第3話:精霊王の過剰な求愛と、黄金の果実
まどろみの中で、私はこの上なく心地よい感触に包まれていた。
バルデル帝国の王宮で使っていた、最高級の雲を詰め込んだという触れ込みの寝具よりも、ずっと柔らかく、そして温かい。
ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、透き通った水晶の天井だった。
外光がプリズムのように分散し、柔らかな七色の光が部屋を満たしている。
そうだ、ここは王都ではない。
私がライゼルと共に作り上げた、嘆きの荒野の「精霊宮」なのだ。
「……おはよう、エレナ。まだ眠っていても良かったのだぞ」
すぐ傍らから、低く甘い声が聞こえた。
驚いて横を向くと、そこには漆黒の髪を枕に散らし、肘をついて私を見つめるライゼルがいた。
金の瞳が、熱っぽく私を射抜いている。
「ライゼル!? どうして私のベッドに入っているのよ」
「主の目覚めを一番近くで守るのが、契約者の務めだろう。それに……俺の愛し子が、他の精霊たちに唆されてどこかへ行ってしまわないか、心配でな」
彼は平然と言い放ち、私の銀髪を一房掬い上げて、その先端に唇を寄せた。
王都にいた頃のジュリアンは、私に指一本触れることさえ厭わしそうにしていたというのに。
この精霊王の甘やかし方は、あまりにも極端すぎる。
「他の精霊たちって、あの子たちのこと?」
私が指差した先には、部屋の隅で所在なげに浮遊している小さな光の粒たちがいた。
下位の風精霊や水精霊たちだ。
彼らは私に構ってほしくてウズウズしているようだが、ライゼルの放つ威圧感に気圧されて近寄れないらしい。
「ふふ、ごめんなさいね。おはよう、みんな」
私が微笑むと、精霊たちは一斉に輝きを増し、私の周りをくるくると飛び回った。
彼らが動くたびに、部屋の中に花の香りと、生命力に満ちた爽やかな風が吹き抜ける。
「ライゼル、朝食にしましょう。お腹が空いたわ」
「ああ。お前の身体はまだ人間だ。最高級の魔力を含んだ食事を用意させてある」
彼にエスコートされ、バルコニーに設置されたテーブルへと向かう。
前夜、ボロボロだった私の靴は、ライゼルの魔力によって美しいガラスの靴に作り替えられていた。
一歩歩くごとに、カチリと清廉な音が響き、足元から力が湧いてくるのを感じる。
テーブルの上に並べられていたのは、王宮でも見たことがないような瑞々しい果物や、黄金色に輝くスープだった。
「これは……?」
「この地の地下深くから汲み上げた霊水と、俺が先ほど育てた果実だ。バルデルの痩せた土地で採れるスカスカの野菜とは訳が違う」
一口、スープを口に運ぶ。
その瞬間、身体中の細胞が歓喜の声を上げるような感覚に襲われた。
濃厚な旨味と、純粋な魔力が身体の隅々まで染み渡っていく。
ジュリアンの好みだった薄味の料理に無理やり合わせていた日々が、遠い昔のことのようだ。
「美味しい……。本当に、びっくりするくらい」
「そうか。ならば、明日からは大陸中の美味をここへ集めよう。必要なら、あの傲慢な帝国ごと奪ってきてもいいが?」
「それは結構よ。あんな国、もう興味もないもの」
私はスープを飲み干し、窓の外に広がるオアシスを見渡した。
一晩で作り上げられた緑の地。
けれど、まだここは私とライゼル、そして精霊たちだけの箱庭に過ぎない。
私は、主体的に生きると決めたのだ。
ただ守られるだけの存在に戻るつもりはない。
「ライゼル。私、この地に国を作りたいの」
「国だと? 俺とお前がいれば、そんな煩わしいものは不要だろう」
ライゼルは不満げに眉を寄せた。
彼は基本的に、私以外の人間には興味がないのだ。
「いいえ。私のように、居場所を失った者や、精霊の声を聞きながらも迫害されている者たちがいるはずよ。そういう人たちが、自分らしく笑って暮らせる場所を作りたいの。それはきっと、私にしかできないことだから」
翡翠色の瞳に強い決意を込めて、私は彼を見据えた。
ライゼルはしばらく沈黙していたが、やがて呆れたように、けれど愛おしそうに溜息をついた。
「……お前がそう望むなら、止めはしない。俺の愛し子が、ただの公爵夫人ではなく、一国の女帝として君臨する姿も、悪くはないだろう」
彼は私の手を取り、その甲に誓いの接吻を落とした。
「よし、決まりね。まずはこのオアシスの外にも、緑を広げていきましょう」
私は立ち上がり、バルコニーから眼下の大地へと手をかざした。
かつては「嘆きの荒野」と呼ばれた赤茶けた大地。
けれど今の私には、土の中に眠る精霊たちの小さな声が聞こえる。
彼らは、呼び覚まされるのを待っているのだ。
私が意識を集中させ、体内の魔力を大地へと流し込む。
ドクン、という鼓動のような振動が足元から伝わった。
次の瞬間、オアシスの境界線を越えて、爆発的な勢いで緑が広がっていった。
枯れ果てた砂の中から力強い芽が吹き出し、瞬く間に巨木へと成長する。
そこには、栄養満点の「黄金の果実」が鈴なりに実った。
「見て、ライゼル! こんなにたくさん!」
「ああ、美しい。だが、これだけの魔力を一度に使って、身体に障っていないか?」
ライゼルはすぐに私の肩を抱き寄せ、体調を確認するように顔を近づけてくる。
相変わらずの過保護ぶりだが、その温かさが今は心地よかった。
その頃、バルデル帝国では――。
私が加護を引き上げた影響が、いよいよ本格化していた。
王宮の井戸は枯れ、温室の植物は一夜にして全滅。
さらには、国中の精霊石の出力が安定せず、あちこちで小規模な爆発や機能停止が相次いでいた。
「……どういうことだ! なぜセフィラの祈りが通じない!」
ジュリアンの怒号が、冷え切った執務室に響き渡る。
彼の目の前では、聖女を自称するセフィラが、青ざめた顔で壊れた精霊石を握りしめていた。
「そ、そんなはずは……。私は選ばれた聖女なのに……っ!」
彼らはまだ気づいていない。
自分たちが手放したのが、単なる「無能な令嬢」ではなく、世界の理そのものを操る存在だったということに。
私は黄金に輝く果実を一つ手に取り、その甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
復讐のために動くつもりはない。
けれど、私が幸せになればなるほど、彼らは自滅していく。
それが、私に泥を投げつけた者たちへの、最高のリベンジになるのだから。
「さあ、始めましょう。私の、新しい国の物語を」
澄み渡る青空の下、私は力強く微笑んだ。




