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指先を灯す  作者: あめたす


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8/12

第8話:ベサメ・ムーチョの遺言(後編)


葬儀の喧騒が、遠く潮が引くように消えていく。

私は、父・誠が運転する軽トラックの助手席に揺られていた。窓の外には、祖父・春道がその生涯をかけて守り、手を入れてきた福井の街並みが流れていく。


「……寄っていくぞ」


父が短く言って車を止めたのは、商店街の角にある『坂下眼鏡店』の前だった。かつて祖父が建てた、元は呉服屋だったという威厳ある日本家屋。今は、お喋り好きな坂下敏夫さんが、その歴史を店ごと守っている。


「おお、誠さんに紬ちゃん。大変だったな」


坂下さんが、奥から冷たい麦茶を持ってきてくれた。

店内の空気は、どこか懐かしい木の匂いがする。天井を見上げれば、太い梁がどっしりと家を支えていた。数十年経っても一分の歪みもない、祖父の仕事の「骨組み」だ。


「ここに来るとよ、親方の遊び心が見えるんだ」


坂下さんが、使い込まれたカウンターの端をトントンと叩いた。


「見てな。ここ、普通の大工じゃ作らねえんだ」


坂下さんが隠し細工のような木枠の端を指先で押すと、滑らかな音を立てて小さな引き出しが姿を現した。

それは、まるで魔法の箱が開く瞬間のような、静かな高揚感を含んでいた。中には、色褪せた古い大工道具と、一枚の古びたメッセージカードが入っていた。


「親方が亡くなる少し前にな、『紬が来たら見せてやってくれ』って預かってたんだ。これ、十年前の控えらしいぜ」


それは、叔父の慶介がスペインでエレーナと結婚した際、祖父が贈った祝辞の控えだった。

震える手でそのカードを受け取ると、そこには祖父の力強い、けれど少し角が丸くなった筆跡が並んでいた。


「親愛なるエレーナ。遠い国から、よくぞこんな北国の職人の家に来てくれた。

言葉は通じなくても、あんたの目を見ればわかる。あんたは『本物』を愛する人だ。

うちの自慢は、この古い家と、孫の紬の手だ。

紬の手は、俺が何十年もかけて研いできた鑿や金槌と同じ、真っ直ぐな仕事をする。

いつの日か、紬が作ったものが海を渡って、あんたの国を照らす日が来ることを、俺は確信している。

ベサメ・ムーチョ。愛を込めて。 春道」


視界が、急に熱い膜に覆われた。

ビジネスYouTubeが説く「市場価値」や、私が気に病んでいた「貧しさの象徴としての歯並び」なんて、祖父の世界には一文字も存在しなかった。

祖父が見ていたのは、私の指先に宿る「真っ直ぐな仕事」そのものだったのだ。一ミリの狂いもなく一万本のフレームを仕上げる私の執念を、祖父は「確かな奇跡」だと信じてくれていた。

隣で黙って柱を見上げていた父が、低く言った。


「……親父は、お前の手を一番高く評価してた。俺が『紬には無理だ』と言うたび、親父は鼻で笑ってたよ。お前のその『量産できる力』は、一発の天才よりもずっと重いんだとよ」


私は溢れそうになる涙を堪えながら、自分の右手の親指の付け根にあるタコをそっとなぞった。


その日の夕刻。

実家に戻った私は、自室の整理をしていた。遺品整理という言葉に背中を押され、何年も開けていなかった引き出しの奥をかき分けた。

すると、一番底から見覚えのない青い封筒が出てきた。

それは10年前、慶介叔父さんがスペインから送ってくれたメッセージカードだった。当時の私は、就職したばかりの工場の喧騒に忙殺され、自分とは無縁な「海外の華やかな日常」を直視できず、ろくに読みもせず仕舞い込んでいたのだ。

震える指で封を切ると、潮風の香りがするような気がした。


「紬、元気か。姉さんのお腹に君がいると知ったあの日から、俺がどれだけ君の誕生を楽しみにしていたか知ってるかな。

俺が高校生の頃、学校の帰り道に、友達を大勢引き連れて君に会いに行ったことがあったんだよ。あの時、友達に『俺の自慢の姪だ』って紹介したのを思い出すよ。

紬は、底力があって、人の話を本当に深く聞ける。それは誰にでもできることじゃない、君だけの才能だ。これからも眼鏡の仕事で、腕を磨き、センスを磨き、君自身の作品(人生)を増やしていってください。

そうそう、あの力強かった爺さんも、最近は本当に年を取ったよ。時間に追われる毎日だろうけど、上手くタイミングを作って、爺さんに顔を見せてあげてくれ。これからもよろしくな。 慶介より」


手紙を読み終えた瞬間、私は部屋の隅で膝を抱えて泣いた。

あの夜、山の中で土に溶けてしまいたいと思っていた私。自分の人生に「何者でもない」と絶望し、死を望んだ私。

けれど、私の人生が始まる前から、そして私が私を嫌っていた10年間も。

ずっと遠い海の向こうで、そしてすぐそばの工房で、私を「自慢だ」と言ってくれる人たちがいた。

私が「ボロボロで可愛げがない」と呪っていたその手は、誰かにとっては「自慢の金槌」であり、誰かにとっては「未来を照らす希望」だった。

ふと顔を上げると、鏡の中に一人の女が立っていた。

喪服を着て、涙で鼻の頭が少し赤くなり、相変わらず少しだけ歯並びの悪い、32歳の私。

私は立ち上がり、大きく息を吸った。

まだ心に絡みついた霧がすべて晴れたわけじゃない。明日になればまた、工場で社長に怒鳴られ、瀬戸口くんに鼻で笑われるかもしれない。

けれど。

私の背筋には、祖父が坂下眼鏡店に打ち込んだあの太い梁のように、揺るぎない「芯」が一本、確かに通った。


「……よし」


私は、自分の指先をじっと見つめた。

乾燥して皮が厚く、ボロボロになった私の指先。

この指先こそが、私の灯火。

私は、慶介叔父さんから届いた手紙と、祖父が遺したメッセージカードを、一番目につく机の棚に並べた。

ビジネス動画の音声は、もういらない。

私は自分の耳で、自分の鼓動を聞いていた。

私は、ゼロから一を生む天才じゃない。けれど、一を万にする、狂いのない職人だ。

その「一万回の祈り」が、いつか海を渡って、誰かの明日を照らす。

私は窓を開けた。

福井の夜風はまだ冷たい。けれど、その冷たさが今は心地よかった。

明日からの眼鏡作りも、週末の陶芸も、もう以前の私じゃない。

私は、私の指先を灯して生きていく。

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