第8話:偽聖女の焦燥と、真実の断罪
結界の向こう側で、ジュリアンが喉を枯らして叫んでいる。
しかし、精霊たちが音を遮断している今の私にとって、それは無声映画の滑稽な一場面に過ぎない。
私は、ライゼルが淹れてくれた温かいお茶の二口目をゆっくりと楽しみ、香りに目を細めた。
「エレナ、あのような無様をいつまで見物するつもりだ? 俺が指を弾けば、あの男も、横で喚いている女も、塵一つ残さず消せるのだが」
ライゼルは私の向かい側の席で、不機嫌そうに金の瞳を細めた。
彼にとって、私の視界に「不純物」が入っていること自体が許しがたいことなのだろう。
「いいえ、ライゼル。あの子がどう動くか、少し興味があるの」
私の視線の先では、地面に崩れていたセフィラが、狂ったような形相で立ち上がっていた。
彼女は震える手で、胸元から大きな宝石を取り出す。
それはバルデル帝国の国宝であり、最高級の「太陽の精霊石」だった。
(……それを持ってきていたのね、セフィラ)
彼女はそれを高く掲げ、何かを必死に唱え始めた。
おそらく、その強大な魔力を使って結界を破壊し、自分が「本物の聖女」であることを証明しようとしているのだろう。
セフィラが精霊石に無理やり魔力を注ぎ込むと、石は禍々しいまでの赤い光を放ち始めた。
しかし、それを見たライゼルが鼻で笑う。
「愚かな。精霊の意志を無視し、力だけを搾り取ろうとするか。あれでは石に封じられた精霊が怒り狂うだけだぞ」
ライゼルの言葉通りだった。
セフィラの掲げた精霊石は、美しい光を放つどころか、ひび割れ、制御不能なエネルギーを周囲に撒き散らし始めた。
「な、何よこれ! 私の言うことを聞きなさい! 私は聖女なのよ!」
セフィラの悲鳴が、衝撃波となって結界にぶつかる。
バルコニーから見下ろす私の目には、精霊石の中に閉じ込められた下位精霊たちが、苦痛に悶え、暴走していく姿がはっきりと見えた。
このままでは、彼女自身だけでなく、背後にいる騎士団まで爆発に巻き込まれる。
そして何より、私の愛するこの地の木々や、収穫を待つ黄金の果実が、彼女の撒き散らす汚れた魔力で汚されてしまう。
「……ライゼル、少しだけ『掃除』をしてくるわ」
「お前が行く必要はない。俺が――」
「いいえ。これは、私が終わらせるべきことよ」
私は立ち上がり、テラスの端へと歩み出た。
ガラスの靴が水晶の床を叩き、凛とした音が響く。
私はライゼルに頼らず、自らの意志で宙に浮遊し、結界のすぐ手前まで降りていった。
私の姿に気づいたセフィラが、血走った目で私を睨みつける。
ジュリアンもまた、希望を見出したかのように、縋るような目を私に向けた。
私は無言で、暴走する精霊石へと手を伸ばした。
「……鎮まりなさい。あなたたちの嘆きは、もう十分に届きました」
私の声は、精霊たちの導きによって、吹き荒れる魔力の嵐を突き抜けて石へと届いた。
翡翠色の瞳に魔力を込め、精霊石の表面を優しくなでるように意識を集中させる。
その瞬間、世界から音が消えた。
荒れ狂っていた赤い光は、私の手に触れた瞬間に柔らかな乳白色へと変わり、静かに霧散していった。
精霊石の中にいた精霊たちは、呪縛から解き放たれ、光の粒となって空へと帰っていく。
「あ……あ、ああ……」
セフィラは、空っぽになった精霊石を手に呆然と立ち尽くした。
彼女の「奇跡」を支えていた石は、ただの色のついた石ころに成り果て、その手から零れ落ちて砕け散った。
「これが、あなたの言う『聖女の力』ですか、セフィラ」
私は冷ややかに、彼女を見下ろした。
結界の音遮断を一時的に解いた私の声が、死の間際のような静寂の中に響き渡る。
「精霊を道具としてしか見ないあなたに、彼らの愛は届かない。そして、彼らの愛を失った今のあなたに、何が残るというのです?」
「嘘……嘘よ! 私の力が、こんな……ああっ!」
セフィラは自分の手のひらを見つめ、恐怖に顔を歪めた。
精霊石の暴走を抑えきれなかった代償として、彼女の肌は急速に潤いを失い、美しかった髪はパサパサに枯れ果てていく。
自業自得のバックラッシュだ。
隣にいたジュリアンは、そんな彼女を助けるどころか、汚らわしいものを見るような目で一歩退いた。
「セ、セフィラ……お前、その姿は一体……。やはりエレナの言う通り、お前は偽物だったのか! 僕を騙していたのか!」
ジュリアンのその言葉が、私の耳には何よりも滑稽に響いた。
自分が選び、愛でていた相手が役に立たなくなった途端、全責任を押し付けて切り捨てる。
それはかつて、彼が私にしたことそのものだった。
「見苦しいですね、ジュリアン殿下」
私は二人から視線を外し、再び空へと舞い上がった。
「その方は、あなたが『無能な私』よりも価値があるとして選んだ方でしょう? どうぞ、その残骸と共に帝国へお帰りなさい。あいにく、私の国にはゴミを捨てる場所はございませんので」
私は背を向け、結界の中へと戻っていった。
背後でセフィラの絶叫と、ジュリアンの情けない弁明の声が響いていたが、もう二度と振り返ることはなかった。
水晶の宮殿に戻ると、ライゼルが少しだけ満足げな顔をして私を待っていた。
「少しは清々したか? エレナ」
「ええ。でも、お茶がすっかり冷めてしまったわ」
「気にするな。何度でも、世界で一番温かくて美味い茶を淹れてやろう」
ライゼルは私の腰を引き寄せ、慈しむように私の額に口づけをした。
帝国という過去は、今、完全に崩壊した。
明日は、より多くの新しい国民たちがこの地へ辿り着く予定だ。
私は私の人生を、私の足で、より高く、より美しい場所へと進めていく。
黄金の果実が香る風の中で、私は幸せな未来だけを思い描いていた。




