の統一案。検品手順の改定。人間側の受領印の書式。魔族側の積み荷順序。新規取引品目の提案。


 面倒だ。戦争の書類のほうが、判断は単純だった。攻めるか守るか、出すか引くか。交易の書類は答えが一つではない。条件を擦り合わせ、双方の顔を立て、数字と感情の間を縫う。


 だが——。


 面倒な書類のほうが、朝の腹は軽かった。


◆ ◆ ◆


 定例巡回は、月に二度。百年間一度も欠かさなかった習慣だ。


 今日の行き先は、カザン。


 一年ぶりだった。


 前回ここを歩いたとき、集落は削れていた。子供たちは動く元気もなく、坑道からはふらつく鉱夫が出てきた。採掘量は半減し、畑は痩せ、井戸は枯れかけていた。


 今、井戸は水を吸い上げている。


 畑はまだ痩せているが、人間側から入った種が三畝さんせほど芽を出していた。採掘場の入口には新しい支柱が立ち、坑道の前に座り込む者はいない。


 集落の長が出迎えた。前回と同じ男だが、目が違う。一年前の諦めが消えている。代わりにあるのは、疲れた安堵だった。


「陛下。ご巡回、ありがたく存じます」


「配給の状況は」


「おかげさまで。月に二度の定期便が確実に届いております。リーゼル殿の手配はいつも正確で——」


「あの男に伝えておく」


「それから、人間の村から技術者が一名、井戸の修繕に来てくれました」


「人間が?」


「はい。交易の一環で、と」


 ゼルダークは眉を上げた。物の交換だけでなく、技術の交換まで始まっている。あの物流屋の発想か、王女の手配か。おそらく両方だ。


 集落の奥へ歩く。


 日陰の石壁のそばに、子供たちがいた。


 前回は遠巻きにこちらを見ていた。動く元気がないから近寄ってこなかった。今日は違う。子供が三人、石壁の前で棒きれを振り回して遊んでいる。


 その中に、フィルがいた。


 一年前より背が伸びている。頬にも肉がついた。石をしゃぶるような仕草はない。棒きれを振って、隣の子に何かを叫んでいる。


 フィルの足元には、小さな女の子がしゃがんでいた。ミーシャだろう。フィルより二つ下の妹。ガルドから聞いていた。フィルが石を舐めていたのは、この子に食べ物を回すためだった。


 ミーシャは地面に何かを描いていた。木の枝で、丸い形を並べている。覗き込むと——パンだった。丸パンの絵を、いくつも並べている。


「何をしている」


 声をかけると、ミーシャがびくりと顔を上げた。大きな角に怯えた目が固まる。

 フィルが棒きれを投げて走ってきた。妹の前に立つ。小さな体で、魔王の前に立つ。


「この子は悪いことしてない」


 声が震えていた。怖いのだ。それでも立っている。

ゼルダークは片膝をついた。


 外套の内側から、布に包んだものを取り出す。パンだった。今朝、配給分から二つだけ自分の取り分として確保したものだ。


「食べていい」


 フィルの目が丸くなった。パンを見て、ゼルダークを見て、もう一度パンを見た。


 受け取った。


 そして——半分に割って、ミーシャに渡した。


 ガルドの言った通りだった。この子は、まず妹に渡す。


 ミーシャが小さな手でパンを受け取り、匂いを嗅いで、口に入れた。噛んで、飲み込んで、またもう一口。


 フィルは残り半分を自分の口に入れた。今度は石ではない。


 ゼルダークは立ち上がった。背を向けて、歩き始めた。


 振り返らない。


 振り返れば、百年で一度も見せなかった顔を、子供に見られる。


◆ ◆ ◆


 カザンの外れで、ガルドが待っていた。


 焚き火はない。昼間の陽光の下で、石壁にもたれて腕を組んでいる。一年前より少しだけ肉がついた顔は、相変わらず怒っているように見えるが、目の奥が違う。


「見たかい」


「見た」


「よかったろ」


「ああ」


 ガルドは壁から背を離した。


「あたしはまだ人間を許してないよ」


「知っている」


「でも、フィルが食べてるのを見たら、許す許さないの話が少し遠くなった」


「遠く」


「そう。消えたんじゃない。遠くなっただけ。でも、遠くなるだけで——呼吸が少し楽になるんだよ」


 ゼルダークは黙った。


「あんたは?」


「俺は」


「百年戦争の責任者が、人間と商売して、孫に飯を食わせてる。どんな気分だい」


「最悪だ」


「嘘だね」


 ガルドが笑った。一年ぶりに見る、歯を見せた笑い方だった。


「あたしね、カザンに戻れたよ」


「ああ」


「前線にいる理由がなくなった。配給の順番を見張る必要がなくなったから」


 一年前の夜に、ガルドはそう言った。「カザンに戻りたい。けど戻ったって、食わせてやるものがない」だから前線にいた。配給の順番を見張るために。


 今は戻れている。


「フィルの隣にいられる。それだけで十分だよ」


「十分か」


「十分さ。あんたみたいに欲張りじゃないからね」


「俺が欲張り?」


「戦争を終わらせて、交易を回して、書類を処理して、おまけに敵の恋愛まで面倒見てるんだろ。欲張りじゃなかったら何だい」


 ゼルダークは口を開き、閉じた。


「知ってたのか」


「あんたが何考えてるかなんて、三十年一緒にいりゃわかるよ。あの王女と物流屋をくっつけようとしてたんだろ」


「くっつけようとしたのではない。結果的に——」


「結果的に応援してたんだろ。あたしの目はごまかせないよ」


 ゼルダークは天を仰いだ。


「お前の目は昔から厄介だと言った」


「それ、前も聞いたよ」


「二度言うほど厄介なんだ」


 ガルドは鼻を鳴らした。


「ところでさ」


「何だ」


「あの二人、昼飯を一緒に食べてるらしいね。物流屋のところの村で」


「どこからそういう話が入る」


「交易の荷車を引く連中は、よく喋るんだよ。人間の村で王女さんがハンモックの男と飯食ってたって」


「ハンモックの男」


「物流屋だろ」


「ああ」


「公務の視察だって言い張ってたらしいけど、昼飯の後半は公務じゃなかったって」


 ゼルダークは額を押さえた。


「荷車引きの情報収集力が斥候より高いのはどうなんだ」


「そういうもんだろ。戦場より台所のほうが情報は早い」


◆ ◆ ◆


 夕刻、陣営に戻ると、リーゼルが書類を持って立っていた。


「お帰りなさいませ」


「ああ」


「カザンのご巡回はいかがでしたか」


「井戸が直っていた。種が芽を出していた」


「それは何よりです」


「お前の配給手配のおかげだと、長が言っていた」


「恐縮です」


 リーゼルの表情は変わらない。この男はいつも事務的だ。だがその事務的な律儀さが、一年間の交易を回す土台になっていた。品目確認、受領手続き、日程調整、配給計画。どれも地味な作業だが、一つでも欠ければ仕組みは回らない。


「リーゼル」


「はい」


「お前は変わったか」


「は」


「一年前と比べて」


 リーゼルは眼鏡の位置を直した。考える仕草だ。


「仕事の内容は変わりました。戦争の事務から、交易の事務へ。しかし、事務処理の質には変わりがないと自負しております」


「自負するな。事実だ」


「恐縮です」


「それだけだ。下がっていい」


 リーゼルは几帳面に一礼し、天幕を出ていった。


 十年間、この男の律儀さだけが事務処理地獄の中で唯一信頼できる部品だった。それは今も変わらない。変わったのは、処理する書類の中身だけだ。


 机の上に積まれた紙束を見る。交易記録。配給計画。品目提案。品質報告。その中に一枚、リーゼルの字で短い覚書が挟まっていた。


「人間側の物流拠点(通称・佐藤ロジ)にて、王女と物流屋の定期会合が常態化している模様。公務名目。実態は不明」


 ゼルダークは覚書を裏返した。裏にも、リーゼルの字で一行。


「私見ですが、策略は成功したのではないでしょうか」


 ゼルダークは声を出さずに笑った。


 あの律儀な男が、私見を書いたのは初めてだった。


◆ ◆ ◆


 夜。


 天幕の入口から、星が見える。


 一年前の夜を思い出す。焚き火の前で、ガルドが言った。「面白い男がいるらしいな」空から食糧を降らせる男の話だった。


 あの夜から始まった。


 情報を集め、分析し、観察し、立案し、実行した。策略と名付け、魔王の判断として通した。王女と物流屋の関係を利用して、交易を安定させる。冷たい計算だ。


 結果だけを見れば、成功だ。


 交易は定着した。食糧は流れている。

 フィルはパンを食べている。

 カザンの井戸は水を吸い上げ、畑に芽が出ている。

 ガルドはカザンに戻れた。

 前線の衝突は減り、書類の中から死亡報告が減った。


 策略は成功した——と、リーゼルは書いた。


 だが、ゼルダークは知っている。


 策略は、途中で策略でなくなった。地形情報を無条件で開放したとき。春の洪水で案内人を迷わず送ったとき。王女の政治的立場を補強する条件を自ら出したとき。フィルにパンを渡したとき。


 そのどれも、計算の結果ではなかった。


 策略と呼べ、と自分に言い聞かせた。二度言った。

 三度目はなかった。三度目が来る前に、呼び方が意味を失っていた。


 負けたのは戦争ではなく、策略だった。


 策略で始めたものが、策略の枠を超えた。

冷たい計算で繋いだはずの関係が、計算の外で根を張った。弱体化するはずだった敵は強くなり、弱体化したのは自分の壁だった。


 それを敗北と呼ぶのなら——悪くない敗北だ。


 少なくとも、百年間の戦争で経験したどの敗北よりも、腹が軽い。ゼルダークは条件書に目を落とした。明日の便の品目確認。黒曜石二箱、月光草一束、魔鉄屑十斤。対価は穀物、種子、修繕工具。


 一年前と同じように、朝が来れば書類が来る。


 ただ——。


 もう、書類だけの朝ではなかった。


 書類の先に、パンを半分に割る子どもがいる。

 カザンに戻った女がいる。

 律儀に私見を書く側近がいる。


 そして——敵であるはずの王女と物流屋が、昼飯を半分だけ公務で食べている。


 魔王の仕事の九割は、書類処理である。残りの一割が、戦争と演説と、たまの睡眠だった。


 今は少しだけ違う。


 残りの一割が、


 交易と巡回と——不本意な恋愛工作の後始末になっていた。


 ゼルダークは机に向き直り、ペンを取った。


 明日もまた、書類が来る。


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