第4話:崩れゆく帝国と、荒野の招かれざる客
バルデル帝国の王宮は、かつての輝きを失い、冷たい静寂と焦燥感に包まれていた。
磨き上げられていたはずの大理石の床は、精霊の加護を失ってくすみ、あちこちに亀裂が入っている。
「……冷たい。この茶はどうしたのだ! 温め直してこい!」
執務室に、ジュリアンの怒声が響き渡った。
差し出されたティーカップを、彼は乱暴にテーブルへ叩きつける。
かつての帝国なら、精霊石を組み込んだ給湯器が、いつでも完璧な温度の湯を用意していた。
しかし今、精霊石の出力は著しく低下し、湯を沸かすことさえままならない。
「も、申し訳ございません。厨房の精霊石が、今朝また一つ砕けてしまいまして……」
震える侍女をジュリアンは睨みつけ、苛立たしげに髪をかき上げた。
彼の顔からはかつての余裕が消え、目の下には濃い隈が浮き出ている。
「セフィラはどうした! 聖女として祈りを捧げているのではないのか!」
「それが……セフィラ様は、連日の祈祷で疲れが溜まっているとのことで、自室にお籠もりです」
「役立たずめ……!」
ジュリアンは低く毒づいた。
彼がエレナを捨ててまで選んだ「聖女」は、今や何の助けにもなっていない。
それどころか、彼女が「祈り」と称して贅沢な精霊石を大量消費するたびに、国庫と精霊の資源は目に見えて削られていた。
一方、その頃。
かつての「嘆きの荒野」は、もはやその名に相応しくない場所へと変貌を遂げていた。
「わあ……本当に、緑が広がっているわ」
私は水晶の宮殿のテラスから、眼下に広がる景色を眺めていた。
第3話で私が力を解放したあの日から、緑の絨毯はさらにその面積を広げている。
黄金の果実が実る森には、どこから嗅ぎつけたのか、小さな小鳥や精霊たちが集まり、賑やかなさえずりを響かせていた。
「主よ。境界線に、薄汚いネズミ共が迷い込んだようだぞ」
背後から、ライゼルが音もなく近づき、私の腰に手を回した。
彼の金の瞳は、遥か遠く、オアシスの端を見据えている。
「ネズミ? 魔物かしら」
「いいや、人間だ。バルデル帝国の騎士の成れの果てか、あるいは追放された罪人か。どのみち、お前の平穏を乱すなら、俺が今すぐ砂に変えてやろう」
ライゼルは当然のように物騒なことを口にする。
相変わらずの過保護ぶりだが、私は彼の腕をそっと叩いて制した。
「待って、ライゼル。私が直接会って決めるわ。彼らがもし、不当に虐げられた人々なら、私の国には必要な力になるかもしれないもの」
「……お前は甘いな。だが、それがお前の良さでもある」
ライゼルは不満げに鼻を鳴らしたが、私の意志を尊重してか、すぐに空間を転移させる準備を整えた。
私たちが現れたのは、オアシスの入り口。
そこには、泥と砂にまみれた十数人の一団がいた。
彼らは疲れ果て、今にも崩れ落ちそうな足取りで、奇跡のように現れた緑の地を見つめて立ち尽くしている。
「あ……ああ、女神様だ……」
一人の若い男が、私の姿を見て膝をついた。
彼の服には、見覚えのある紋章が刻まれている。
バルデル帝国の、精霊技師団の制服だ。
「あなたたちは、バルデルの人ね。なぜこんな危険な場所に?」
私が問いかけると、リーダー格と思われる初老の男性が、掠れた声で答えた。
「私たちは……無能の烙印を押され、帝国を追われた者たちです。精霊石が使えなくなった責任を押し付けられ、家も家族も奪われました。死を覚悟して北へ逃げてきましたが、まさかこんな楽園があるなんて……」
彼の言葉に、胸の奥がチリりと痛んだ。
ジュリアンは、自分が招いた不利益を、立場の弱い者たちに押し付けているのだ。
かつての私にそうしたように。
「ここはもう、帝国の土地ではありません。私の治める、新しい国です」
私は一歩前に出た。
ガラスの靴が砂を踏む音が、静寂の中に凛と響く。
「私の名はエレナ。もしあなたたちが、二度と誰にも屈せず、自らの意志でこの地を耕すと言うのなら、歓迎しましょう。ここには、あなたたちを縛る不当な評価も、役立たずと呼ぶ声もありません」
私がそう告げた瞬間、周囲の精霊たちが一斉に舞い上がり、彼らを祝福するように光の粉を降らせた。
黄金の果実の木から、熟した実が一つ、男の目の前にぽとりと落ちる。
「礼を言え、虫ケラ共。エレナの情けで命を拾ったのだ」
ライゼルが冷ややかに言い放つが、男たちはそれを怖がる余裕さえなく、涙を流して地に頭をこすりつけた。
「ありがとうございます……ありがとうございます! 恩に報います、エレナ様!」
こうして、私の国に初めての「国民」が加わった。
彼らは帝国で培った知識と技術を持っていた。
ただ、精霊石という道具に頼り切る現在の帝国のやり方に馴染めず、「石を使わずに精霊と対話しようとした」ことで異端とされた者たちだったのだ。
「ライゼル、彼らに住処と食事を用意してあげて」
「……チッ。精霊たちにやらせる。お前は俺の隣で、ゆっくりスープでも飲んでいろ」
ライゼルは文句を言いながらも、指先一つで木々を組み替え、彼らのための簡素だが頑丈な住居を仕立て上げていく。
その魔法のような光景に、新国民たちは驚愕の声を上げていた。
私は確信した。
私が手に入れたのは、ただの土地ではない。
虐げられ、主体性を奪われていた才能たちが、自由に花開くための場所なのだ。
一方、バルデル帝国の執務室。
ジュリアンの元に、衝撃の報告が飛び込んでいた。
「報告します! 嘆きの荒野に向かった調査隊が、巨大な『虹色の結界』を確認! その内部には、帝国を凌ぐほどの魔力反応と、広大な森林が存在しているとのことです!」
「……何だと? 荒野に森だと!? そんな馬鹿なことがあるか!」
ジュリアンは机を叩き、立ち上がった。
彼の心に、言いようのない不安がよぎる。
あの無能な女を捨ててから、国は傾く一方だ。
対して、あの女が向かったはずの死の大地で、信じられない奇跡が起きている。
「まさか……いや、あり得ん。あいつは石一つ動かせない無能だったはずだ」
ジュリアンは否定するように首を振った。
けれど、その瞳には明らかな動揺が走っていた。
私は、もう振り返らない。
彼らが失ったものの大きさに絶望する頃、私はこの大地で、誰も見たことがないほど強くて美しい国を築いてみせる。
黄金の果実を国民たちに分け与えながら、私は青空を見上げた。
精霊たちの歌声は、どこまでも高く、澄み渡っていた。




