第9話:凋落の果てと、冷徹な対価
結界の外では、地獄のような光景が広がっていた。
聖女というメッキが剥がれ落ち、老婆のように老け込んだセフィラは、砂の上に這いつくばって泣き叫んでいる。
そして、その隣でジュリアンは、泥だらけの騎士団を背に、震える手で結界の壁を擦っていた。
「エレナ……頼む、エレナ! 戻ってきてくれ! 君がいなければ、帝国はもう保たないんだ!」
その声には、かつての傲慢さはひとかけらもなかった。
あるのは、すべてを失う恐怖に支配された、一人の無力な男の哀願だけだ。
私はテラスの椅子に腰掛け、ライゼルが新たに淹れてくれた温かいお茶の三口目を楽しんだ。
一口目、二口目と同じく、その香りは身体を芯から解きほぐしてくれる。
隣ではライゼルが、私の髪を慈しむように指で梳きながら、冷ややかな金の瞳を結界の外へ向けている。
「主よ。あの男、まだお前の慈悲を乞うているぞ。虫酸が走る」
「ええ。でも、そろそろ『精算』をしてもいい頃合いね、ライゼル」
私はゆっくりと立ち上がり、空中を歩むようにして結界の境界線へと降り立った。
ガラスの靴が微かな光を放ち、私の歩みに合わせて足元には清浄な水が湧き出す。
私の姿を見たジュリアンが、パッと顔を輝かせた。
「エレナ! ああ、やはり君は優しい人だ。僕を許して、国を救ってくれるんだね!?」
「勘違いしないでください、ジュリアン殿下」
私は冷徹な声を響かせた。
その一言で、ジュリアンの希望に満ちた表情が凍りつく。
「私がここに顔を出したのは、あなたを救うためではありません。私の国の国民たちが、帝国のせいでこれ以上不利益を被らないよう、取引をするためです」
「取、取引……?」
「ええ。帝国に残っている善良な民や、不当に虐げられている精霊術師たち。彼らをすべて解放し、私の国へ移住させる許可を出しなさい。それが一つ目の条件です」
私は指を一本立てた。
ジュリアンは呆然とした顔で私を見上げている。
「そんなことをしたら、帝国の労働力は……」
「拒否する権利が自分にあると思っているのですか?」
私が目を細めると、私の背後でライゼルが、巨大な黒い雷を指先に集めた。
大気が震え、騎士団の馬たちが恐慌状態に陥る。
「……わ、分かった。分かったから、その力を収めてくれ! 許可する、すべて許可する!」
「よろしい。二つ目の条件。――あなた、ジュリアン・バルデルの廃嫡。および、セフィラの国外追放。この二つを即座に帝国議会に認めさせなさい」
「なっ……! 僕を皇太子から引きずり下ろすというのか!? この僕を!」
ジュリアンが絶叫する。
けれど、背後に控えていた騎士団の顔ぶれを見て、彼は絶望した。
騎士たちは、自分たちを見捨てて暴走させた皇太子に、もはや忠誠心など抱いていない。
彼らの瞳には、「自分たちが生き残るために、この無能な皇太子を差し出すべきだ」という冷酷な計算が浮かんでいた。
「殿下……いえ、元殿下。国民を飢えさせ、精霊の愛し子を追放したあなたの責任は重い」
騎士団長が、静かに剣を納めて言った。
それは、帝国における実質的なクーデターの瞬間だった。
「ひいっ……! 嫌だ、私は聖女よ! 捨てないで、ジュリアン様!」
老け込んだ姿で縋り付くセフィラを、ジュリアンは力任せに蹴り飛ばした。
「お前のせいだ! お前が僕を唆したからだ!」
醜いなすりつけ合い。
かつて愛を誓い合ったはずの二人の成れ果ては、あまりにも無惨だった。
「……もう十分よ」
私は興味を失い、背を向けた。
これから帝国は、私の提案した条件を呑むことで、かろうじて滅亡を免れるだろう。
けれど、そこにかつての栄華はない。
精霊たちに見放され、私の加護を失った土地は、長い年月をかけて償い続けなければならない。
ジュリアンは皇太子としての地位を剥奪され、かつて私を捨てた「嘆きの荒野」の、さらにその先の辺境へと追いやられることが決まった。
そこは、精霊王の結界の外側。
私の奇跡が届かない、本当の「死の大地」だ。
「エレナ! 待ってくれ! 愛しているんだ! 本当は、ずっと君だけを――」
遠ざかる彼の叫びを、ライゼルが指先一つで遮断した。
「二度と、その汚らわしい言葉を主に向けさせるな」
ライゼルの冷たい声が響き、結界はより強固な輝きを帯びて閉ざされた。
私は再び、ライゼルの手を取った。
彼の大きな掌は温かく、私の心を静かに満たしてくれる。
「主よ。これでようやく、煩わしい羽虫もいなくなったな」
「そうね。……ライゼル、宮殿に戻ったら、少しだけ庭を散歩しましょう。新しく植えた黄金の果実が、もうすぐ食べ頃になるわ」
「ああ。お前の歩く場所すべてに、俺が光を敷き詰めよう」
私は一度も振り返ることなく、光溢れる我が家へと帰っていった。
主体的に切り開いたこの道の先に、もう過去の影は必要ない。
明日からは、帝国から解放された多くの人々がこの地にやってくる。
私の国、私の人生。
その本当の始まりを告げるように、空には見たこともないほど大きな虹が架かっていた。




