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指先を灯す  作者: あめたす


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第1話:沈む鋼(はがね)



午前5時30分。福井の冬の朝は、まだ重い夜の底に沈んでいる。

富永紬とみなが つむぎは、結露して白く濁った窓ガラスから伝わる冷気で目を覚ました。暖房を入れる前に、まず彼女が手を伸ばすのは、枕元で微かに光るスマートフォンだ。

画面をタップすれば、いつものように聞き慣れたビジネス系YouTuberの、明快で、それでいて刃物のように鋭い声が鼓膜を叩く。


『――いいですか、あなたの市場価値は30代で決まります。ただ言われたことをこなすだけの「歯車」として終わるのか、それとも替えのきかない「希少性」を持つ人材になるのか。今の環境に甘んじ、思考を止めている人間は、AIに淘汰されるのを待つだけの負け組です』


「……わかってる。わかってるよ」


紬は掠れた声で独り言を漏らし、暗闇の中で身を起こした。冷え切ったフローリングに足を下ろすと、感覚が麻痺するような冷たさが脳まで突き抜ける。

画面の中の男は、都心の超高層オフィスを背に、完璧にホワイトニングされた白い歯を輝かせ、自信に満ちた笑みを浮かべている。

その背後にある成功の証――「自由」「効率」「自己投資」という言葉の羅列が、紬の狭いアパートの空気をじりじりと侵食していく。

彼女は立ち上がり、壁に掛けられた古びた鏡の前に立った。

蛍光灯の紐を引くと、チカチカと不機嫌に瞬いた後、冷酷な光が32歳の現実を照らし出した。

彼女は鏡に向かって、イーッと口を横に広げた。

乱れた歯並び。重なり合った前歯の影。

以前、別の動画で「欧米では歯並びは育ちと知性の指標であり、不揃いなのは貧しさの象徴だ」と解説されていたのを観て以来、それは彼女の中で抜けない棘となっていた。


福井の田舎で、真面目に働き、堅実に生きてきたつもりだった。けれど、都会の、あるいは世界の基準から見れば、自分は「手入れもされていない、価値の低い個体」に分類されるのではないか。

視線を下げれば、そこには自分の「手」がある。

眼鏡の量産職人として10年。毎日何千本ものフレームを研磨機に当て、細かなネジを締め続け、微細な歪みを指先の感覚だけで修正してきた。

その指先は、油が染み込んで爪の際まで黒ずみ、関節は太く節くれ立ち、皮膚は象の皮のように硬くひび割れている。

ハンドクリームを塗ったところで、この「労働の痕跡」は消えない。

紬にとってこの手は、職人の誇りなどではなく、自分が報われないルーチンワークに人生を捧げていることの、残酷な証拠でしかなかった。


「……可愛げのない手」


彼女は自分の手を、そう呪いながら、冷たい水で顔を洗った。


鰐淵わにぶち眼鏡製作所の朝は、重油の匂いと、低い機械音の地鳴りで始まる。

鯖江の伝統を支える看板を掲げてはいるが、実態は古びた町工場だ。


「いいか、お前らは機械の一部だと思え。余計な感情なんて持ち込むな。0.1ミリの狂いもなく、昨日と同じものを1万本作る。それが量産職人の矜持だ」


代表取締役社長、鰐淵利幸の怒声が、工場の高い天井に反響した。

朝礼の列に並ぶ職人たちの肩は、冬の寒さとは別の理由で硬く強張っている。

原因は、工場長である坂巻の管理ミスだった。

発注されたフレームの金属素材、その配合数値を彼が誤って指示した。その結果、出荷直前の数千本のフレームに、肉眼では辛うじて見えるか見えないかという程度の、微細な「曇り」が生じていた。


「坂巻! お前のボケのせいで、どれだけの損失が出ると思ってるんだ! 納期は来週だぞ!」


社長の怒りは、坂巻の頭越しに、現場の職人全員へと飛び火した。


「それを黙って通そうとした現場の連中も同罪だ! お前ら、毎日何を考えて仕事してるんだ? いや、何も考えてないんだろうな。指示書通りに指を動かしてるだけの家畜か、お前らは!」


紬は最前列で、自分の指先をじっと見つめていた。

実は、彼女は気づいていた。数日前、ラインを流れるパーツを研磨していた際、いつもより金属の返りが僅かに鈍いことに。

指先に伝わる抵抗が、ほんの数ミクロン分、重かった。

しかし、彼女はその違和感を飲み込んだ。「工場長の指示書が絶対だ」と自分に言い聞かせ、考えることを放棄したのだ。

もしここで声を上げてラインを止めれば、全体のスケジュールが狂う。その責任を取る勇気がなかった。


「……すみませんでした。いやあ、僕の確認不足で。はは」


坂巻工場長が、白髪の混じった頭を掻きながらヘラヘラと謝る。その無責任な明るさが、紬の心を鋭く抉った。

この人は、私たちがどれだけの神経を指先に込めて削っているか、本当にわかっているのだろうか。


休憩時間、工場の隅で缶コーヒーを飲んでいると、後輩の瀬戸口有せとぐち ゆうが近づいてきた。

彼は東京の美大を出て「地方再生」というキラキラした言葉を背負ってやってきたデザイナーだ。いつも最新のガジェットを使いこなし、紬が憧れるビジネスYouTubeの世界を地で行くような男だ。


「富永さん、まあそんなに落ち込まないでくださいよ。社長の怒りなんて、ただの昭和の残響ですから。どっちみち、僕らがやってるような量産なんて、あと数年もすればAIと3Dプリンターに代わられる職種ですよ。怒られるだけ時間の無駄っす」


瀬戸口はスマートウォッチの通知を確認しながら、無邪気な残酷さで正論を吐く。

画面の中のYouTuberと同じ論理。

積み上げてきた10年、磨き上げてきた指先の感覚。それが、時代の波一つで「不要なコスト」として切り捨てられていく。

紬は、ひび割れた親指の腹を、もう片方の手で強く圧した。鋭い痛みが走り、それが唯一の、自分がここにいる証明のように感じられた。


午後7時。

仕事を終え、一人暮らしのアパートに戻った紬を待っていたのは、暖房の効いていない、冷え切った部屋だった。

バッグを床に放り出す。

いつもなら、ここでまたYouTubeを再生する。「30代で人生を逆転させるスキル」「副業で月5万稼ぐ方法」。画面の中の成功者たちの言葉を浴びることで、自分がまだ「あっち側」へ行ける可能性があると信じ込もうとする。それは彼女にとって、福井の静かな工場のルーチンワークに飲み込まれないための、唯一の精神安定剤だった。

けれど、今日ばかりは、その青白い光を浴びる気力が湧かなかった。

鏡の中の歯並びの悪い自分、ボロボロの手、そして「家畜」と呼ばれても言い返せなかった自分。


「……消えたい」


ぽつりと漏れた言葉が、誰もいない部屋に虚しく響いた。

消えたい。でも、死ぬ勇気があるわけじゃない。ただ、今の自分を構成している全ての要素――名前、年齢、職歴、そしてこの痛みから、一瞬でもいいから逃げ出したかった。

紬は鞄の中にあったスマホを掴み、台所にある500mlのペットボトルの水を一本だけ手に取った。上着を羽織るのも忘れ、サンダルに近い靴を突っかけて外へ出た。

目的はない。

ただ、ここではないどこか遠くへ。

夜の冷気が、肺の奥まで突き刺さる。

歩道を進むにつれ、街灯の数はまばらになり、家々の窓から漏れる生活の光が遠ざかっていく。

YouTubeの声も聞こえない、機械の唸り声もしない。聞こえるのは、自分の不揃いな呼吸の音と、ペットボトルの中で揺れる水の音だけだった。

紬は、現実逃避するように、暗い山道へと続く坂を登り始めた。

背後の街の灯りが、まるで沈みゆく船のように小さくなっていく。


「どこまで行けば、私は私を許せるんだろう」


その問いに答える者はなく、冬の夜風が彼女の薄いシャツを激しく揺らした。

彼女の指先は、凍えそうに冷たくなっていた。

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