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指先を灯す  作者: あめたす


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12/12

最終話:一万分の一の矜持



眼鏡のフレームを研磨するバフ機の回転音が、心地よい重低音となって工場に響いている。

かつての私にとって、この音は自分を削り取る「摩耗」の音だった。けれど今は違う。

1万本のネジを締めるその1つひとつの動作が、私という人間をこの世界に繋ぎ止め、確かな「形」を与えてくれる「刻銘」の音だ。

バルセロナへ送った20本の限定モデルと、それに添えた手捻りの器。

それらが出荷されてから、数週間が経っていた。


昼下がり、工場の休憩室。

私はワイヤレスイヤホンを外して、窓の外を眺めていた。以前のようにビジネス系YouTuberの「市場価値」や「自己研鑽」という言葉を詰め込む必要はもうない。

ふと、隣に後輩の瀬戸口くんが座った。最新のガジェットをいじりながら、彼は少し迷ったような顔をして私に話しかけてきた。


「富永さん。……あの、こないだの限定モデル。あれ、データ上は既存の金型と同じはずなのに、どうしてあんなに表情が違うんですか?」


効率と数値を信奉していた彼が、初めて「数値化できないもの」に興味を示した瞬間だった。私は自分の、絆創膏とタコだらけの手を彼に見せた。


「瀬戸口くん、AIや機械は『1万本を同じに作る』ことは得意だけど、1万本の中に『1万回分の体温』を込めることはできないの。私はただ、20本の眼鏡を1本作るのと同じ熱量で20回繰り返しただけ。それが『ゆらぎ』になったのかもね」


瀬戸口くんは私の手をじっと見つめ、それから自分の綺麗な指先を見た。


「……職人の手の説得力、ですか。ちょっと、悔しいな」


彼はそう言って、少しだけ恥ずかしそうに笑った。その顔は、地方再生のキラキラした文脈に自分を当てはめようともがいていた、かつての私に少しだけ似ていた。


週末。

私は久しぶりに、祖父・春道の愛弟子だった岸本寅雄さんの家を訪ねていた。

あの「磨き抜かれた長い廊下」が、冬の斜光を浴びて鏡のように輝いている。


「紬、よく来たな。……ほう、いい面構えになった」


寅雄さんは、私の顔を見て満足そうに頷いた。


「親方(春道)が言ってた通りだ。あんたの背筋は、大工が魂を込めて立てた大黒柱と同じ、真っ直ぐな線を描いてる」


私たちは、祖父がかつて手がけた仕事の跡を辿るように、家の中を見て回った。

建具の合わせ目の精緻さ、何十年経っても歪まない構造。


「親方はな、目に見えるところを綺麗にするのは当たり前だと言ってた。本当に大切なのは、壁の裏側、人には見えない『骨組み』にどれだけ誠実であるかだ、ってな」


寅雄さんの言葉を聞きながら、私は自分の仕事を思い返していた。

眼鏡の量産。表からは見えない小さなネジの噛み合わせ、テンプルのわずかな厚みの調整。

それは、祖父が大工仕事に込めた「目に見えない誠実さ」そのものだったのだ。

私は、寅雄さんの家の廊下を裸足で歩いてみた。

幼い頃、スケートのように滑って遊んだ感覚が、足の裏から全身に蘇る。

あの時、私の体幹は、職人としての「軸」は、この廊下の上ですでに作られていたのだ。


「おじいちゃん。私は、おじいちゃんより先に死のうとした。ごめんね。でも、今はわかるよ。おじいちゃんが遺したものは、建物だけじゃなくて、私のこの指先の中にも生きてるんだって」


胸の奥が熱くなる。

消えたいと思っていたあの夜の自分を、抱きしめてやりたいと思った。


実家の工房に戻ると、父・誠が珍しく1人で酒を飲んでいた。

金賞作家としての重圧から解放されたのか、最近の父は、老いを受け入れた穏やかな職人の顔をしている。


「紬。……バルセロナのエレーナから連絡があったぞ」


「えっ、何か不具合でも?」


「いや。その逆だ。あの器を手に取った客がな、『これは祈りのような器だ』と言って、20個すべて即日完売したそうだ」


父は少し自慢げに、けれどどこか寂しげに笑った。


「俺の策略を越えて、お前の『純粋な芸術性』が海を渡ったわけだ。……俺の負けだな。完敗だ」


私は父の隣に座り、父が注いでくれたお猪口を手に取った。


「負けじゃないよ、お父さん。お父さんの厳しい『型』があったから、私はその中で踊る術を知ったんだもん。策略家のお父さんと、芸術家ぶったおじいちゃんと……、全部が混ざって、今の私の指先があるんだから」


父と娘。

かつては「敵わない壁」だった存在が、今は共に「道」を歩む伴走者になった。

工房の隅では、母・志乃が微笑みながら、私たちのためにビーフシチューを温め直している。


月曜日。

再び、日常が始まる。

私はいつもより少し早く工場に着き、更衣室の鏡の前に立った。

鏡の中の私は、相変わらず歯並びが歪んでいる。

ビジネスYouTubeで見た「成功者の容姿」とは程遠い。

けれど、エレーナから贈られた、情熱的な真っ赤なリップを唇に乗せてみる。

歪な歯並びを隠さずに、にっと笑ってみた。


「……悪くないかな…」


更衣室を出て、製造ラインに向かう。

工場長の坂巻さんがヘラヘラしながら缶コーヒーを差し出してきた。


「よっ、富永責任者! 今日も頼むぜ」


「坂巻さん、その前に管理表の不備、直しておいてくださいね。陣内さんが頭を抱えてますよ。」


「おっと、手厳しいねえ!」


笑い声が混じる工場の空気。

私は作業台に向かい、1万本のネジを前にして、深く、静かに息を吸った。

椅子に腰を下ろす。

その瞬間、私の背筋が、祖父が遺したあの神社の柱のように、真っ直ぐに一本の線を描いた。

かつて心に絡み付いていた「何者かにならなければならない」という焦燥や、容姿への呪縛は、もう私を縛らない。

私は私として、この福井の小さな工場で、一万分の一の仕事を完璧に繰り返す。

その一瞬一瞬が、世界の誰かの指先を灯すと信じて。


「……よし。始めよう」


指先が動く。

迷いのない、確かな旋律を刻みながら。

私は、私の人生という名の最高傑作を、今日も1ミリずつ丁寧に作り上げていく。

少しだけ姿勢を良くして。

私は、私の場所で、今日も生きていく。

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