第5話:楽園の噂と、新たな光
水晶の宮殿を囲む森には、今日も穏やかな風が吹いている。
つい数日前まで、ここが「死の大地」と呼ばれた荒野だったとは、今の景色を見れば誰も信じないだろう。
新しく加わった十数人の国民たちは、当初こそ精霊王ライゼルの威圧感に震えていた。
けれど、私が「彼は私の大切なパートナーだから大丈夫よ」と伝えると、彼らは恐縮しながらも、必死にこの地での生活に馴染もうと努力してくれた。
「エレナ様、見てください! 教えていただいた通りに精霊たちへ呼びかけたら、こんなに立派な大麦が!」
精霊技師団のリーダーだった初老の男性、カイルが興奮気味に私を呼んだ。
彼の目の前には、黄金色に輝く穂が、風に吹かれてさらさらと音を立てている。
帝国では、精霊石という「電池」を機械にはめ込み、強制的に成長を促していた。
けれどここでは、土の中に眠る下位精霊たちに感謝を伝え、彼らが心地よく動けるように環境を整えるだけ。
石を使わなくても、精霊との信頼関係さえあれば、大地はこれほど豊かに応えてくれるのだ。
「ええ、素晴らしいわ、カイル。精霊たちも、あなたたちが自分たちの声を聞こうとしてくれるのが嬉しいみたい」
私がそう言って微笑むと、カイルたちは感極まったように目元を拭った。
彼らは帝国で「石を起動できない欠陥品」として扱われてきた。
けれど今、彼らの瞳には、自分の力で未来を切り開く誇りが宿っている。
「……エレナ。あまり他の男に、安売りするような笑みを向けるなと言ったはずだ」
不意に、背後から冷たい気配と共にライゼルが現れた。
彼は私の肩を引き寄せ、独占欲を隠そうともせずにカイルたちを睨みつける。
カイルたちは「ひいいっ!」と声を上げ、脱兎のごとく作業に戻っていった。
「ライゼル、また怖がらせて。彼らは私の大事な国民なのよ」
「俺にとっては、お前以外の人間はすべて風景の一部だ。風景が主の時間を奪うなら、排除して当然だろう」
ライゼルは相変わらず極端なことを言う。
彼は私のために、王宮にあったものより何倍も豪華な、精霊の加護が宿った純白のドレスと、疲労を回復させるガラスの靴を用意してくれた。
食事も、彼自らが厳選した最高級の食材しか口にすることを許さない。
その過保護ぶりは時々困りものだけれど、彼がどれほど私を大切に思っているかは痛いほど伝わってきた。
「ところで、ライゼル。外の様子はどうなっているのかしら?」
「お前の予想通りだ。帝国から逃げ出してきた商隊や、周辺の村々で『荒野に楽園が生まれた』という噂が、火のように広がっている」
ライゼルの言葉に、私は満足げに頷いた。
これこそが、私の狙いの一つだ。
武力で帝国を倒すのではなく、彼らが「無能」として捨てた価値を、こちらですべて拾い上げ、輝かせる。
そうすることで、帝国の基盤を内側から崩していくのだ。
「そろそろ、外からの来客を受け入れる準備をしましょう。今の私たちには、情報と、より多様な技術が必要だわ」
「好きにするがいい。お前が望むなら、この地を世界で最も豊かな場所に変えてやろう」
ライゼルが不遜に笑い、私の指先に触れる。
その瞬間、私の翡翠色の瞳に、遠く離れた場所の情景が映し出された。
それは、帝国の国境付近で立ち往生している、小さな商隊の姿だった。
彼らは「嘆きの荒野に住む女神」を一目見ようと、そして奇跡の果実を求めて、命がけで砂漠を越えようとしていた。
「通してあげて、ライゼル。ただし、悪意を持つ者は結界で弾くように」
「承知した。俺の愛し子の慈悲に感謝することだな」
数日後。
その商隊は、奇跡的にオアシスへと辿り着いた。
彼らが目にしたのは、水晶の宮殿、黄金の果実、そして精霊たちと共生する人々。
商隊の長は、私の前に跪き、震える手で差し出された「黄金の果実」を口にした。
「……お、美味しい……。こんなに力に満ちた果物、帝国の特級品でもあり得ない……!」
一口食べただけで、彼の旅の疲れは一掃され、肌には艶が戻った。
彼は確信した。
この地こそが、これからの大陸の歴史の中心になるのだと。
「女神様……どうか、この地の産物を外の世界へ運ぶ許可をいただけないでしょうか? 私たちは、命に代えてもあなたの名を世界に広めます!」
「ええ、構わないわ。ただし、私の条件は一つだけ。これを売る時は、必ずこう伝えなさい。――これは、バルデル帝国が『無能』として追放した女が作ったものだ、と」
商隊の長は、私の言葉の裏にある深い意味を悟り、深く頭を垂れた。
一方、その頃。
バルデル帝国の皇太子ジュリアンは、さらなる窮地に立たされていた。
「殿下! 王都の市場から、新鮮な食料が消えました! 代わりに、出所不明の『黄金の果実』というものが、法外な高値で取引されています!」
「何だと……? どこからそんなものが流れてきている!」
「それが……北の『嘆きの荒野』からだという噂が……」
ジュリアンの顔が、驚愕と屈辱で歪む。
彼の隣で、華美なドレスを纏ったセフィラが、震える声で叫んだ。
「嘘よ! あそこは精霊に見放された、呪われた土地のはずよ! きっと、あの悪女エレナが何か卑怯な術を……!」
セフィラの声は虚しく響くだけだった。
彼女がどんなに豪華な精霊石を使っても、今の帝国では、かつての半分も花を咲かせることはできない。
かつて私が一人で支えていた国のバランスは、完全に崩壊していた。
人々は飢え、精霊石は枯渇し、帝国の権威は砂の城のように脆く崩れようとしている。
私は宮殿のテラスから、黄金の穂が揺れる大地を見つめた。
手には、ライゼルが淹れてくれた温かいお茶。
一口すすると、身体の芯から癒やされていく。
「ジュリアン、セフィラ。あなたたちが私に与えた絶望は、今、最高のカタルシスとなって私を潤しているわ」
私は主体的に、この地を選んだ。
そして今、この地は私の意志に応え、世界を塗り替えようとしている。
物語は、まだ始まったばかりだ。




