表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/6

第4話 王女が追いかけてきた

 朝、天幕を出る前に、ゼルダークは条件書を三度読み返した。


 少量、高頻度、小分け交換、相互試食。物流屋が並べた言葉は、一晩寝ても変わっていない。数字は合理的だ。初回の量も現実的だ。停止条件も明記されている。


 呑めなくはない。


 呑まなければ、フィルはまた石をしゃぶって眠る。策略だと決めた。王女と物流屋の関係を繋いでおけば、交易は安定する。こちらから有利な条件を一つ出し、王女の政治的立場を補強する。敵を支援するのではない。食糧の流路を確保するために、最も動きやすい駒を動かすだけだ。


 ——それが策略ならば、なぜ胸が痛むのだ。


 ゼルダークはその疑問を書類の下に押し込み、天幕を出た。


◆ ◆ ◆


 休息所跡の広場に、双方が並ぶ。


 二日目だった。昨日の観察を経て、今日は答えを出す日だ。


「説得は難儀した」


 ゼルダークは開口一番、そう言った。嘘ではない。兵にも、後方の集落にも、「奪うより待て」と説いて回った。一番難儀だったのは、ガルドだった。


「兵にも、後ろで飢えている集落にも、奪うより待てと説かねばならん。おそらく今日一番難儀なのはそこだ」


 人間側を見る。


 物流屋が王女の半歩後ろに立っている。昨日と同じ位置だ。その安定感を確認してから、続けた。


「だが、今日食わせねば明日がない。ならば、王として嫌な選択を取るしかあるまい」


「条件付きで受ける」


 広場の空気が動いた。だが、全員が動いたわけではなかった。


 斜め後ろで気配が変わる。わかっていた。ガルドだ。


「王よ」


 低い声が落ちた。


「あたしは、この交易には従えないよ」


 ゼルダークは振り返った。


 ガルドの目は据わっていた。昨夜の焚き火の前で「黙ってるよ」と言った、あの静かな諦めはもうない。朝までの間に何があったのか。おそらくカザンからの知らせだろう。孫たちの状況が、また一段悪化したという報告でも届いたか。


 怒りは、理屈で収まらない場所がある。


「あたしらの兵が何人死んだ。あの砦の前で、人間の剣と矢に倒されて。その相手に頭を下げ、食糧を乞うってのかい?」


「頭は下げておらん」


「実質は同じだろ」


 否定できなかった。ガルドの言葉は正しい。正しいから、余計に返す言葉が狭くなる。


 ゼルダークは声を低めた。


「お前の怒りは理解する。だが、怒りで腹は膨れん」


「それでも——」


「それでも、子供は飢えている。お前の部下の家族も」


 ガルドの顔が一瞬だけ歪んだ。フィルの顔が浮かんだのだろう。

 卑怯なことを言った自覚はある。孫の飢えを盾に、古い友人の口を塞いでいる。王とはそういう生き物だと割り切れるほど、ゼルダークはまだ老いていなかった。


「あたしは、この場を辞退するよ」


 吐き捨てるように言い、ガルドは踵を返した。

 ゼルダークはその背を見送った。追わない。ここで追えば、ガルドの怒りを「王命で黙らせた」ことになる。それは許されない。


 兵の何人かが目配せを交わしているのが視界の端に見えた。動揺している。だが、後を追う者はいない。


 ゼルダークは人間側へ向き直った。


「一枚岩ではない。見てのとおりだ」


「こちらも同じです」


 王女が即座に返した。


 その返答の速さに、ゼルダークは目を細めた。一枚岩でないことを隠すのではなく、共有する。あれは弱さの開示ではない。対等であることの確認だ。


 ——この女、読めない。


◆ ◆ ◆


 交換の準備が進んだ。


 人間側は食糧の小分け袋を並べ、魔族側は黒曜石と月光草を木箱に入れて運んだ。手順は昨日合意した通りだ。確認、印章の照合、開封、試食、検品。


 ゼルダークは広場の端から全体を見ていた。自分が直接動く場面ではない。手順を見守り、異常があれば止める。それが王の役割だった。


 王女の号令で交換が始まろうとした、その直前だった。人間側の騎士が一人、列を外れた。若い男だ。左腕に包帯が巻かれている。砦の戦闘で負傷した兵だろう。男は自分の前の食糧を見下ろし、次に魔族側の兵を見た。


 その目が、暗かった。何かを言い始めている。上官らしい大柄な騎士が歩み寄る。会話は聞こえないが、空気でわかった。あの若い騎士は、交換を拒んでいる。


 次の瞬間、食糧の袋が蹴り飛ばされた。


 白い粉が土に散る。広場が凍りつく。魔族側の立会人が一歩退いた。


「やはり、人間は信用できない」


 低い声が聞こえた。立会人が踵を返しかける。ゼルダークは動かなかった。ここで口を開けば、こちらが「被害者」として場を支配できる。人間は約束を守れなかった。交易は不成立だ。そう宣言すれば、ガルドを含む反対派の溜飲は下がる。


 だが——。


 それをすれば、フィルの口にパンは入らない。沈黙の中で、別の声が飛んだ。


 人間側の少年だった。赤い髪の、若い魔術師。砦の戦闘で炎を使っていた少年だと記憶している。少年が広場の中央に歩み出た。赤い髪の、若い魔術師。怒りで震えた声が、広場を裂いた。


 許していない、と叫んだ。仲間が死んだ。炎が届かなかった。魔族をゆるしたわけではない。


 ——それでも、石をしゃぶって眠る子どもの前で、飯くらい食わせてやれと言い切った。信用がなくても荷は渡せる。信用は後から積めばいい、と。


 フィルの姿が浮かんだ。


 人間の少年が、魔族の子供の飢えを知っている。砦を攻めた敵の子の空腹を、怒りと同じ重さで背負おうとしている。理解が追いつかなかった。


 いや、理解はしている。追いつかないのは感情のほうだ。


 ゼルダークの胸のどこかで、何かが軋んだ。


 あの少年は仕組みの話をしていない。道理の話もしていない。ただ、怒りながら飯を渡すと言っている。その矛盾を、矛盾のまま引き受けている。


 続いて大柄な騎士団長が、蹴った騎士の前に立った。死んだ仲間の名前を出し、その仲間なら「食えない奴を先にしろ」と言うだろうと説いた。


 騎士の手が、剣の柄から離れた。代わりに食糧の袋を掴んだ。


「自分で、運びます」


 震えた声だった。でも足は前へ出ていた。


 ゼルダークは広場の端で、黙って見ていた。


 おかしい。


 策略の計算では、人間側の内部対立は隙間であり、弱点のはずだった。対立が深まれば交易が不安定になり、魔族側に有利な条件を引き出せる。そう読んでいた。


 だが、あの人間たちは対立を——対立のまま、超えた。


 許していない。怒りは消えていない。それでも荷を渡す。その「それでも」の一歩が、弱さではなく強さになっている。


 割れたまま進む集団は、一枚岩より厄介だ。なぜなら、割れ目の一つ一つが自分の意志で動いているからだ。


◆ ◆ ◆


 交換が進んだ。


 三分割の段階交換。開封、確認、試食。問題なし。


 最後の袋が渡り切ったとき、荷車の陰から小さな顔がのぞいた。


 子供だった。


 フィルではない。別の集落の子だ。だが、同じ目をしていた。空腹と恐怖を混ぜた、あの目。大人の後ろに隠れてついてきたのだろう。母親らしき女が引っ込めようとするが、子供の目はパンの袋から離れない。


 ゼルダークは側近から袋を受け取った。丸パンが二つ入った小さな袋だ。子供の前にしゃがみ、差し出す。


 子供は袋を両手で受け取り、中をのぞいた。匂いを嗅いだ瞬間、顔が変わった。隠していた空腹が一気に表へ出る。


 でも奪うようには食べなかった。まず母親を見て、小さくちぎって、口に入れた。ゆっくり噛む。


 その目に涙が浮かんだ。


 ゼルダークは立ち上がった。顔を上げない。今だけは、王の顔を保てる自信がなかった。


 百年の戦争で、何万の書類を処理した。配給表、前線報告、死亡通知、補修計画。数字ばかりを見てきた。


 あの涙は、数字ではない。


 ——これが、あの男が言った「流れ」か。


 物流屋を見た。男はその光景を見ていた。静かな目だった。勝ち誇るでもなく、感傷に浸るでもなく、ただ「これが必要だったのだ」と確認するような目だった。


 そしてその隣で、王女も見ていた。紙束を抱えた王女の目は、少しだけ潤んでいた。だがすぐにいつもの冷えた表情に戻す。


 あの二人の間に、また何かが流れた。


 言葉ではない。目も合わせていない。ただ、同じものを見て、同じように息を吐いた。ゼルダークは物流屋に向かった。


「物流屋」


「はい」


「お前の言う「流れ」とやら、確かに見た」


「そりゃどうも」


「だが、一便で世界は変わらん」


 間を置いて、続けた。


「お前のやり方は合理的だ。物の流れを作り、数で証明し、感情を迂回する。それは認める」


 ここからは、策略の外だった。


「だが、合理的であるがゆえに——我が民の怒りを、数字で処理するな」


 ガルドの顔が浮かんでいた。あの怒りは正しい。百年分の死者の重さは、どんな帳簿にも載らない。それを効率の名で片付けることだけは、許してはならなかった。


 物流屋が黙った。反論が来ると思った。来なかった。


「すみません」


 謝罪だった。


 ゼルダークは目を細めた。予想外だった。言い返すか、弁解するか、少なくとも理屈を立てると思っていた。


 そこへ王女が一歩前に出た。怒りを帳簿に載せないのが自分の仕事だと言い切り、仕組みの外にある痛みは自分が引き受けると続けた。忘れもしない、と。


 まっすぐにこちらを見ている。


 ゼルダークは黙った。


 策略の話をしていたはずだった。隙間を使い、関係を利用し、食糧を引き出す。冷たい計算だ。


 だがこの女は、計算の外から正面に立っている。怒りを引き受けると言っている。敵国の、百年分の怒りを。


「王女」


「はい」


「お前のほうが、よほど厄介だ」


 口をついて出た言葉だった。策略にはない台詞だ。厄介。そうだ、厄介なのだ。弱体化するはずだった。王女と物流屋の結びつきを強めれば、感情的な脆さが生まれると読んだ。感情は判断を曇らせ、曇った判断は交渉の穴になる。それが策略だった。


 おかしい。弱体化するはずだったのだが。


 あの二人は、結びつくほどに強くなっている。物流屋は仕組みの限界を認め、王女は仕組みの外を引き受ける。片方の弱さがもう片方の強さで埋まるのではなく、弱さを共有したまま前に進んでいる。


 それは策略で作れるものではなかった。


◆ ◆ ◆


 交換が終わり、人間側が引き揚げ始めた。


 リーゼルが近づいてきた。


「陛下。初回交換、完了いたしました。数量・品質ともに合意通りです」


「ああ」


「それから——一つ、ご報告が」


「何だ」


「王女が、ガルド殿を追いかけておりました」


 ゼルダークの眉が動いた。


「追いかけた?」


「はい。ガルド殿が場を離れたあと、王女が一人で後を追い、引き留めようとした模様です」


「結果は」


「止められなかったようです。王女はしばらくして戻ってきましたが、衣服が泥で汚れておりました」


 ゼルダークは黙った。


 敵国の王女が、こちらの反対派を追いかけて説得しようとした。外交儀礼としては異常だ。あの女の立場なら、反対派の離脱は好都合のはずだ。交渉相手が減れば条件は楽になる。


 なのに追った。


「リーゼル」


「はい」


「あの王女は——厄介だと言った。撤回はしない」


「はい」


「だが、策略の対象としては——もう見られん」


 リーゼルが息を呑んだ。


「それは、どういう意味でしょうか」


「わからん。わからんから困っている」


 ゼルダークは陣営へ戻る道を歩きながら、低くつぶやいた。


 策略だったはずだ。王女と物流屋の関係を利用して、食糧の流路を確保する。冷たい計算。魔王にふさわしい手札の切り方。


 だが今日、あの広場で見たものは、手札の上には乗らなかった。


 蹴り飛ばされた食糧を自分で拾い直す騎士。

 怒りながら飯を渡すと叫ぶ少年。

 死んだ仲間の名前で部下を止める騎士団長。

 敵の怒りを引き受けると言い切る王女。

 そして——数字ではなく、子供の涙を見ていた物流屋。


 あの二人を繋いでおけば交易が安定する。その読みは正しかった。正しかったが、正しさの意味が変わっていた。策略として始めたものが、いつの間にか——。


「陛下」


 リーゼルが後ろから声をかけた。


「ガルドのことですが」


「食糧は先にカザンへ回せ。約束した」


「承知いたしました。それと——」


「何だ」


「カザンの配給が届けば、フィルは石を舐めなくて済みます」


 ゼルダークは足を止めた。振り返らなかった。


「それが全部だ」


 低い声で言った。


「それだけのために、俺は嫌な選択を呑んだ。策略の名を借りて、敵の手を取った。それ以上の理由はない」


「はい」


 リーゼルの返事は静かだった。嘘をついた自覚はある。「それだけのために」は本当だ。だが「それ以上の理由はない」は——もう、完全には本当ではなかった。


 天幕に戻る。


 机の上に書類が積んである。交易の記録。次便の条件案。配分表の修正。ペンを取ろうとして、手が止まった。


 あの王女が泥だらけで戻ってきたとき。物流屋がそれを見て、何も言わずに自分の紙束を一枚差し出した。乾いた布代わりに使えとでも言うように。


 王女は黙って受け取った。


 その一瞬を、ゼルダークは見ていた。策略の対象が、人に見え始めている。


 それは魔王として、致命的な兆候だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ